7 これだからオナニー野郎はダメなんだ
一年生部員を先に帰らせ、俺たち三人はミーティングを行っていた。さりとて妙案が浮かぶわけではなかったが、何かをしなければとてもじゃないが、絶望の淵へと転がる精神を引きとめることが出来そうになかったのだ。
「俺にいい考えがあるぜ」
声のした方向、開け放った部室の扉へと目をやると、ドア枠に背をもたげた状態で、腕を組んだ男が一人立っていた。
――その男。
「三条……!」
「なっ、なんだよサンちゃん今更! この裏切り者!」小山田は目に涙を浮かべて三条に言い放つ。木ノ下も同様に、部を去った三条を受け入れる気はないと、目が語っている。
「おいおい、俺がいつ復帰させてくれなんて言ったよ? 俺達はさ、哀れな創作活動を続ける君たちに少しでも光明を見出してもらいたいと思って来たんだぜ」
相変わらず三条の態度は飄々として、口先だけで俺たちをいなしているように感じた。
「どういうことだ、三条……」
部を去った者に、今更とやかく言われる筋合いはない。俺はにらみを効かせて三条に対峙した。すると三条はゆっくりと右手を胸の位置まで上げ、開いた手を握り込んでこう言った。
「てめーらは設定が甘ぇんだよ。もっと設定を抉るんだよ、まだ誰も知らない世界をお前らが抉って抉りまくって作るんだよ、現実を超えるんだよっ!」
「フッ、呆けたな……何を言っている三条、お前はもう忘れたのか。それではファンタジー規制法に引っかかるだけだ!」
「ちッ、これだからオナニー野郎はダメなんだ……」
三条は茶髪をグシャグシャと掻き、頭を振る。そしてまるで俺たちを虫けらのように下げすんだ視線を向けた。
その態度に激高したのか小山田が、俺と三条の間に敢然と立ちはだかる。
「サンちゃん! た、確かに俺たちはオナニー野郎だ! だが俺たちがオナニストとしてオナニーに耽るのは習慣……いや義務だ。一日朝晩の二回が推奨されるべき回数ではあるが、時と場合によっては昼休みのトイレの個室で耽るもまた一興。この部室から覗く窓外のめくるめくプール風景を脳裏に焼き付けるため、鍛えに鍛え上げた大脳新皮質はオナニストとして獲得したとくしゅのうりょ――――」
小山田を制止させようと踏み込みかけた俺の視界を、刹那、電光石火の勢いで鋭い何かが目の前を切り裂いた。
攻撃の機会を奪われた俺はひとまず身を翻し、その脅威から距離を取り体制を立て直した。
ところがどうだ、俺のソバットが炸裂する前に、すでに小山田は目の前から吹き飛んでいるではないか。
この蹴りは――!
俺の目の前にはロングスカートの裾から高々と天井へ、その生白い脚を露わにした女の姿があった。
「き、りゅう……せんぱい?」
桐生先輩は蹴り足の膝を折り曲げつつ静かに床へ着地させると、スカートの裾を直し、片手でファサッと胸まである髪を背中へと流した。
眼鏡をかけていなかったが、確かに桐生先輩だ。
制服を脱ぎ私服姿となった先輩の姿に、しばし見とれていた。今まで女性とすら意識していなかった先輩の姿が、麗しく見えてしまったのだ。眼鏡を取ると実は超絶美少女だったのか!
「先輩……コンタクトにしたのですか」そう、かろうじて口にした俺の言葉は、「馬鹿者、国重。だから貴様らは愚かなのだ……」と、いとも簡単に一喝されて地に落ちる。
「メガネ女子が眼鏡をはずしただけで美少女に昇華するならば、日々美を追求し研鑽を積んでるその辺のどこにでもいそうな普通の女子は立場がなかろう」
俺に顔を向けた先輩はニッと、その控えめにルージュをひいた唇をゆがめた。
「見るがいい。在学中は、せめてムダ毛処理くらいしましょうよと、貴様たちが口にするのを憚るほどお洒落に無頓着だった私が、ノースリーブのブラウスにシースルー系素材のロングスカートで、重くなりすぎない、初夏のさわやか大人かわいいモテ映え系女子ファッションに身を包み、ナチュラルに見えつつもばっちりメイク術を施しているのだ」
髪は緩くカールして、おしゃれカラーで彩を加え、しかもいい匂いまでしている。手足はすべすべ、指先までネイルアートでガン決めだ。当然指の毛など皆無。
「ふん――私もな、表向きの顔というものがある。本格的に作家活動をする段に至って、女子の嗜みくらいこなせねば、先方に失礼に当たるであろう」
「あ、ああああの……桐生先輩が……」やっと女子になった、とはさすがに口に出して言えなかった。
次いで傍らの三条がニヤと嗤い、懐から何かを取り出し、ドンと机上へと置いた。
それは札束だった。
「百万ある……貴様らの好きに使え」
「え?」
「この金で遊べ。これを使って貴様らが知らない世界を覗いて来い」どかっと先輩はパイプ椅子に腰かけ胸を張った。超売れっ子作家にとって、百万やそこらははした金だとでもいうように。
女子大生になった桐生先輩の顔は化粧に彩られ、やや大人びていたが、尊大に腕組みし背を反り返したシルエットに変わりはなく、そしてやはりフラットな胸も変わっていなかった。
今ならわかる、この美しくも強い淑女に、小学生のようなぺったんこというアンバランスさが醸し出す、背徳感を伴った猥褻。俺は跪きそうな両の足を懸命にこらえてるのを見透かされまいと、机の縁にしがみついた。
「こんなものを、僕らにどうしろと……」木ノ下は恐る恐る札束に手を伸ばす。
束といっても帯の付い新券の百万円というのは意外に薄いものだと知る。一センチくらいだろうか。
「桐生先輩……?」
「これは桐生先輩と俺と松田元顧問からのカンパだ」三条はまるで桐生先輩を守る側近のように、傍らにぴたりとつけ、腕を組み屹立している。
「……松田先生までも……三条、おまえは…………」
「ああ、もともと伸びない分野の上に、ファンタジー法が施行されたとあっちゃ、作家として生きてゆくことはできんからな。SFってやつはな、ごまかしがきかねぇんだよ。誤魔化したり暈したりすればするほど、SFは精彩を欠いてゆく。それはSFが完全に整合性を求める物語だからだ。最終回が電波展開になって駄作とこき下ろされた作品は数多い。だから俺は宇宙の全てを知るまでは小説を書かないと決めたんだ。そうして俺は科学部に入部した」
――三条、それはあまりに果てしない目標だぞ……。そもそもお前が宇宙の謎を解いた時、お前はSF作家の数千倍の富と名声を得ることが出来る。さらには世界史に名を残すことも可能だろう。それでもなお、それは小説を書くための手段だと言い切るのか!
「松田先生が、皆によろしくと言っていたわよ」言いながら桐生先輩は長い髪をポニーテールに結いだした。
――っきたぁああ、うなじ!
「あああの、先輩。松田先生は何処に……」
俺は懸命にキョドってることを悟られまいと問い返すと、桐生先輩は目を伏せ頭を振った。
「――とても残念なことだわ……」
「えっ! 松田先生どうかしたんですか!」
「ええ……松田先生は校門の守衛に校内への進入を拒否されてしまったわ。元教師だと喚いてみたものの、警察を呼ばれるのがオチだと気づかなかったのね」
「ま、あのナリじゃあ、仕方ねぇよ……」三条が顔を歪めるのを見て、俺は肩に力が入っていたことに気づく。
俺は知らずのうちに彼にシンパシーを抱いていたのか――いや、ただ先輩のポニテに萌えたせいだ。