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6 自己顕示欲だけが肥大したアイ・ワナ・ビー

 稲光たなびく荒天の放課後、俺たち文芸部員は固唾を飲んでその様子を見守っていた。


 例によって例の如く、小山田の書いた作品は、悪魔の手に引き裂かれたポッポちゃんの羽根のように部室の宙を舞った。


 それは彼にとって最高傑作の筆痴・・とも言える出来栄えであった。それを裏付けるかのように、正視に耐えかねた吉原女史は直後トイレに駆け込んだ。


 その後小山田がどんな目に遭ったのかはここで記すまでもなく、今彼の肢体は夏場の生ごみが詰まったポリ袋のように静かに床に臥して、暗雲立ち込める窓外から差し込む一筋のヤコブジェイコブ階段ラダーに召されるのを待っている。


 吉原女史は肩で息を整えると次の原稿を手に取り、数枚をめくる。まるで紙幣計数機のようなスピードで消費されてゆく我が部員の渾身の作品は、ものの五分後に小山田の原稿と同じ運命をたどり、さらに俺の作品など一瞥しただけでページすらめくらず、ごみ箱へと直行させられた。


 机上に残った原稿はたった二つだった。


 俺はその原稿の一つを手に取り目を通す。


 生まれながらにして文武両道、聡明博識、眉目秀麗、気宇壮大、それだけならばまだしも精力絶倫の漢の中の漢、女はもとより男さえも惚れさせてしまう。碌に働きもせず、ゆく先々で知り合った女性と情事をかまえ、千文字以内にベッドインというジゴロを主人公とした小説だ。これはまさに現代におけるチーレム。こんな奴がいてたまるか……。


 俺は即座に木ノ下へと視線のレーザービームを飛ばす。


 小山田は諦めたとしても、お前までまだこんな幻想を抱いているのか。


 悲しいかな、俺は部長として木ノ下の胸ぐらを掴むより仕方がなかった。


 しかし木ノ下は、「ぼ、僕じゃない、その作品は僕のじゃない!」と俺の腕を振りほどいた。では先ほど悪魔の手により撒かれた原稿が木ノ下のものか。


「じゃあ、一体……」


 一人しかいない、そう、一年の白鳥茜。涼しい顔をして、なんでもないといった風に右手をひょいと掲げていた。


「茜君! あなたよくこんな変態チックな小説を書いて恥ずかしくないわね! でも――――」ぶるぶると震え、顔を赤らめた桐生が、原稿を白鳥に突き返した。


 桐生、お前の眼にはすでに小山田の姿は映ってないのか――いや、悪の根源たる悪魔が悪事を働いたとて、それは非難するに相当しない自然の摂理に則って起こされた行為であるという論理に基づいているのか。


 白鳥は飄々とした態度で、あまり口数も多くなくミステリアスで、学年の中でも浮いてはいる。が、一部の女子からは大変な人気で、特に上級生女子生徒は獲物を見つけた蛇のような執拗さで、白鳥の気を引こうと物陰からいつも狙われていた。


「いえいえ桐生さん、僕は本質的な愛の体現を著してみただけのことでして……」


「いやいや、おかしいだろう! なんでバーに入って一言二言話しただけの男女が次のページでラブホにいるんだよ!」木ノ下が食って掛かる。


 かつて木ノ下も異世界の中であらゆる種族の女性を我が物にしてきた強者だ。だが彼の操る主人公は皆鈍感で、かつ女をモノにするまでの道のりは厳しく、あらゆる困難が待ち受けているのであった。予定調和といえど、そう易々と女は手に入らないという事を生まれながらにしてエターナルチェリーな彼はよく知っている。しかしそんな彼であるからこそ、その先を知らないからこそ、互いの身体に触れることすらままならない、ジレジレのプラトニックな筆致は匠の域に達しているといってよかった。


「そうだ、白鳥。これではあまりに情景描写が足りん。これではファンタジーだ」


 口に出して言うに憚るが、白鳥の文章は先走り液がのたくった駄文である。早く決着させてしまいたいという願望が筆に現れている。我々はその男性的特性から過程をないがしろにし、ついぞ都合のいい結果を求めてしまう傾向にある。結果が良ければそれでよし、発射オーライと安易に自己の脳幹中枢の赴くまま物語を構築しがちであるが、それでは人の心を掴み動かすことはできない。


「ええ? そうですかねぇ……そういうものだと思ったんですけどねぇ」


 相変わらず白鳥は飄々として、自身の原稿を手に取りパラパラとめくる。


「白鳥君……」


 しばし蚊帳の外に居たかに思えた吉原女史が、突然口を開く。


 真打ち登場である。


「ベッドイン後の行為描写は修正なさい。そのままでは無理だわ。あと桐生さんは何の問題もないわね。では、我が部の応募作品は桐生さんと白鳥君の二本柱とします。以上」


 ピシャリと、一切の異議を認めないといった口調だった。


 なんだと……そんなこと……俺の思考回路に憤りが追いつく前に木ノ下が「っちょっと! 僕らのは? 僕らの作品は! まがりなりにも僕らは上級生ですよ、筆頭部員ですよ!」椅子から立ち上がり、去ろうとする吉原先生にくらいつく。


 ところが彼女は振り向くことなく、ギロと眼球だけを傾けて木ノ下を視殺する。


「万年底辺、文芸に携わった年数分自己顕示欲だけが肥大したアイ・ワナ・ビーの意地か? それともわずか一年早く射精された結果、たまたまこの世に早く生を受けたという些末な生殖細胞の矜持か? 投げやりになってガイドラインを無視して好き放題ふるまってさぞ気持ちのいいことね? おおかた自爆して部もろとも潰して悲劇のヒーローを気取るつもりだったのでしょうけど、この二人の作品が選考を通過し、晴れて私がIDを取得した暁には、私の基準に適合しないあなた方という劣性遺伝子をここから排除する権限を持つのよ。なにもあなたたちがいなければこの部が成り立たない、というわけではないのよ――――」


 そう言い残すと吉原先生は部室を出て行った。残された俺たちの薄い沈黙のベールを、雷鳴が幾度となく揺らしていた。


 やられた。俺は甘かった。


 以前に俺が"小山田を切る"と断じたあの威嚇を、そのまま意趣返しされた形だ。ガイドラインに沿って書くことを放棄する俺たちなどいらないと。まさか俺達を切り捨てるという選択肢があったか。


 しかし解せない。


 半ば自棄になりかけたものの、俺の作品は使用禁止語句を徹底的に排除しつつ、日常の営みに必ず内在する最も身近な欲を軸に生と死を描きあげた渾身のハードボイルド小説だ。アウト判定がああもあっさりと出されるとは思えない。


「私の作品が代表に選ばれたのは嬉しいんですけど、でも先輩の作品をこんな扱いにするなんて……ひどいですよ、先生は」桐生は俺の原稿をゴミ箱から拾い上げ、パラパラとめくる。もう一人の合格者、白鳥もそれを横で覗き見る。



 ~まな板の上に寝そべった、艶めかしくも弾力を失った肌のおおぶりの鱈が、お願いだから痛くしないでとも懇願しているかのような潤んだ瞳を向けていた。全身は粘液でべたべたになっており、大きく開いただらしない口は開くたびに糸を引く。


 五郎はその口腔に指を突っ込んで、舌をやさしく指の腹でなぜてやる。すると鱈はビクンビクンと体をよじって、厭がって息を荒くする。そしておもむろに、もう片方の手に持った包丁をその柔らかな腹へと走らせる。


 熟れた鱈の膨れ上がった下腹部には、その張りを満たす濃縮されたミルクのような白子がたっぷりと詰まっており、五郎はそれを愛おし気に、傷つけないよう人差し指と中指を入れて慎重に掻きだしてやる。鱈は裂かれ、強引に開かれた割れ目に指を潜り込ませられ、なすがままにされる自身を悔いて恥じているのだろうか。そしてあっという間に三枚におろされ、文字通り身を剥がれたというのにまだなお、まな板の上で恥ずかし気に身もだえている。


「――国重先輩、お魚捌いたことあるんですか?」桐生の横で、白鳥が俺に訊いてくる。


「あ、いや。まあ、な……」俺は歯切れ悪く応える。


 俺の物語の主人公、御留五郎おとめごろうは旨い食材を仕入れるためになら自身で危険な山海に分け入ることも厭わず、いかなる食材をも天才的に調理する寡黙な板前だ。


 彼の包丁でさばかれた魚は三枚におろされてもなお、水槽で泳ぐという。


「おっ……泳ぐかよっ! 貴様こそ、そんなのファンタジーだろうがっ!」俺は襟につかみかかってくる小山田の手を振り払った。あるんだよ、それは現実に。


「聞いたことはあります。"骨泳がし"というやつですね……」白鳥は知っているようだ。


「部長、面白いですよ。闇の世界の住人から板前へと転身を遂げた、主人公の生涯。殺した人間の分、罪償いとして人々を食で喜ばせようとするが、彼を再び闇の世界へと引きずり込もうとする組織からの圧力、そして報われない自身の行為への葛藤。生命を狩るという行為と共にある、食材と食文化に生と死のテーマが盛り込まれています。しかし惜しい……この構成では〆てませんよね、明らかに……」


 締めていない……いや、そんなはずはない。一目見てわかるようなミスはしていないはずだ。山場、谷場、そして落としどころも相応に工夫してある。物語はラストに向けて綺麗に収束させた筈だ。


「何だ白鳥……何が言いたい?」


「――僕から説明しよう」


 そう言って眼鏡のブリッジを人差し指でツイとあげた木ノ下が、白鳥を押しのけて俺の前へと躍り出てきた。そこで俺は気づいた。そもそもが間違っているのだと。


「気づいたようだな国重部長――いきなり生きた魚の腹を掻っ捌くなんてのはあり得ん。まずはエラから庖丁を入れて、瞬殺。自己消化反応によるATPの減少を抑え、血抜きで死後硬直を遅らせ鮮度を保つ。これがいわゆる“活け締”という工程の基本だ……素人はつい生け造りのような半殺し状態のものが刺身の至高だと捉えがちだが、魚であろうが動物性蛋白質は死後、時間をかけてATPが乳酸となり、筋原線維の収縮タンパク質である、アクチンとミオシンが結合し、死後硬直が起こる。この死後硬直後タンパク質分解酵素プロテアーゼにより筋原線維が小片化し、緩解した時点から体内に残されたATPがADP、AMPと幾つかの経過を経てイノシン酸という旨味成分に変化する。いわゆる熟成肉だ――聴いたことくらいあるだろう栗田くん」


 くそ、ここぞとばかりに……木ノ下にはかなわん。誰だ栗田くんって。


「五郎が伝説の板前であるならなおさらこの描写はいただけないな。ピチピチプリプリの鮮魚をパフォーマンスとして提供することはあるが、生け作りが旨いはずはないんだ。あれは雰囲気にのまれているだけだ。まして握りとして出す鮨屋もまずない。無論、仮に締めていたとしても鱈は沖で食え、と言われるほど鮮度落ちが早く、寄生虫も多い魚だ。内蔵を処理していない鱈など、まず刺身にすることはないだろう……国重よ、派手さに奇をてらった演出が、知識不足を盲目にしているんだよ。おかげですべてがアウトになってしまっているんだ」


 確かにそうだ、俺は生きた魚を捌いたことなどない。海を泳ぐ魚がどうやって刺身になるのかなんて俺は知らない。ただ、テレビで観た風景をそういうものだと、そういうものだろうと勝手に解釈していた。


 これは恥ずかしい事だ。吉原先生が一瞥しただけで、俺の作品をゴミ箱に投げた理由が解った。しかも、それを後輩に指摘されるなど。


 桐生、白鳥、お前たちは優秀だ。


 俺たちよりもずっと。お前たちが代表に選ばれたのも頷ける。そうだ、俺は最初から解っていたのだ。描けていないことを。勉強不足だという事を。


 これが、異世界の料理人がドラゴンを捌く様子を描いたものならば、何の問題もなかっただろう。そういうものだとして、もっともらしい解釈をいくらでもつけることはできる。だって、これは現実じゃないんだからと。


 学生の身で、社会経験の少ない俺たちが創作をするにはファンタジーが手っ取り早かった。剣と魔法の世界。物理法則が地球とは違う世界。道徳観の違いすら看過し得る世界。世界を騙り、人を騙り、都合よくすべての出来事が主人公に収束してゆく世界。誰もがヒーローになることを裏切られない世界。


 現実にはそんなことは起こり得ない、そう解っているのに、憧れた。それは俺たちがあまりに脆弱なせいだ。疑う事から目をそむけたくて、疑わずに済む仮初の世界を守ろうと必死になってきた。先走り汁をのたくらせていたのは俺そのものじゃないか……。



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