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存在を消された『名無し』の私は、姫である双子の姉の代わりに隣国の狼王に嫁ぐことになりました。

作者: 蜜柑

 日が昇る前に目を覚ますと、私は硬いベッドから起き上がり、水壺から水を汲み、冷たい水で顔を洗うと、黒い布を口の周りに巻く。鏡を見ると目だけが出ている。この布を巻かないと、私は部屋の外に出られない。


 ――私は、いてはいけない存在だからだ。


 私には名前がない。私は、この国ルピア王国の姫――リーゼロッテの双子の妹だ。この国では双子は不吉なものとされている。王族に双子が生まれたのであれば、片方は殺されて当然――。


「でも私は生かしてもらえているから、幸せ」


 何度も父親や母親やリーゼロッテに言われた言葉を鏡の中の自分に向かって繰り返す。

 鏡の中の私の額には、親指ほどの大きさの十字の痣がある。『王家の紋章』の焼き印の痕だ。王家が公認した工芸品に押される焼き印の痕。


 これを押されたのはいくつの時だったか忘れたけれど、とても熱くて痛かったことは覚えている。


『わたしと同じ顔なんて気持ち悪い』


 そのリーゼロッテの一言で、私の両親は私にこの焼き印を入れた。

 私は彼らにとっては、人ではなく所有物に過ぎない。


 私は部屋の外に出ると、ランプを手に階段を下り、城の庭にある井戸に向かう。

 かめに水を汲み、浴室を満たすまで何度も往復し、次に薪を運んで火を起こす。

 リーゼロッテの朝の入浴のためだ。


 そうしているとあっという間に夜が明けて空が白んで来た。


「“口無し”、まだお風呂の準備ができていないの?」


 燃える火に息を吹き入れていると、後ろから声が飛んできた。

 リーゼロッテの侍女たちだ。

 言葉を話すことを許されていない私は「はい」と無言で頷く。


「早くして頂戴。リーゼロッテ様がもうすぐ目を覚ましてしまうわ」


 彼女たちはいらいらした様子でそう言ってから、言葉を続ける。


「それが済んだら、私たちの部屋のシーツを変えて、洗い場へ持って行って洗濯してね。最近暑くなって寝苦しいから、変えないと気持ちが悪いの」


 彼女たちの部屋のシーツは2日前に交換したばかりなのに……。

 思わずため息を吐いた。数人分のシーツ交換と洗濯は重労働だ。


「――ため息? “口無し”のくせに、ため息はつけるのね」


 侍女の言葉が後ろから飛んできたが、私は薪を燃やすことに集中した。

 

 ……私がリーゼロッテの双子の妹であることを知っている人間は城内にはほとんどいない。私は、どこかから拾われてきた口の利けない可哀そうな孤児とされているんだろう。

どこかの貴族の令嬢であるリーゼロッテの侍女である彼女たちが、こういう態度をとるのはきっと仕方がないことなんだろう。


 風呂を沸かし終え、侍女たちの部屋に向かい、部屋を掃除しシーツを剥がす。

 籠に入れたそれを抱えて廊下に出ようとすると、向かいから、風呂に入り終え身支度を整えたリーゼロッテが侍女を従え歩いてくるのが見えた。


 さっと廊下の隅に寄り、頭を下げる。


「――あら、“口無し”じゃない。そんな煤だらけの服で掃除をしていたの? 逆に部屋が汚れてしまうじゃない」


 私を見て、リーゼロッテは顔をしかめた。

 綺麗に結われた金色の髪に緑の瞳。傷のない額はしかめ顔でも綺麗だ。

 一方の私は煤で裾が黒くなった粗末な服を着て、ぼうっとそれを見ている。


「何をつっ立っているの。――謝りなさい。そして、着替えて掃除をやり直して」


 リーゼロッテはさらに顔をしかめた。

 私ははっとして深く頭を下げた。言葉を話すことは許されていないから、こうやって頭を下げるしかない。


「わかったら、さっさと動きなさい」


 しっしと手を動かしたので、私はそそくさとシーツを抱えて洗い場へと走った。


 日が暮れる頃、1日の仕事を終え部屋へ戻ると、お父様の側近の男が部屋の前に立っていた。私は首を傾げる。いつもなら、彼は部屋の中に冷たいパンとスープを置いて出て行くだけなのに、今日は私を待っていた……?


「国王陛下がお呼びだ。私についてこい」


 彼はそう言うと、暗い廊下を歩き出した。


 国王側近の男が連れて行った先は、お父様のいる玉座の間だった。

 お父様・お母様は玉座に腰掛け、その横にリーゼロッテが立っている。

 私の家族は私をじっと見据えていた。


「陛下、連れて参りました」


 私は彼と一緒に膝をついて頭を垂れた。


「――よく来たな。喋って良いぞ」


 お父様の言葉に私は口に巻いた黒い布を外す。

 『喋って良い』と言われても、口を動かして声を出すのが久しぶりすぎるうえ、ここ数年口をきいていない父親を前に何を言っていいのかわからなかった。

 リーゼロッテが私を睨みながら厳しい声で叫んだ。


「お父様が『喋って良い』っておっしゃっているのよ。何か言いなさい」


「リーゼや、そんな口の利き方をするのではありません」


 お母様がたしなめるように言うと、双子の姉は口を尖らせた。


「だってお母様、あの布をとると私と同じ顔が出てきて気味が悪いんだもの。――“口無し”! はやくご挨拶くらいしなさい」


 挨拶……、挨拶……。

 私は何とか口を動かした。


「――――お久しぶりでございます、陛下。何の御用でしょうか」 


 昔、『お父様』と呼んで側近の男に殴られたことがある。

 私はお父様の娘であってはならないからだ。 

 お父様は「うむ」と頷いて言葉を続けた。


「お前にはリーゼロッテとして、隣国テネスに嫁いでもらう」


 ぽかん、と口を開けてしまった。

 私がリーゼロッテとして隣国に嫁ぐ?

 お父様は何を言っているのだろう。

 そのまま、言葉は続く。


「――隣国テネスの王宮が獣人に乗っ取られたことは――知らないだろうな」


「存じておりません」


 私は首を振る。

 獣人は、獣のような耳や尾を持った人間だ。力が強く、頑丈で、肉体労働用の奴隷として使役されている。城を訪れる行商人の荷物を引く獣の耳の生えた人間を時折見かけることがある。皆、私のように額や頬、首などに焼き印を押された痕を持っている。


「テネスは大農園を多く持ち、多数の獣人を使役していた。その獣人どもが蜂起し、王族を殺し王宮を乗っ取り、狼を新たな国王に据え『テネスは自分たち獣人の国である』と宣言した。――あまつさえ、国として認めろと、その印として我が国の姫であるリーゼロッテを国王の妻として寄こせと言ってきておる」


 お父様は深いため息を吐いた。


「獣人ごときがリーゼロッテを妻に欲しいなどとは、許されるべきことではない――しかし、あいつらはものの数日でテネスの王宮を占拠しおった。獣人は凶暴だ。我が国に害があっては困る。そこで――、言われた通り、妻を差し出すことにした。お前だ」


 お父様は私を見据えた。


「周辺国に協力を仰ぎ、準備が万全に整い次第テネスへ侵攻を行う。それまでの時間稼ぎとして、お前にはリーゼロッテの代わりとして、テネスへ行ってもらう」


「私に代わりが、務まりますでしょうか」


 無理な話だ、と思った。

 読み書きや作法は幼いころ教えられたけれど、それからはずっと城の下働きばかりしている。おまけに顔に傷もある。姫として大切にされるリーゼロッテのように振る舞うことなんて、私にできるはずがない。


「あなたに私の代わりが務まるわけないでしょう」


 リーゼロッテの嘲笑したような声が聞こえた。

 彼女はつかつかと私に近寄ってくると、私の顔を持ち上げて微笑んだ。


「お父様の言ったことが聞こえなかったの? 『時間稼ぎ』をしろと言っているの。――獣人の男というのは、粗暴で色狂いだそうよ。女と見れば、それこそ獣のように襲い掛かるとか――。私の代わりに、大事にされてきてね」


 私は顔を伏せたまま、お父様に聞いた。


「それで――陛下がテネスを侵攻したとき、私はどうなるのでしょうか」


 リーゼロッテの代わりにテネスの王宮に行き、そこへお父様たちが侵攻してくるのであれば、その時私はどうなるんだろう。

 お父様はにっこりと微笑んだ。


「役目を果たしてくれれば、お前には名を与え、城下街で生活できるようにしてやろう。――針子の仕事が好きなようだから、店を与えてやっても良い」


 城下町、という言葉に私の心は踊った。

 城の城下町には何度かリーゼロッテの侍女について出たことがある。

 賑やかな人の声に華やかなお店。あそこで暮らすことができたならどんなに良いか。


 私は「わかりました」と頷いた。

 どちらにせよ、それ以外の回答をする権利は私にはない。

 お父様は満足そうに微笑んだ。


「『双子は災いをもたらす』という占い師の言葉に背き、お前を今まで生かしておいた甲斐があった。我々のため、仕事をしてくれ」


 それからひと月後、輿こし入れは、とてもひそやかに行われた。

 今回私が隣国に行くというのは公には秘密なので仕方がない。


 このひと月は、今までで一番幸せだった。

 私はリーゼロッテに比べて痩せすぎだったので、曲りなりにも姫に見えるよう、雑用を免除され、他の者の目に触れないよう、城の中でお父様たちが暮らす棟の一室に移動し、温かい美味しい食事を与えられた。


“口無し”は病気で寝込んでいるということになったらしい。

「あれがいないと、仕事が増えて面倒だわ。死なれると困るわね」とリーゼロッテの侍女たちが廊下で愚痴っているのが聞こえた。


 私がリーゼロッテの双子の妹だと知る、お母様の侍女のタニアが私の髪や肌の手入れを行い、額の傷の痕を隠すような化粧のやり方を教えてくれた。彼女は、隣国へもついてくるそうだ。


「まぁ、まがい物も磨けば本物のよう。見てください、姫様」


 私を飾り立てたタニアはリーゼロッテを部屋に呼んで見せた。


「――気持ち悪い。どうして同じ顔をしているの」


 リーゼロッテは顔をしかめると、水をつけたタオルで私の額を拭った。

 額の十字の痕が表に出て、私は思わず前髪を降ろした。

 

「隠さないの。それはあなたが私のまがい物である証拠なんだから」


 姉は満足げに笑った。


 そんな一月のことを思い出しながら、白い婚礼ドレスに身を包み、タニアと共に地味な馬車に揺られて国境沿いへ向かって走っていた。

 

 城のある王都から国境までは3日ほど。使用人のような格好で城を出発し、途中別荘の館に2泊して今日に至る。今着ている白い衣装には、朝出発する時に着替えた。


 国境あたりに隣国から迎えが来るらしい。


 隣国を乗っ取ったというその獣人の王を、お父様たちは侮蔑の色を込めて『狼王』と呼んでいた。


 ――どんな人かしら。


 私は王都で商人の荷車を引いていた獣人の男を思い出した。

 その男は顔や体は人間だったが、腕にはふさふさした毛が生えていて、頭に耳とズボンから尻尾が生えていた。同じような感じだろうか。


 『粗暴で色狂いだそうよ』というリーゼロッテの言葉を思い出す。


 粗暴は嫌だな、と思う。痛い思いをするのは嫌だ。

 そうでなければ、色狂いというのは別にどうでも良い気もした。


 求められないよりは求められる方が良いだろう。

 誰からも何も求められないことことが一番つらい。痛いよりももっと。

 自分という存在が消えてなくなってしまうような気がするから。

 だから、求められればそれはそれで良いかと思う。


「――リーゼロッテ様」


 そんなことを考えていたら、タニアが急に名前を呼んだので、私は咄嗟に自分が呼ばれたと気づかず「あ」と間抜けな声を上げた。


 そうすると、ぴしゃりと手の甲を叩かれた。


「あなたは、リーゼロッテ様なのです。呼ばれたらすぐに反応なさい」


「――申し訳ありません」


 頭を下げるとまた手の甲を叩かれる。


「姫がそのような態度を召使に対してとらないでください」


 では、どう返事をするのが正解だったんだろうか。私は黙り込んで、ため息をついた。


 畑が続く道を抜け、やがて馬車は石垣の連なる国境の門のところへ着いた。


 タニアが外へ出て門番に扉を開けさせる。


 私たちはルピア王国の外へと出た。


 門の外は何もない草原に道が続いている。その道の先に、馬に乗った兵士のような人が数人と、馬車が2台見えた。1つは飾りのついた豪華な馬車だ。タニアは馬車を止めさせると、私に外に出るように促した。


「――リーゼロッテ様、外へ」


「は、はい」


 私は頷くと、彼女に手を引かれて馬車を降りた。

 

「あなたが、ルピア王国の姫君のリーゼロッテ様ですか」


 馬から降りた兵士の恰好をした一人が私たちに近づく。

 女の人だ。と私は目を見開いた。

 兵士のような恰好をしているけれど、長い茶色の髪を後ろで結っている女の人だった。

 頭には大きいふわっとした毛並みの耳が生えている。


「そうです」


「私はレオナと申します。よろしくお願いいたします」


 レオナはそう言って頭を下げると、私の手を豪華な方の馬車へと引いた。


「私も一緒に」


 そう言いかけたタニアを、レオナは後ろのもう一つの馬車の方へと案内する。


 私は豪華な馬車の階段を昇った。


「――あなたがリーゼロッテか」


 低い落ち着いた声に顔を上げると、大柄な男が私に視線を向けていた。

 鋭い青い瞳に思わずたじろいで、「……はい」と答えた。

 男は困ったような表情をして、銀色のやや長めの髪をわしゃりと掻いた。

 同じく銀色の毛の耳が髪の毛の中から生えている。

 ふわふわしていて触りたくなるような耳だった。鋭い見た目とその耳の対比に困惑して黙っていると、彼は大きく息を吐いて、私に手を伸ばした。


「そう怯えないでくれ。我々の要望に応え、遠路はるばる来て頂き、有難い。俺がえぇと、テネスの新国王……になるのか……、アーノルドと言う」


 私は差し出された手を握り返した。手のひらは人間の手だった。がっしりした指が大きく、温かかった。


「アーノルド様……、私、リーゼロッテと申します。よろしくお願いいたします」


 そう言って頭を下げると、アーノルド様は握手した手をぶんぶんと振って快活に笑った。


「様はいらない。アーノルドで良いよ」


 ……『王』と言っても、お父様とは大分雰囲気の違う人だ、と思った。

 考えてみれば当たり前かもしれない。彼はきっと奴隷身分だった『獣人』で、隣国の王宮を占拠し王を名乗っているに過ぎないのだから。


「では、アーノルドと呼ばせていただきます」


 私がそう言うと、「ありがとう」と柔らかく微笑んだ。

 こういう笑い方をする人をお城では見たことがない。

 思わず凝視すると、彼は首を傾げた。

 ――初め見た印象では、10は年が離れているかと思ったけれど、笑うと年が近いような気がしてしまう。不思議な印象の人だと感じた。

 

 アーノルドは何か言い辛そうに顎に手をやった。


「――俺の『妻』になるということで――、テネスに来ていただけるということで有難い。対外的に、テネスの立場を示すために、周辺国の王族貴族から嫁をもらうべきだ、という意見が出て、隣国の姫君であるあなたをとお父上に申し出たが――まさか承諾されるとは思わなかった」


 私は苦笑した。

 だって、私は本物の『リーゼロッテ』ではないもの。


「――お父様は大分、あなたを怖がっているようでした。数日でテネスの王宮を占拠されたとか」


「そうか」とアーノルドは笑って、それから、「ただ」と言葉を続けた。


「あなたは俺たちを怖がらないで欲しい。俺たちは、これから、テネスを平和で、平等な国にしていくつもりだ」


 平等、と口の中で呟く。

 等しく平ら。それはどういうことかしら。

 例えば、私がリーゼロッテのように暮らすこと?

 『生かされているだけ、幸運』な私が。


「そうですか」


 そう答えて黙り込むと、アーノルドは首を傾げた。


「あなたは、今回、このような形で俺たちのところに来ることになったことをどう思っている?」


「どう……?」


 どう、と聞かれても回答に困ってしまう。お父様に行けと言われたから来たまでで、他に特に思うことはない。強いて言えば、城での雑務から解放されたのは嬉しいし、役割を終えれば名前をもらえて城下町で生活をさせてもらえるというのだから、それは嬉しい。


「――嫌ではないか?」


「嫌ではないです」


 私が即答すると、アーノルドはまた笑った。


「そうか、それなら良かった」


 馬車がガタガタと揺れる。何か会話を続ける必要があるだろうか。

 聞かれたことを答える以外のやり取りをしたことがないので、何を話してよいのかわからなかった。


「――あなたのことを教えて欲しい」


 アーノルドはそう言ってこちらを見た。


「何でしょうか」


「そうだな。まず、好きなことは?」


「好きなこと……」


 リーゼロッテの好きなことは何だろうか。新しい洋服に、お茶会?

 これは私として答えるべきなのか。……わからない。


「では、好きな食べ物は?」


「――温かいものなら、何でも」


 アーノルドは笑う。


「そうだな。冷たいものより、温かいものの方がうまいのは確かだ。今日は温かい食事をたくさん用意させよう。テネスの食事は美味いぞ」


「大きな農園がたくさんあると聞いています」


「そうだ。俺たちが耕した農園だ。今の季節は果実も美味いよ。家畜も多い。ルピアではあまり羊は食べないと聞くが、こちらではよく食べる。少しクセはあるが、それが美味いよ」


「そうなんですか。食べたことが……ないですね」


「そうか。では楽しみにしていてくれ」


 馬車の中に笑い声が響く。私……人と会話ができてるわね。

 自分でも驚いて頬を触った。口を動かしすぎて、顔周りの感覚がおかしい気がする。


「……どうした?」


「いえ」と私は首を振ってから、アーノルドの先ほどの問いに答えた。

 私自身の好きなこと、


「縫物は好きです」


 洗濯や掃除や風呂焚きはそれほど好きではないけれど、縫物は量があっても苦にならなかった。リーゼロッテの侍女たちが、主人の衣装に施す刺繍の仕事を任せてくることがあったけれど、その仕事は量があっても嫌な気持ちにはならなかった。


 自分の手を動かして模様が出来上がって行く様は見ていて楽しい。

 アーノルドは一瞬何の返事だかきょとんとした顔をして、それからにっと笑った。

「それが、あなたの好きなことか」


 はい、と頷くと、感心した顔で何度も頷く。


「すごいな。俺は細かいことが苦手だ」


 頷くたびにふわふわした耳が上下するのを私は思わず凝視した。

 耳の仕組みはどうなっているんだろう。お城で見かけた獣人は腕もふさふさした毛が生えていたけれど、この人もそうなのだろうか。尻尾はどこから生えているの?そもそも、野菜も食べるのね。この人のことを知りたいという気持ちが湧いてくる。

 

「どうした?」とアーノルドがこちらを向いたので、私は俯いて、言葉を選んだ。


「あなたの、好きなことはなんですか?」


 ***


 馬車は隣国の門をくぐった。

 私は窓を開けて外の景色を眺めた。

 緑色の葉が茂った畑がどこまでも広がっていて、アーノルドと同じように耳の生えた獣人が数人その中で作業をしている。彼らは馬車に気づくと、こちらに向かって手を振った。


「好きなことは、農園の様子を見ること。好きな食べ物は、果実と肉の煮込み」


 アーノルドが「好きだ」と言っていたことを復唱すると、彼は不思議そうな顔をして、それから表情を崩した。


「覚えてくれたのか。嬉しいな」


「はい」と頷くと、彼はくつくつと笑い声を立てた。

 ――何か笑われるようなことをしただろうか。

 少し焦って、


「何か変なところがありましたか」


 と聞くと、彼は「いやいや」と手を振った。


「笑ってすまない。いや、思っていたより、面白い方だなぁと――いや、良い意味なんだ。表現が悪くてすまない」


「良い意味ですか」


 それなら良かった、とほっとすると、アーノルドはまた可笑しそうに笑った。


***


 その日は、広がる農園の中心にある大きなお屋敷に泊まった。

 この地域を治める領主の家だろうか。


 「アーノルド様、よくいらっしゃいました」


 屋敷から出てきたのはやっぱり獣人だったけれど、アーノルドのようなふさふさした尻尾ではなく、ひょろりと長い尾がズボンの後ろから出ている。


「――この地域の管轄をしている者だ」とアーノルドはその獣人を紹介した。


「リーゼロッテ様、道中問題はございませんでしたか」


 私たちの後ろについた馬車からタニアが駆け出してきて、私の横に来る。


「はい。何の問題もありません」


 私がそう答えると、タニアは周囲を見回した。屋敷周りの塀などに、ところどころ壊れた痕がある。


「この屋敷の主人は、もともとはあの獣人ではないはずです」


 タニアはアーノルドと話し込むひょろりとした尻尾の獣人を見ながらそう耳打ちした。


「元の主人の方はどちらへ」


「――彼らは、領主たちを捕らえて連れて行き、王都で裁いているそうですよ」


「裁く」


 私は言葉を繰り返した。罪人を裁いて処遇を決めることができるのは、ルピア王国ではお父様たち、国王陛下や貴族だ。アーノルドたちは貴族ではないと思うのだけれど。でも、彼は今ここの国の『王様』だというのだから、裁いて良いのか。


「そうですよ。獣人が貴族を裁くなど、許されません」


 タニアは語気を強めて囁いた。


 ***


 その屋敷で出された食事は今までに食べたことがないくらい美味しいもので、それこそお腹が膨れたのが服の上から見てわかるほど、食べてしまった。


 その様子を見て、アーノルドはまた笑った。

 

 よく笑う人だ。何がそんなに面白いのだろう、と思ったけれど、この人が笑った顔を見ているともう食べられないのに、もっと食べられるような気持ちになる。


 食後に案内された部屋はとても広くて、ベッドはふかふかだった。


「明日には王宮に着くよ。おやすみ」


 と声をかけて、アーノルドは廊下を去って行った。


***


 翌日の夕暮れ近く、私たちはテネスの王都に到着した。

 ルピアに比べてもこじんまりとした城下町だったけれど、街中には獣人の人たちや、ところどころ人間が忙しなく動き回っている。みんな馬車を視界に入れるとこちらに向かって手を振って道を空けてくれた。


 建物はやっぱりところどころ壊れた痕がある。

 ――やっぱり、大きな争いがあったんだろうか。


「――壊れている場所が多いのですね」


「そうだね。しばらく国内が混乱していたから――でも、今は大分落ち着いているから安心して良いよ。もう王宮だ」


 アーノルドはまた笑って窓の外を指差した。


 ルピアの城と違って、到着した王宮は平たい、お屋敷のような建物だった。

 馬車を降りたところで、大きな銀色と白色の毛をした狼のような大きさの犬がこちらに勢い良く駆けてきた。


 ……ふわふわしてるわ。


 思わず手を伸ばそうとすると、横でアーノルドが「待て!」と焦ったように手を出した。


 犬は大人しくその場に座る。


「悪い。怖がらないでくれ。王宮内には何頭か狼がいるけど、皆、命令を聞いて噛みつくようなことはないから」


 アーノルドが困ったように笑いながら言った。

 犬じゃなくて、狼なのね……。


「あなたが来るから奥に閉じ込めておくように言っておいたんだけど……出てきてしまったみたいだ」


「大丈夫です」


 私はそう答えると白い方の狼の頭を撫でた。

 狼も犬も変わらないのね。

 ……犬は好きだ。ルピアの城でも、門番が番犬を飼っていた。

 周りに人がいなければ、その犬に話しかけるのが日課になっていた。

 そうでもしないと言葉が本当に口から出てこなくなってしまう気がしたから。

 こちらが話しかければ、鼻を鳴らしたり返事をしてくれる賢い子だった。

 

「名前はなんですか?」

 

 そう聞くと、アーノルドは相好を崩した。


「白い方がアル、銀色の方がイオだ」


「アル、イオ、よろしく」


 そう言って拳を突き出すと、二匹は私の手の匂いを嗅いで、ワウっと一声吠えた。


その時、「ぎゃぁ」と悲鳴が上がった。

後ろからついてきたタニアが狼を見つけて上げた悲鳴だった。


「だ、大丈夫ですか!?」


 彼女は距離を保ったまま私に蒼白の表情でそう聞いた。


「大丈夫です。……とても賢いわ」


 そう答えて狼の頭を撫でた。


 ***


 案内された部屋はとても広くて、居心地の良さそうな部屋だった。

 天蓋のついたベッドもある。


「長旅、疲れただろう。ゆっくり休んでくれ。必要なことは、レオナに何でも言ってくれ」


「よろしくお願いいたします。リーゼロッテ様」


 道中、ずっと馬に乗ってついてきてくれた茶色い耳を持った、アーノルドと同じ狼の獣人だと思う女性がそう言って前に出る。


「それでは、俺はいったん失礼する。夕食の席でまた」


 アーノルドはそう言って部屋を去ろうとした。


 その手を掴むと、私は気になっていたことを聞いた。


「同じ部屋ではないのですね……?」


 広い部屋だったが、室内の調度品は一人分、という感じだった。

 アーノルドは少し驚いたような顔をして、耳を掻いた。


「――3月後にあなたのお父上や他国の来賓を招いて婚礼の式を行う。それまで、こちらでの暮らしに慣れてもらえればと思う」


 確かに、その間に、お父様はここを襲う算段を周辺の国とつける、という話だった。

 私の役目は、それまでリーゼロッテとしてここで暮らすこと。

 けれど……そう、それまでは夫婦というわけではないのね。


 私は首を少し傾げた。


 その役割を務めるつもりで来たので、そう言われて少し困ってしまった。


「暮らしに慣れる、というのはどうすれば……?」


 何をどうしろと言われないと、何をすればいいのかがわからない。

 そう聞くと、アーノルドは少し困った顔をして笑った。


「好きなことをしてもらえれば良い。レオナ、とりあえず王宮内を案内してあげてくれ」


 レオナは私とタニアを連れて、王宮の中を案内してくれた。


「こちらが中庭になります」


「よく手入れされていて、綺麗ですね」


 タニアが愛想良く笑って応対してくれるので、私は黙っていれば良いので楽だ。

 アーノルドとは何とか会話ができたものの、何かを聞かれて答える以外に言葉を発するのは、やっぱり口がうまくうごかない。


「――花壇の花の色もばらばら、やはり、獣人の仕事というのは適当ですね」


 けれど、都度都度タニアが耳元で小声でそんな風にレオナに対する返事とは反対のことを囁いてくるので、私はどう反応していいかわからず、とりあえず無言で頷いた。


 しばらく王宮の中をぐるぐる回っていると、レオナは立ち止まって、タニアに「こちらが王宮の使用人の部屋のある棟になります」と言った。


「タニア様には、これからこちらの使用人たちにご指示いただくことがあるでしょうから、彼らとお話をお願いいたします」


 そう言って、使用人の人たちを呼ぶと、タニアを連れて行かせてしまった。

 私はレオナと二人きりになって、所在なく周囲を見回した。


「私たちの耳は」


 レオナは私を見つめると言った。


「あなたたち人間の何倍かよく、聞こえるのです」


 私は首を傾げる。


「……どういうことでしょうか?」


「リーゼロッテ様は、タニア様のお言葉に全て頷かれていましたが、あなたは私たちをどうお思いですか?」


 私はぱちぱちと瞬きをした。どう答えるのが正解なのだろうか。

 私たち、というのは獣人についてということだろうか。

 だって私はリーゼロッテの代わりにと言われてここに来ただけで、特に彼らについて思うところはない。


「アーノルド様の奥方に周辺国の地位のある人間の女性を、と評議会が提案をしたので、あなたをお招きいたしました。あなたのお父様がそれを許可されたのは、私たちを恐れてのことでしょうか。私たちは、要望を拒否されたからといって何かをするような、そんなことはありません。――――もし、私たちのことを野蛮だとそうお思いなら、ルピアにお帰りいただいて、構わないのです」


 少し泣きそうな顔でレオナはそう言った。


 帰るのは困る。私は私の役割を果たさないといけないから。

 私はこの人たちをどう思っている――?


「――耳や尻尾が可愛いと思います」


 そう呟くと、レオナは「え」と呟いて驚いたように顔を上げ、首を傾げた。


「皆さん、ふわふわとしていて、可愛らしいです。そういったものが私にもあれば良いのにと思いました」


 もし、自分にあの耳や尾が生えていたら楽しそうだ。

 寒いときに手のひらを温められるかもしれない。


「可愛い、ですか」


 レオナは自分の耳を押さえると神妙な顔をした。


「変なことを言いましたか」


「――変ですね」


 それからレオナはふっと微笑んだ。


「リーゼロッテ様がそう思ってくださっていて良かったです。――タニア様の言葉は、昔からよく言われている言葉で――、少し、気にかかったもので――、差し出がましいことを聞いてしまい、申し訳ありませんでした」


 そうか。『獣人だから適当』とか、そういう言葉に彼女は傷ついたのか。

 私はようやくそこで気づいた。

 人が傷つくようなことを言うのは、良くないこと。

 今の私はリーゼロッテ。今はタニアの主人なのだから、彼女の言葉を正すことができるはず。


 私は彼女に頭を下げた。


「タニアの言うように思っているわけではないです。ごめんなさい。今度から注意します」


***


 翌日、私はいつものように日が昇る前に目を覚ました。

 いつもと違うのは冷たい硬いものではなくふかふかした温かいベッドの感触。

 ふと自分がどこにいるのかわからなくなり、綺麗な刺繍のついた布のかかった天蓋を何度も瞬きして見つめた。


 それからベッドを出て、水がめに溜めた水をすくい、顔を洗って鏡の前に座る。

 朝の支度はタニアがしてくれることになっていたけど、起きてきてはいないようだ。

 自分でやってしまう方が早いので、化粧道具をとり、額の傷を隠すように粉をはたく。

 鏡の中の自分はまるでリーゼロッテのようで、自分自身が本当に彼女のような気さえしてくる。

 

 寝間着から持って来たドレスに着替えてふと水がめを覗きこむ。


「水が、ないわね」


 瓶に溜まった水が少なかった。色々と入用だろうから、汲んできておいた方が良いだろうか。井戸の場所は昨日レオナに宮中を案内してもらっていたので覚えていた。


 私は1人、ランプを手に部屋を出た。

 まだ暗い宮中は人気がなく、ひっそりとしている。

 近くだと、井戸は外の庭外れにあったはず。

 そのまま静かな廊下を歩いて外に向かった。


「あった」


 井戸を見つけて桶に水を汲み上げていると、


「リーゼロッテ?」


 驚いたような声が耳に飛び込んで来た。

 振り返ると、青い瞳を驚いたように広げてアーノルドがこちらを見ている。

 1人ではなかった。後ろから2頭狼が私の方に尻尾を振りながら飛びついてきた。

 アルと、イオ。

 さらにその後ろにぞろぞろと十頭ほどの狼が列をなしている。


「――こんな時間にどうしたんだ?」


 私が二頭の頭を撫でていると、アーノルドは心配そうに聞いた。


「水を汲みに来ました」


「あなた自身で……?」


 ――そうね。リーゼロッテが自分で水汲みに行くことはないものね。


 私は返事に困って無言で頷いた。

 アーノルドは表情を崩した。


「変な人だなぁ」


 良い意味だろうか、悪い意味だろうか。『変な』という言葉に妙に顔が熱くなって、私は話を変えた。


「アーノルドこそ、お一人で何をされているのですか」


「こいつらの、散歩を」

 

 アーノルドは後ろに行儀よく座っている狼の群れを見ながら言った。


「狼、たくさんいるんですね」


「――俺たちは、農作業なんかにも狼を使う。牛や馬なんかの代わりに。命令をよく聞くし、賢いし、力があるし、役に立つよ」


「そうなんですか」


 私は言いながら、まとわりつく2頭の毛をわしゃわしゃと撫でた。

 その様子を見て、アーノルドがまた笑う。


「あなたが、狼が平気で良かった」


「犬は好きです。お城にも門番が飼っている番犬がいて――よく話していました」


 そう言うと、また笑う。


「犬と話していたのか」


 くっくと笑い声をもらして、アーノルドは私を見た。


「レオナが耳や尾が可愛いと言われたと言っていたよ。やっぱりあなたは変わった人だ」


「良い意味ですか?」


「もちろん、良い意味だ」


 アーノルドが近くの花壇に腰掛けたので、何となく横に腰掛ける。

 良い意味なら、良かった。

 『変わっている』という言葉が耳にくすぐたかった。

 

「王様が狼の散歩なんてされるのも、変わっていますね」


 そう言うと、彼は少し表情を陰らせた。


「――俺は、王ではないよ」


「では、何なのですか?」


「評議会が、当面の代表として選んだだけだ。王のいない国なんてないだろう。テネスを国として認めてもらうには、誰かが形式上、王になる必要がある」


「評議会、とは」


 レオナもその名前を言っていた。


「何というか……代表者の集まり、のようなものだ」


「そうですか。けれど――選ばれる、というのはすごいことですね」


 お父様ははじめから王様で、リーゼロッテははじめからお姫様だ。

 そして、私ははじめからリーゼロッテのまがい物。本来であれば、生まれた時点で殺されていたはずのいない存在。

 それははじめからそういうものだと思っていたけれど……。

 はじめから王様ではなく、選ばれてそうなることもあるのか。


「はじめから、というのよりも、望まれて王様になったということは、それはすごいことだと思います」


 うまく言いたいことが説明できずに、私は言葉を続ける。

 こんなに自分から言葉を連ねるのは初めてだ。


「はじめからを変えることができるなんて、思ったことがありませんから。はじめからではないというのはすごいことです」


 ふと、手のひらに温かさを感じた。

 見るとアーノルドが私の手に自分の手を重ねていた。

 驚いて顔を上げると、彼は笑って「ありがとう」と呟いた。


 耳に心地良い「ありがとう」という低い声が頭の中に反響して、私は目が回るような気持ちがした。


「……アーノルド」


 言いたいことが自然と口から出てくる。彼は「どうかしたか」と首を傾げた。


「あなたのことを、聞いてもいいですか」


 この人のことがもっと知りたい、と思う。

「何でも」とアーノルドは足元の狼の背中を撫でながら笑った。


「――耳のところが、どうなっているか、見せてくれませんか」


 何から聞こうかとぐるぐる思案して、まず口から出たのはその質問だった。

 アーノルドは「耳……」と少し困惑したように呟いて、頭をお辞儀するように下げた。


「――見えるだろうか?」


 私は背筋を伸ばして、彼の頭に顔を近づけた。

 銀色の髪の間から、ふわっとした毛に覆われた三角の耳が生えている。

 思わず手を伸ばして触れると、耳を包む毛並みは髪の毛と違う、狼の毛並みのような柔らかい細かい毛質だった。


「くっ、ははは、ははっ」


 耐えきれなくなったように噴き出したアーノルドが笑いながら、ざっと勢いよく身を退いて、花壇の隅に耳を押さえて丸くなった。そのまま肩を震わせて笑っている。


「……ごめんなさい、大丈夫ですか?」


「……悪い、悪い、人に触られることなんかないから……こんなにくすぐったいと思わなかった」


 ようやく落ち着いたのか、大きく息を吐いて、彼は私に向き直った。


「これで、あなたの希望は叶っただろうか」


 はい、と頷く。


「本当に頭から耳が生えているんですね。――髪を洗った時に、水が入ったりはしないのですか?」


 アーノルドは首を傾げる。


「考えたこともなかったが……、入らないよ。こう、後ろから水を流せば」


 彼は耳を押さえながら頭から桶に汲んだ水を流す真似をした。


「――なるほど」


 私は感心して頷く。


「レオナが獣人の方は私たちより音がよく聞こえると言っていましたが、どのくらい聞こえるのですか?」


 アーノルドはうーんと首を傾げると上着のポケットから袋を出して私に渡した。

 中には、金貨や銀貨などのお金が入っている。


「――王様がお金を持ち歩いているんですね」


「もともと王ではないからな。一応、何かあったときのために持っているんだ。その中から一枚選んで、上に放り投げて地面に落としてみてくれ。俺は見ないから」


 そう言って私に背を向ける。

 私は銀貨を手に取ると言われた通り空中にそれを放り投げた。

 石畳に当たってチャリン、と音をさせ、銀貨は地面に転がる。


「あなたが投げたのは――銀貨だろう」


 こちらを見ないまま、アーノルドは言う。


「……そうです」


 私は驚いて目をぱちぱちした。音の区別がついているんだろうか。

 それから何回か違う種類のものを投げてみたが、その度に彼はそれを当てた。


「――見ていないですよね」


 思わず疑ってそう言うと、アーノルドは両手を組んで「もちろん」と口を尖らせた。


そんな話をしている間に、いつの間にか周囲が明るくなってきた。

辛抱強く列になって私たちの会話を待っていた狼たちがすんすんと鼻を鳴らし始める。


アルとイオが何かを訴えるようにアーノルドの足を手でごしごしと擦った。


「まずい、こいつらの飯の時間だ」


 はっと気づいたようにアーノルドは立ち上がった。


「ごめんなさい、長いこと足止めしてしまって」


 謝って私も立ち上がる。タニアが起きてきて、私がいなかったら騒ぐかもしれない。

 私も部屋に戻った方が良さそうだ。

 水を汲んだ桶を持って歩こうとしたら、その手をアーノルドが止めた。


「アルに持って行かせよう」

 

 そう言って銀色の毛の狼の口に桶の取っ手を咥えさせた。

 狼は器用に水をこぼすことなく、それを咥えている。


「――こんなことができるのね」


 感心してそう言うと、アーノルドは「賢いだろう」と笑って、それから私を見つめた。


「こういうことは使用人に頼んで欲しい」


 今の私はリーゼロッテなのだから、そう、こういうことは人にやってもらわないといけない。


「――わかりました。朝早く目が覚めてしまって、手持ち無沙汰で」


 言い訳のようにそう言うと、アーノルドは笑った。


「俺も早く目が覚めてしまうんだ。毎日、こいつらの散歩でぐるっと庭を歩いているから、良かったらまた、話をしよう。――今朝は楽しかったよ」


 笑顔につられて、頬が緩む。


「――私も、楽しかったです」


 そう言うとアーノルドは急に真面目な顔になって私を見つめた。


「――良かった、笑ってくれて」


 首を傾げると、彼は安心したように微笑んだ。


「ずっと、表情が硬いようだったから、気になっていた。今、笑ってくれて良かった」


 私は自分の頬を両手で押さえた。ずっと動かしていなかった顔を動かしたせいかぴくぴくしている気がする。

 アーノルドは小さい声で呟く。


「あなたは、笑うと、ずっと可愛いな」


 私はそのまま顔を押さえた。相手の顔を見ることができず、「ありがとうございます」とだけ呟いてその場を去る。


 水桶を咥えた銀狼はとことこと私の後をついてきた。


 部屋に戻ると、訝し気な顔で室内に立っていたタニアが狼を見て悲鳴を上げた。


***


 それからの一月はあっという間に過ぎた。

 毎日朝早く起きて、アーノルドと狼と庭園を散歩する。

 日中はいつでもタニアやレオナや侍女がついてくれていたので、二人きりで話す時間はこの朝の時間だけだった。


 私の質問にアーノルドはいつも笑って答えてくれる。

 庭に咲いている花の名前や、狼の習性や、いろいろなことを知っているので、いつも私が聞くばかりだ。彼の話してくれるぜんぶのことが新鮮で楽しくて、いろいろ聞きたいことがどんどん出てくる。

 こんなに自分の中にいろいろなことを知りたい気持ちがあるなんて思わなかった。

 

だけど、アーノルドは家族について聞いた時だけは表情が重かった。


「あなたのお父様やお母様はどんな人?」


「二人ともとても優しい人だった。父親は国で一番大きい農園の領主で人間、母親は獣人だ」


「だった?」


「二人とも死んだよ。父親が先に病気で。母親も……たぶん病気で」


「農園で働く獣人は若くして死ぬ。人間より身体が丈夫だからといって、働きすぎれば、そりゃね」


 アーノルドは顔を伏せた。


「父親の後を叔父が継いで……、そこで初めて俺は、自分が人間じゃなく、父親の所有物だったことに気づいた。俺と母親は叔父に相続されて……叔父は俺も母親も農園に放り込んだ。――それまでは、屋敷で暮らしてたんだ、人間の貴族と同じように。だからおかしいと思った。そんな人の気まぐれで、人生が決められるなんて」


言葉に熱がこもる。私は思わず黙り込んだ。彼は大きく息を吐くと、「こんなつまらない話をすまない」と耳を掻いて、笑って詫びた。


「つまらなく、ないです」


 私は額を撫でた。化粧の粉で隠した王族の所有の物であることを示す十字の焼き印の痕。

 『同じ顔なんて気味が悪いわ』

 リーゼロッテのその一言で、私の額にこの痕がついた。

 私は、気まぐれで生かされた物に過ぎないから……。


「人は、物ではないですよね」


「リーゼロッテ……?」


「辛いことを聞いてすみませんでした」

 

 この人の沈んだ表情は見たくなかった。

 もっと笑顔になれるようなことを聞けば良かったのに。

 彼は首を傾げて、それから、


「そうだ。あなたのお父上やお母上についても聞かせてくれるかい?」


 と微笑んだ。


 私は俯く。


 双子は不吉だと占い師が言った。その言葉に従って、先に生まれたリーゼロッテを二人は自分たちの子どもとして、後から生まれた私はいないものとした。


 私が先に生まれていれば、私がリーゼロッテになっていて、リーゼロッテが私になっていたんだろうか。


 そんなことは考えても仕方がないとずっと考えることを止めていたけれど。


「――二人とも、優しい人です」


 それだけ答えて、今回が初めての散歩だという生まれたばかりの小さい狼を抱き上げた。


「この子の名前は決まりましたか?」


 アーノルドは笑って「あなたが決めてくれると嬉しい」と言った。

 ――やっぱり、この人が笑っていると心地が良い気がする。

 そう思っているのはリーゼロッテではない、私自身だ。


 ***


「あの狼王と大分親しくなられたようですね」


 朝の散歩から戻ると、いつもより早く部屋に来ていたタニアが呟いた。

 部屋の窓からは庭が見える。

 私とアーノルドが話していたのが見えたのだろうか。


「――旦那様になる方ですから」


 そう答えると、タニアが鼻で笑った。


「もう一月になりますね。――もう、陛下はここを攻める算段を立てられているかしら。何かの合図はあるはずですから、そうしたら逃げないとですね」


 タニアはぶるっと身体を震わせる真似をした。


「――早く、こんな獣臭い場所から、抜け出したいものですね」


「タニア、そういう言い方をしないでと言っているでしょう」


 私がそう言うと、彼女は怪訝そうに眉をひそめると、手を振り上げた。

 ぱしん、という音が響いて、頬がひりひりと痛む。


「リーゼロッテ様のまがい物が生意気になったものね」


 私は立ち上がると、彼女の頬をはたき返した。

 「なっ」とタニアが頬を押さえて、信じられないという顔で私を見る。


「今の私はリーゼロッテよ。タニア」


 私は物ではないし、まがい物でもないと、そう思う自分に気づき始めていた。


***


 その日の夜、いったん落とした化粧をもう一度し直して、ランプを持って部屋を出た。


 『もう、陛下はここを攻める算段を立てられているかしら』


 タニアの言葉が頭の中をぐるぐると回る。

 お父様は、ルピアはいつ他の国と協力して、ここに襲ってくるだろうか。

 アーノルドたちだって、一斉に攻撃されたら、ひとたまりもないんじゃないだろうか。

 そんなことを考えていたら、いてもたってもいられなくなった。


 ――少しでも長い時間アーノルドと一緒にいたいと思った。


 アーノルドの寝室をノックすると、「――誰だ?」と鋭い声がした。

 「リーゼロッテです」と答えると、ガチャリと扉が開いた。


「どうしたんだ? こんな時間に? 1人で?」


 青い目を丸くして、アーノルドはぽかんと口を開けている。


「あなたに、会いたくて来ました」


 私はそう答えると、そのまま彼に抱きついた。

 姿を見て声を聞くだけで、安心感を感じた。

 そう、私はこの人が好きだ。

 

 しばらくぎゅっと胴体にしがみついていると、アーノルドは私の髪を撫でて、「とりあえず、中に入れ」と語りかけた。


 アーノルドが部屋のランプに灯りをつけてくれる。

 私と彼はソファに腰掛ける。


「何かあったか?」

 

 そう問いかけられて、私は羽織を脱ぐと、夜着の腰紐を解いた。


「リーゼロッテ!」


 アーノルドが困惑したように私の手を握る。


「――何をしているんだ? 俺たちはまだ結婚しているわけでは」

 

「だって――、時間がないんだもの」


 気がついたら、目からぼたぼたと涙が湧き出していた。

 感情が溢れて思考がまとまらない。

 お城の塔の片隅の部屋で顔を隠して言葉を封じて暮らしている間に、泣くなんてことは忘れたはずなのに。

 だって、泣いたって、誰かが何かをしてくれるわけじゃない。

 「口無しが泣くな」って部屋から出してもらえなくなるだけだもの。

 私は両手で顔を押さえて足を抱えてうずくまった。


「泣かないでくれ」


 声がして、ぐいっと身体が引き寄せられた。大きい胸元に頭が当たる。

 羽織を着ただけのアーノルドの胸元は温かい銀色の毛で覆われていて、ふわっと温かさに包まれた。私は鼻をすすって、顔を上げた。


「リーゼロッテ、あなたが泣いている顔を見るのは嫌だ」


 アーノルドはそう言って、私の目元を手でぬぐった。

 それから目を大きく広げた。視線が額に向いている。

 涙を手で押さえて、顔をこすったせいで額の傷痕を隠していた化粧が取れたのだろうか。私は慌てて額を隠して、後ろに下がろうとしたけれど、背中に回されたアーノルドの手が私をその場に引き留めた。

 

「リーゼロッテ、その額の傷は……刻印痕……?」


「――私は、」

 

 私は俯いて喉の奥から言葉を絞り出した。


「私はリーゼロッテではありません」


「リーゼロッテではない?」


 顔を上げることができなかった。アーノルドはどんな表情をしているだろう。

 軽蔑するような顔か、困惑するような顔か。


「――――私は、リーゼロッテの双子の妹です。父はリーゼロッテの代わりに私をあなたの相手として送りました」


「ラピスの姫君は1人と聞いているが……」


「双子は忌むべきものとされていますから。私はいないものとされていました」


「こっちを向いてくれ」


 アーノルドが私の肩をぐっと押して、上を向かせた。

 目と目が合った。――顔を背けようとして、私は固まってしまった。

 あんまり真剣に、彼が私を見ていたから。


「……あなたの名前は?」


「――名前はありません。私は本来、いるべきではない存在でしたから」


「双子が忌むべきもの? ――くだらない、迷信じゃないか」


 アーノルドは私を抱きしめる。


「そんなことだろうと思っていた。やすやすとこちらの要望を聞き入れてもらえるとは思っていなかったよ」


 よしよしと髪を撫でる手に、私は謝るしかなかった。


「――ごめんなさい」


「なぜ、あなたが謝る?」


「だって、私はリーゼロッテではないのに、リーゼロッテとしてふるまっていた」


「泣かないでくれ。俺が泣き顔を見たくないのは、あなただ。――リズ」


「リズ?」


 ぱちぱちと瞬きすると、アーノルドは困ったように笑った。


「妻を呼ぶのに、呼び名がなければ困るよ。とりあえず、リズと呼んでみたが、どんな呼ばれ方が良い?」


「妻……ですか、私はリーゼロッテではありませんが……」


「関係ない。俺がこの一月、一緒にいて心地よく、これからも一緒にいたいと思ったのはあなただ。――名前がないなら、つければいい。あまり『リーゼロッテ』から離れすぎてしまうと、周囲が混乱しそうだから、リズでどうだろうか」


「――――私をリーゼロッテとしてあなたの元に送ったのは、単に時間稼ぎです。父は周囲の国と協力して、あなたたちを攻撃すると言っていました」


「そうか。それは何とかしないといけないな」


 アーノルドは耳を掻いて笑った。


「目の敵にされるのはわかっていた。――それは、どうにかするだけだ」


「どうにかするだけ……ですか」


 あっけらかんとした物言いに、思わず口を開けると、彼は笑った。


「リズ、あなたは、心配しなくていいんだよ」


 アーノルドは私を抱きしめると、額の傷に唇を重ねた。


「これは――、誰が?」


「姉が、リーゼロッテが同じ顔が嫌だと言ったので……侍女が……」


「痛かっただろう。大丈夫、痕は消してやれる」


 アーノルドは何度も唇を落とした。

 その度にじんわりとそこが温かくなる。


「これは……」


「獣人は回復力が強いんだ。傷は唾でもつけておけば数日で消える。――だから、持ち主は何度も何度も焼き印を押すんだ」


 アーノルドは自分の首を撫でた。

 何の傷跡もない綺麗な肌だ。


「――俺の父親が死んでから、叔父は俺の首に焼き印を押したよ。もう痕は消えたけど、いまだに痛む」


 彼はまた私を抱きしめて、呟くように言った。


「今まで辛かっただろう。でも、これからは俺があなたを守るよ。あなたの笑った顔がとても可愛いと思ったから」


 私はふかふかした胸元に顔を埋めて、背中に手を回して強く抱きついた。


***


「おはよう、リズ」


 そう笑いかけて、アーノルドは毎朝私の額の傷跡にキスをするようになった。

 日に日に、傷跡が薄くなっていく。

 鏡を見るたび、私はリーゼロッテではない方――名無し・口無しの私ではなく、「私」――リズという存在になっていくのを感じていた。


 こんな日々がいつまでも続けば良いと思った。

 このまま、アーノルドと結婚して、一緒に生活していきたい。


「私に」

 

 鏡の中の自分に問いかける。


「私に何かできることはあるかしら」


 思い出したことがある。ラピスの城の、私が暮らしていた外れの塔の地下に、古びた扉があった。額に焼き印を押された幼いころ、私は熱を帯びた傷跡を押さえて泣きながら城から逃げ出そうとしたことがあった。私は地下に逃げ込んで、その扉を開けた。その先にはどこまでも続く暗い道があって、私はその先へ進んだけれど、途中で傷が痛くて痛くて動けなくなってしまった。


 ――そして、お父様に連れ戻されたのだ。

 「手を煩わすな。許可なく声を出すな」とそれだけ言われて。

 あれから、私は自分の扱いに疑問を持つことも考えることも止めてしまった。

 言われるままに与えられた役割をこなす方が、考えるより楽だから。

 

 ――けれど、今は自分自身の考えで思う。

 ここでのアーノルドと過ごす時間はとても楽しくて、幸福だ。

 それを自分自身で守らなければ。

 何も考えず何もしなければ、何も変わらないのだから。


「ねえ」

 

 私は両脇に寄って来たふわふわした生き物の背を撫でた。

 銀色の狼のアルと、白色の狼のイオ。

 この2匹はここで飼われている狼の中でも特に賢いらしく、王宮の中を自由に出入りしている。この子たちがいるとタニアが近くに寄りつかないので、私はアーノルドに頼んで2匹を近くに置かせてもらっていた。

 ――タニアは「いつ、この生活が終わるかしら」とそんなことしか言わないから。


「どうして、あそこにお父様自身が捜しにきたのかしら」

普通はお母様かリーゼロッテの侍女が捜しに来るはずなのに。

あそこは、王族しか知らない何かの通路なのではないだろうか。


もともと、私が生活するように言われていたあの塔は、王族か、側近の人――私の事情を知っている人しか入ってはいけないとされる場所だ。


何かがあった時に外に逃げるための通路――やそんなものなのではないだろうか。

もし、そうなら、それをアーノルドに伝えたら?

ここを攻めるのであれば、直接の隣国のラピスのお父様が中心になるはずだ。

先にラピスを襲ってしまえば?



「……あの通路がどこに繋がっているか、確かめる方法はあるかしら」


 それには、もう一度あの場所に戻らないといけない。

 私はしばらく二匹の狼の頭を撫でながら思案して、それから彼らに声をかけた。


「ごめんなさい、ちょっと部屋から出て行ってくれる?」


 賢い二匹は返事をするように一声吠えて、部屋の外へ駆け出して行く。


 私は部屋を出ると、隣のタニアの部屋のドアをノックした。


「あら――、今日はあの怖い狼たちは連れていないのですね」


タニアは扉を開けると、顔をしかめながらそう言った。

 私が先日、頬を叩き返して以来、タニアは私と露骨に距離をとるようになった。

 今まで何の文句も言わずに言われたとおりに動いてきた人形が意図せず反抗したことで、距離感が掴めないのだろう。


「少し、話をしない?」


 そう言うと、彼女は訝し気な顔をしながらも私を部屋の中へと招き入れた。


「――この前は悪かったわ。ただ、ああいう態度でここにいたら、いろいろと怪しまれるでしょう」


 悪かったとは思っていないけれど、表向き、申し訳なさそうな顔でそう言うと、彼女は困惑したような表情を見せた。


 困惑、そうでしょうね。彼女は私が自分の意思で何かを考えて動くなんてことに少しも思い当たったことがないんだろう。


「――それは、そうですね」


 タニアはしばらく思案した後、そう呟いて頷いた。


「――あの狼に『リズ』と呼ばれているようですね。ずいぶん親しくなったようで」


「それが、私の役割でしょう」


 私はそう答えて肩をすくめ、問いかけた。


「ねえ、タニア。あなた、ラピスに帰りたいでしょう?」


 タニアは息を呑んで、しばらくの沈黙の後、呟いた。


「それは――もちろん」


「では、あなただけ、帰ったらどうかしら? 私がここにいれば、問題はないでしょう」


「私は、国王陛下と王妃様から、あなたのボロが出ないように補助をするように申し付けられているのよ」


「だって、化粧だって、身支度だって、私は自分でやっているもの」


 私の身支度はタニアだけがする、ということになっているけれど、結局、朝早く目が覚めてしまうし、自分でやった方が早いので身支度などは全て自分で済ませてしまっている。だから彼女は私の額の傷がなくなっていることにも気づいていないだろう。 


 タニアは何か言いたげだったが黙り込んでいる。

 彼女はお父様たち――主人の命令には忠実なのだ。

 私はタニアに一枚の紙を渡した。


「これは……」


「この王宮の地図よ。アーノルドにもらったの」


 王宮内は迷ってしまうから、地図が欲しいと言ったらアーノルドがくれたものだ。


「それを持って帰ればいいんじゃない。王宮内の地図はお父様たちもきっと必要でしょう」


 タニアに「帰る」と言わせるには、何か簡単な理由が必要だろう。


「……」


 彼女は地図を見つめてまた黙った。私は言葉を重ねた。


「ルピアの王都まで、荷馬車が出ているでしょう? それに乗せてもらって帰ればいいわ」


 農業の盛んなこの国からは、隣国のルピアへ農産物を乗せた荷馬車が定期的に走っている。リーゼロッテの侍女としてついてきたタニアを大っぴらに帰すとなると体裁が悪いし……何より、彼女には荷馬車でこっそりと帰ってもらう必要があった。


 私は彼女にアーノルドからもらったいくつかの宝石のついた装飾品を渡した。


「これを見せて、乗せて行ってもらいなさい」


***


 それから数日、私はタニアと、彼女をラピスに行く荷馬車に乗せる算段を立てた。


 アーノルドに頼んで城下町に出してもらう。

 城下町は獣人が多いけれど、商人は人間が多いようだった。

 2日おきに城下町の門から作物を乗せた荷馬車が出発する。馬主は人間だ。

 商人ではなさそうな人間の女も馬車に同乗しているのを見かけた。


「――主人が獣人に代わって、合わない人間は外へ出て行く者もいる。そういう者は止めない」


 とアーノルドは少し眉をひそめて呟いた。

 それにまぎれれば良い、と私は思った。


 もし、ラピスにあるあの通路を確認しに行きたいと言ったら、アーノルドは「そんなことをする必要はない」と言うだろう。

 だから、私は自分の判断で行く。

 タニアについてラピスに戻って、状況を確認してアーノルドに伝える。

 自分で彼とこのままでいるためにできることをやろうと思った。


***


 タニアをラピスに帰す日が来た。


 ここ数日体調が悪い振りをして、アーノルドには「今日は体調が悪いのでゆっくり部屋で休む」と伝えた。私の面倒はタニアだけが見ることになっているから、これで明日の朝もしばらくは誰も部屋に入ってこないだろう。


 侍女は門の出入りを咎められない。タニアは自分で王宮を出て馬車のところに向かうだろう。


 私はアルとイオ、二匹の狼を連れて、夜更けに部屋を抜け出すと、庭園の壁を乗り越えて、城下町に出た。賢い狼は背中を丸めて私の台になってくれる。私が塀を超えると、彼らは軽々とそれを飛び越えた。


 荷積みが終わったことを確認して、私は二頭の狼と共に、馬車の荷台に乗り込んだ。

 荷を覆うカバーの破れ目から外を見ると、タニアが近づいてくるのがわかった。

 そのまま馬車は出発する。

 ガタガタと揺れても、二匹の狼のふわふわした毛皮の間に挟まれていると揺れは気にならなかった。


 どれだけ走ったか、馬車が停まった。外をちらりと覗くと日が暮れかかっている。

 畑の近くにある宿屋に泊まるのだろう。


「あ、あんた誰だ?」


「どうして……あなたが着いて来てるの?」


 目を白黒させる主人の横でタニアが厳しい顔で私を見つめている。

 私は肩をすくめた。


「――だって、私もラピスに帰りたかったのだもの」


「あなた――自分の役割を……!」


「自分の役割を果たしていないのは、あなたもじゃないかしら、タニア」


 返す言葉がなくなったタニアは黙り込んだ。


「――お知り合いで? ――どうするんですか? このまま明日出発でいいんですか?」


 荷馬車の主は困ったように私たちを見比べる。

 面倒なことは関わりたくない、といった様子だった。


「そのまま、お願いします」


 タニアは険しい顔のまま、そう言った。


***


 私とタニアは同室に泊まることになった。

 狼連れは普通らしく、アルとイオも部屋に入れることができた。

 狼を怖がってか、タニアは私たちから距離をとったまま口を聞こうともしない。


 ――夜明け前、私はまだ寝ているタニアの口にロープをぐるりと巻き付けた。


「悪いわね」


 そう言いながら口を縛ると、目を覚ましたタニアがばたばたと手を動かした。


「アル、イオ!」


 小声で狼たちの名前を呼ぶと、賢い子たちは私の横から飛び出してタニアの身体の上にのしかかった。その間に、手と足を縛る。動けない状態にしたタニアをベッドの奥に押し込んだ。


 そのまま上着を羽織って、外に出る。

 荷馬車の主は早朝早く出発すると言っていた。

 案の定、停めた馬車の前で待っている。


「お待たせしてすいません」


「あの方は――」


 私が駆け寄ると、荷馬車の主はタニアの姿を探して怪訝そうに周囲を見回した。

 気まずそうな顔で言う。


「――喧嘩をしまして、彼女は残るって――」


 私はタニアに渡したより多めの装飾品を主人に渡した。

 面倒ごとは避けたい、という様子だったから――、


「わかった。じゃあ出発するよ。あんたもラピスまででいいんだな」


 案の定彼はそれだけ言って馬車に乗り込んだ。

「ありがとうございます」と言ってその横に乗る。

 アルとイオは荷馬車の荷台に乗せた。


「――獣人の主に成り代わって、国を出てくって人間も多いんだよな。あんたもそのクチかい」


 そう言う主人に「そうです」とだけ頷いて、私は窓の外を見た。

 昨日のうちにアーノルドは私がいなくなったことに気づいて、探してくれてるだろうか。

 そして、今日か明日にはこの宿屋でタニアを見つけて追いかけてきてくれるだろうと思う。ラピスに入ってしまえば、それ以上は追いかけてこれないだろうけれど。近くできっと、しばらく様子を見ていてくれるはずだ。


 その日の夜にはルピアに入って、その翌々日には王都についた。


「ありがとうございました」


 そう言って荷馬車を降りると、目の前に見慣れた石造りの大きな城が立っていた。


 周囲の人たちがざわざわとこちらを見ているのがわかった。

 私の周りをぐるぐると回る二匹の狼を怖がっているみたいだ。


 こちらでは狼なんて街中で見ることないものね。


「アル、イオ」

 

 私は彼らの前を呼んで、頭を撫でて話しかけた。


「あのお城の中に入れる? 後ろに回ると生垣があるわ」


 そう囁いてお城の方を指差すと、賢い二匹はぱっと左右に散って駆け出した。

 人が小さく悲鳴を上げて横に避ける。

 私はその間に人込みに紛れて、城に向かって歩き出した。


 路地に入り、ぐるりと城の周りを回って裏庭を目指す。

 ――リーゼロッテは、時折裏門からお忍びで城下町に出ることがあった。

 

 だから……、


「リーゼロッテ様?」


 私は堂々と門をくぐる。門番が私を見つめて問いかけた。


「何か?」


「いえ……お付きの方は」


「余計なことを聞かないで頂戴」


 いつもリーゼロッテがしていたように、眉間に皺を寄せて門番を睨む。

 今の私の額にはもう傷跡はない。

 堂々と振舞えば、私はリーゼロッテだ。


「――申し訳ございません」


 恐縮したように門番は私に一礼をして、また元の位置に戻った。


「――簡単ね」


 思わずそう呟いて、私は裏庭を抜けてもともと生活していた離れの塔の方へ向かう。

 塔へ向かう方向は普段誰も人が来ないため、庭の手入れも適当で伸びた植木が茂っているだけだ。


 その時ガサガサと音がした。

 そちらを見ると、狼が二頭私を見返して鼻を鳴らしている。


「アル、イオ」


 頬を緩ませると、二匹はこちらに駆けてきた。

 彼らを両脇に抱えて、植木の茂みに隠れる。人気がないといっても、明るいうちは目立ってしまう。暗くなるまで待とう。


 だんだんと日が暮れていくけれど、ふかふかした大きな塊が右と左にあるので寒くはない。日が完全に落ちてから、私は動き出した。


 いつも日が昇る前から、裏庭を通って水を汲みに行っていたから、暗くてもどこに行けばいいかはよくわかる。


 そのま塔に入ると、記憶をたどって地下に向かった。

 ぐるりと階段を降りた先の小さな部屋、そこにある古びた木製の扉。

 それを開けると、昔と同じように暗い道がどこまでも続いていた。


 私は狼たちとそこに入ると、扉を閉めた。


 暗闇を進んで行く。最初は床に石が敷いてあったけれど、途中から土に変わった。どこまで続いていくんだろう。狼二匹は先へ駆けて行って、「まだか」というように私を待っている。


 追いつくと、銀色のアルが「遅いから乗れ」とでも言うように私に背を向けて座った。


「重たくない?」


 そう聞きながら背中にしがみついてみると、一声吠えてそのまま走り出した。

 顔に風を感じるほどの速度でぐんぐん進む。

 どれくらい進んだかわからないところで、道が上り坂になった。

 昇りきると、入口と同じような木の扉がある。

 

 私が押しても開かなかったので、イオが体当たりをして、扉を開けてくれた。

 外気が流れ込んできて、明るい光が少しだけ差し込む。いつの間にか朝になっているようだ。


 扉を出てみると、そこはどこかの洞窟の中のようだった。

 明るい方へ進んで、外へ出てみると、そこは小高い丘の森の中で、遠くに畑が見える。


 小さい小川も流れていて、二頭はそこで勢いよく水を飲みだした。

 私も手で水をすくって飲むと、目を凝らして城の位置を確認した。

 それから空を見上げて、太陽の位置を見た。

 ポケットから紙を出して、その二つの位置関係を描き込んで、「ルピアの城への通路」とメモをして、ハンカチに包んでから銀狼のアルの首に布で巻き付ける。


「これをアーノルドに届けて頂戴ね」


 そう言って背中を叩くと、銀狼は駆け出した。

 私はイオの背中を撫でて、洞窟へ戻る。

 まだすることがある。


 ***


 帰りはイオの背中に乗せてもらって塔まで戻った。

 こっそりと裏庭に出ると、また夜が来ていた。


 私は準備していた黒い布を顔に巻くと、いつも使っていた通路を通ってリーゼロッテの部屋へと向かった。


 この時間、もうリーゼロッテも侍女たちも眠っているはずだ。

 幸い、暗い城内では誰にも会わなかったので、真っ直ぐに部屋の前まで来れた。


 一呼吸を置いて、そのまま部屋へ入る。

 リーゼロッテはベッドの上ですやすやと寝息を立てていた。


「イオ」


 私は狼に呼びかける。白狼はタニアの時と同じようにリーゼロッテの身体の上に伸し掛かった。


「な……に……?」


 目を覚ました私の双子の姉は、暗闇に浮かぶ白い狼を目にして、言葉を失って、目を大きく広げた。それから、口を開ける。それを私は後ろから布団で塞いだ。


「静かにして、ついてきてもわうわ」


 そう言うと、リーゼロッテは信じられない、という顔で私を見た。


「どうして、『口無し』がここに……いるのよ……」


 私は前髪を持ち上げた。傷跡がない額を見てリーゼロッテはさらに瞳を大きくする。

 囁くように言った。


「『口無し』じゃないわ。私の名前はリズよ。お姉さま」



***


 早朝の庭園を狼の群れを引き連れて歩きながら、アーノルドは所在なさを感じていた。


 リズがいないからだ。


 昨日から体調が悪いと言っていたので、部屋でゆっくり休めと言っておいた。

 だから、自分は1人で朝の時間を過ごしている。


 毎朝他愛のない話をしながら彼女と過ごす朝の時間がどれだけ自分の癒しになっていたのかに改めて気づかされる。


 これまで10年以上、息をする暇がないほどにやらなければいけないことで詰まっていた。


 この国で一番大きな農園の主で、領主だった父親が死んで、自分と母親の身分が叔父に相続された時に初めて自分が人ではなく所有物に過ぎなかったことを知った。


 アーノルドの父親は変わり者で、子どもができないまま正妻を失くし、農園にいた獣人の母親と何故か一緒になった。彼は息子に普通の領主の子どもと同じように教育したので、父の死後自分たちを『相続』したという叔父にいきなり『お前たちは俺の所有物だ』と言われても納得ができなかった。


 叔父に働けと放り込まれた農園では、どの獣人も主人の言う通りに働くことに疑問を持っていなかった。――父親が良い主人だったせいもあったが。


 アーノルドはまず、『獣人はものじゃなく、人間と同じだ』と周りに伝えることからが必要だった。収穫の効率ばっかり優先する叔父のやり方で、母親を含め大量に過労で死者がでたことも追風になって、彼の考えに同調する獣人が増えていき、他の農園の同じような考えの獣人とも繋がりができた。


 ……そこから、王宮を占拠するまで緊張の糸は張り詰めたままでずっと過ごしてきた。


 そんな中でアーノルドはいつの間にか、獣人に平等な国をみんなで作るという目的だけのために生きている存在になっていた。


 蜂起を起こした中心メンバーで作った評議会で、いったんのリーダーとして選ばれて、周辺国からの承認を得るためと、国内の人間と獣人の溝を埋めるためにも、人間の貴族を妻としてもらった方が良いという意見が出た時も、それもそうだと考え、頷いた。


 ――リズを初めに見た印象は、人形のような娘だと思った。


 濃いめ化粧の表情は読み取れず、何を考えているのか掴めない。


 ただ、話しかけて言葉を交わしてみると、大分印象が変わった。

 少しずつ、表情に動きが出てくる。だんだんと自分を取り戻すように。

 その様子に心が動かされた。


 彼女が部屋を訪れた夜に、事情を聞いて、なるほどと思った。

 名前もない、いるべきではない存在とされていたという。


 人をそんな風に扱うなんて、馬鹿げた話だ。庇護欲というか――、彼女がこれから自分を作って行く傍にいたいと思った。それはここ数年来で久しぶりに感じた自分自身としての気持ちだった。


「アルとイオもいないのか」


 あの二匹は飼っている狼の中でも特別頭の良い狼で、宮廷内を自由に行ったり来たりさせている。リズに懐いているから、彼女のところへ行っているだろうか。


「リズは元気だろうか」


 アーノルドは散歩を終えた狼たちを住処に帰すと、彼女の部屋の方を見て、呟いた。


***


「調子はどうだ?」


 リズの部屋をノックして、声をかけてみるが応答がない。

 ――返事ができないほど調子が悪いのであれば、近くで侍女のタニアが面倒を見ているはずだが。


 首を傾げ、扉を開ける。


「入るぞ……」


 そう言って部屋の中に入ってから、アーノルドは立ち尽くした。

 部屋には誰もいなかった。侍女も、リズの姿もない。ベッドは綺麗に整えられている。


 ぐるりと部屋を見回して、鏡台の上に手紙が置いてあるのをみつけた。

 駆け寄って開いてみる。


『アーノルドへ。ラピスの城の地下から外につながるたぶん、いざという時の王族の逃げ道のようなものがあったことを思い出しました。その場所を確認しに行くわ。アルとイオを連れて行きます。あなたにどうにか場所を伝えますので待っていてください』


 ラピスの城からの通路?

 手紙を両手に持って黙り込む。


 『父は周囲の国と協力して、あなたたちを攻撃すると言っていました』


 リズの言葉を思い出した。

 ――そのために、行ったのか。


 言葉が出てこなかった。


 そんなことをしなくて良いのに。

 確かに、周辺の国に協力して攻められると困る。

 彼女からその話を聞いて、『周辺国からやはり警戒されているようだ』と対応を協議しているところだった。……リーゼロッテが、本物のリーゼロッテではないとは伝えずに。


 アーノルドは急いでリズの身の回りのことを任せていたレオナを呼んだ。


「リズがいなくなった。タニアもだ。ラピスに戻ったらしい」


「――どういうことです?」


 彼女に手紙を見せる。


「彼女は、リズは本物のリーゼロッテではない。――公式にはいない、双子の妹だそうだ。ラピスは本物のリーゼロッテをこちらに寄こす気はなかった」


 レオナは眉間に皺を寄せ、険しい顔をする。


「そんな、どうしてそのことを皆に伝えなかったのですか」


 アーノルドはどんっと地面を蹴った。


「リズのことが好きだからだよ」


 少し黙ってから、言い訳を連ねる。


「本物のリーゼロッテでなければ結婚の意味がなくなるだろう。それでは皆の意に反することだ。――どうにかしようと考えていた」


 とん、とレオナが俺の肩に手を置いた。


「皆の意にあなたが従おうとする必要はありません……私たちがあなたの判断に従いますよ、アーノルド。あなたは私たちが選んだこの国の代表なのですから」


 アーノルドは彼女を見つめて頼んだ。


「リズを追ってくれ。たぶん、ラピス行きの荷馬車に乗って行っていると思う。アルとイオ、狼二匹を連れているから目立つだろう」


 最近、人間の領主が捕らえられたことに納得できない人間が荷馬車に同乗して、隣国へ向かうことが多い。それに混ざったのだと考えた。

 狼連れは珍しいだろうから、すぐに見つかるだろうかと思っていたが……、


「狼を二匹連れた女性を乗せた荷馬車というのは見つかっていません」


 なかなか見つからずに、あっという間に翌日の夕刻になってしまった。


 リズが心配だ。


 やるべき仕事が手につかず、やきもきしているところに報告が入った。


「ラピス方向の宿屋でタニアが見つかりました」


 急いで内容を聞くと、タニアは縛られた状態で宿屋の部屋にいたらしい。

 その部屋には狼を二匹連れた若い女も一緒に宿泊していて、朝に荷馬車に乗って発ったということだった。


「――タニアが縛られて?」


 首を傾げた。リズはタニアが邪魔だったのだろうか。

 それに、狼連れの女というのは、ここで初めて登場した。

 宿に着くまでは、どこかに隠れていたみたいに。――後を追うのが遅れるようにか。


 リズは自分が思うよりずっと、考えて行動している。


 そのことに驚いて、立ち上がった。


「俺も彼女を追う」


***


 側近数人と急いでラピスとの国境付近に向かっていると、途中で、何かが馬車を追いかけて走ってくるのが見えた。目を凝らすとそれは……、


「アル?」


 リズが連れて行ったはずの銀狼だった。

 馬車を止め、降りるとアルは勢いよく飛び掛かってくる。

 首に何かを巻いているようだ。


 それを開いてみると、『ルピアの城への通路』というリズの文字と共に、地図が書いてあった。


「……通路を、見つけたのか」


 アーノルドは皆を集めると、意見を言った。


「ルピアは他と協力して俺たちを襲うつもりだ。――それがいつになるかわからない。事前に、城へ入って国王に直接話をつけようと思う」


「信用しても?」とレオナが聞く。


「もちろんだ」と頷く。

リズが、彼女が自分に示してくれた態度は全て彼女の本当だと思う。


 戦闘に強い者を揃えて、ラピスの壁を乗り越える。

 これくらいは、獣人の身体能力であれば簡単だ。

 山に隠れながらリズの書いた方向へ向かうと、アルが急に駆け出した。

 その先には、洞窟――その奥に扉。


「これか……」


 その扉を開け、続く道を進む。

 ずいぶん進んだその奥に、白い狼の姿が浮かび上がる。


「イオ!」


 名前を呼ぶと白狼はこちらに駆け寄って来た。そして、その足元には……、


「リズ!?」


 大声で叫ぶと、地面に倒れている彼女に駆け寄った。

 泥がついた金色の髪は間違いなくリズだ。

「うぅ」と呻き声を上げて彼女は顔を上げた。

 口には布を咥えさせられており、手と足は縛られている。

 焦ってその顔を持ち上げて、アーノルドは思わず動きを止めた。


「違う」


 顔は同じだが、これはリズじゃない。


「リーゼロッテ、本物か」


 呆然と呟いた。


***


「――お姉さまなんて、言うんじゃないわ……」


 リーゼロッテの寝室に潜み込んだ夜、語気を強める彼女に私は顔を近づけて、囁きかけた。


「ねえ、お姉さま。狼に食べられたくなかったらついてきて」


 イオが少し牙を剝いて迫ると、リーゼロッテはびくりと身体を震わせる。

「ついてきて」と重ねると、彼女は震えたまま頷いた。


 そのままリーゼロッテを連れて、離れの塔へ向かい、階段を下る。

 あの通路の扉の前で、彼女に言った。


「服を脱いで」


「え?」


「私と交換するの」


 私は自分の服の紐を緩めると、彼女の寝間着の紐も緩めた。

 そのまま服を脱いで、動こうとしない彼女の寝間着を持ち上げて脱がし、代わりに着る。

 肌着になったリーゼロッテはぶるっと震えた。


「着ないと、寒いでしょう」


 そう言うと、私の脱いだ服を怒ったように手に取って、被った。

 

「その扉のことを知っている?」


 通路の扉を振り返るリーゼロッテの後ろ手をとって、それを紐で縛った。


「何するの……」


「静かにしてね」


 悪態をつこうとする口元にも布を回し、縛った。

 そのまま扉を開け、リーゼロッテを連れて暗い道に進む。


「――昔、あなたの『気に入らない』の一言で、私は物だって印を焼かれたでしょう。あの時、ここに逃げ込んだわ。どこか遠くに逃げようと思って。でも、傷が熱くて痛くて、途中で座り込んでしまったの」


 私は髪を持ち上げると、自分の顔をリーゼロッテの顔に近づけた。

 今、化粧はしていない。

「見えるかしら」


 そう言うと、リーゼロッテは目を瞬いて「うぅ」と唸った。


「もう、あの痕はないの。リーゼロッテ。アーノルドが消してくれた。私は『リズ』という名前の人になったの。だから、もうあなたにもお父様にも従わないわ。私は私の考えで、やりたいことをやるわ」


 リズを引っ張りながら道を進むと、途中で止まって、彼女を座らせた。

 足を縛って、イオの頭を撫でる。


「イオ、リーゼロッテを見ていてね」


 そう言って、私は元来た道を戻る。そのままリーゼロッテの寝室に戻ると、まだ温かいベッドに潜り込んだ。


 離れの塔にある、私の硬いベッドとは違うふかふかした寝心地の良いベッド。

 だけど羨ましくはない。早くテネスの、アーノルドのいるあの王宮の部屋に帰りたかった。


「アーノルドは追いかけてきてくれるかしら」


 そう呟いてから、一気に疲労が押し寄せて、私はそのまま眠った。


***


 それでもやっぱり、日が昇る前には目が覚めた。

 リーゼロッテは朝に自分で仕度なんかしない。

 彼女の侍女たちが部屋を訪れるのは、日が昇りきってからだから、朝は手持ち無沙汰になってしまった。


「リーゼロッテ様、おはようございます」


 部屋に入って来た侍女たちに起こされるまで、ベッドの中にいないといけない。


 起き上がると、顔を洗って、お風呂へ向かう。

 湯船に入って、髪と顔を整えてもらう。

その最中には「お湯が熱いわ」「髪型を変えて」「口紅の色を変えて」……リーゼロッテとして振舞うために3回は文句を言わないといけない。


 ずっと、何も話さずにそんな様子を見つめ続けてきた。同じように振る舞えば、誰も私がリーゼロッテではないなんて、気づかない。


「朝食の準備ができました」


 リーゼロッテの朝は楽だ。流れるように与えられるものをこなせば良いんだから。


 朝食の席に行くと、お母様だけが座っていた。

 一番奥のお父様の席は空席だ。


「リーゼロッテ、今日も綺麗ね」


 お母様は自慢げに私を見て言う。


「ありがとうございます。お母様も」


 私は「ふふ」と笑った。

 この食事の席に同席したことは一度だってないけれど、きっとリーゼロッテは毎日お母様にこうやっているのだろうと思う。


 出される食事を食べながら、お母様に問いかける。


「お父様は――どうされたんですか?」


 お母様は不思議そうに首を傾げる。


「周辺国からお客様がいらっしゃっているから、昨日からずっと皆様とお話合いをされているじゃないの」


 周辺国からのお客様……。


 私は考え込んでから、首を傾げた。


「――そうでしたね。ごめんなさい」


「いいのよ。それより今日はあまり食べないのね……」


 心配そうな声に、私は思わずテーブルを見つめた。

 たくさんのお皿に乗った食事。ずいぶん食べたつもりだったけれど。

 ――でも、都合が良いわ。


「少し……調子が悪いみたいで……」


 そう言うと、お母様は「まあ」と口に手を当てた。


「今日はゆっくりと休んでいなさい」


 ***


 部屋に戻ると、侍女を外に追い出して、1人ソファに腰掛けて考える。


 アーノルドは、気づいてここまで来てくれるかしら。

 しばらく、待ってみよう。

 そんなことを考え込んでいると、


「きゃぁあ」


 どこからか、使用人の悲鳴が聞こえた。

 外へ駆け出すと、私の部屋の方へ向かって、廊下をずんずんと複数の人影が進んで来る。

 使用人たちが横に避けて、道を譲る。

 その集団は武装した獣人たちだった。

 先頭にいるのは、


「アーノルド」


 思わず名前を呼ぶと、彼は驚いた顔をして私を見た。


「リズ!」


 私は駆け寄ると「そうです」と頷いた。


 彼の手を引いて、呼びかけた。


「お父様のところへ行きましょう。――他の方々も集まっているみたいだわ」


 私はアーノルドたちを連れてお父様のいる玉座の間へと向かった。


 城の人たちは皆、武装した獣人たちを見て道を譲る。

 重厚な扉を押し開けて部屋に入ると、お父様は玉座に座っていて、横に側近が数人、前に他国の使者らしい者たちが10人ほどいた。


「……!」


 彼らは一斉に、驚いた顔を私たちに向ける。


「リーゼロッテ……?」


 お父様は椅子から立ち上がり、私を見つめて呟いた。


「お父様!」


 私は父に呼びかける。


「この方々が私たちの結婚に賛同していただけない方々ですか?」


 アーノルドの手を取ってそう問いかけると、騒めきが部屋の中に広がった。


「テネスの狼王か……?」


「何故、獣人がここに」


 お父様は私の後ろでアーノルドの部下が抱えているリーゼロッテに気づいて、信じられないというような顔で私を見る。


「お前は……、お前がどうしてここに……」


「お義父ちち上」


 アーノルドがお父様の横に笑顔で進み出て囁いた。


「こちらの方々を今この場で殺すこともできます。我々は野蛮な獣人ですから。そしてこの場から逃げれば、あなたはテネスにくみしたとみなされるでしょう。そんなことになれば、ラピスもまとめて攻撃されますよ」


 彼は言葉を重ねた。


「この場を血生臭くしたいですか」


「――っ」


 お父様は息を呑むと、客人を見回して、言葉を発した。


「どうして、テネスの獣人たちがこの場にいるのですか!」


「――今回、皆様にお越しいただいたのは、ラピスはテネスの新体制を認める、との立場をお伝えしたく――」


「話が違うのではありませんか? あなたは偽物を代わりにテネスへ送ったと――」


 私は彼らの前に躍り出て、目元を拭った。


「私は本物のリーゼロッテです! それに、私はアーノルドと愛し合っています」


 アーノルドに抱きついて、叫んだ。


「私たちの結婚には、反対される方が多いということで――でも、お父様は応援してくださると、そうお伝えするために皆様をお招きしたんですよね! お父様!」


 そのままお父様の腕にすがりつく。

 お父様は無言のまま、頷いた。


「――帰らせていただく!」


 使者たちは口々に立ち上がると、お父様に背を向け部屋を出て行った。

 残されたお父様は呆然としたまま、立ちすくんで私たちを見た。


「お義父ちち上、これからは隣国として――親族として、仲良くさせていただければと存じます」


 アーノルドは笑顔でお父様の手を握った。

 その手を振り払って、お父様は私に掴みかかる。


「“名無し”、お前――! 生かしてやった恩も忘れて――、何てことを――」


 直前でアーノルドがお父様の襟首を掴んで止めた。


「私の名前はリズです。お父様。アーノルドがそう名前をつけてくれて、私は生き返ったの」


 私は微笑んでアーノルドの手に指を絡めた。


「――公式に、リーゼロッテと私が結婚したことにしていただく。結婚式には親族として参列してください」


 後ろでリーゼロッテがばたばたと呻いた。

 私は彼女に語り掛けた。


「お姉さま。私はこれから、お姉さまとして生きていくわ。けれど、私の本当の名前は”リズ”なの。アーノルドがつけてくれた、とても素敵な名前。――私はもう、”名無し”じゃないわ」


 目を見開いた彼女の肩に手を置いた。


「これから、アーノルドと生きていくために、私はお姉さまになる。けれど、お姉さまと私は、別の人間なの。お姉さまも、これからは、姫ではなく、ただのリーゼロッテとして生きていって」 


「リズ」


 彼が私に呼びかける。


「守るなんて言葉は必要なかったな――。これから、俺と一緒に並んで歩んで欲しい。大変なことはたくさんあると思うけど」


 私は「喜んで」と微笑んだ。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 母親と食事した時のマナーは完璧だった?リズ自身にもマナーからバレる心配してないようですし。 姉が他国に嫁入りを表面上していますが、後継はどうなる?一人っ子設定なら入婿でない婚約なのに拒…
[一言] 短編にしているからというのもあるでしょうが,後半(正体を明かして以降)が急いでる感があるかなという印象です。 あと,あくまで個人的にはですが,後半の流れは合わないかなと。
[一言] 途中まですごく良いお話でした。最後は少し…。リズはリーゼロッテのことは許しがたいとしても、姉を名無しに落として悦に入るような子だとは思えず。 ラピスの凋落と引き換えにスパッと訣別して、リズは…
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