3 A国女王様はM愛シックスでS級スパイ
吉原先生は、可決法案の概要をまとめたプリントを俺たちに配り終えると、暑い暑いと呟きながら、その艶めかしい腰つきを見せつけるように、さっそうと部室を出て行ってしまった。
「使用、禁止語句、一覧……くそう、ここまで具体的に決まっているのか……」ずらりと列記された性的隠語一覧と、性的表現一覧。従来ならばたとえ未成年者であっても閲覧はもちろん、記述に関しても何の問題もない表現が、重箱の隅をつつくかのような執拗さで、禁止項目として明記されている。
「これじゃあ逃げ場がないぞ……」目頭を押さえつつ唸る木ノ下。
今まで無駄に溜め込んだ中世西洋薀蓄やその社会構造、鉱物資源知識や野外生活術や、各種生物の生態、魔術の発動ロジックなど、彼の作家としての知識量は俺達の誰をも凌駕しており、彼ならばどんなジャンルに移ったとて執筆は可能だろう。だが実社会経験の乏しい木ノ下にとって日常劇はあまりに酷だ。木ノ下、お前から異世界を奪ったら、やっぱりただの設定厨二野郎だ。しかしその木ノ下よりもさらにどうしようもないのが小山田である。
「こんなことが許されてたまるか……許されるもんか!」小山田は両拳を握り締め、打ち震えている。
彼の書く作品はファンタジー規制後でも、環境設定等の小変更で問題にならない程度のものが多く、SFが最大の武器であった三条、異世界転生を核としたファンタジー作品を書いていた木ノ下よりも、格段に執筆障害が少なかった。それは彼の作風が“萌え”と“エロ”に特化していたためであり、たとえどんな環境設定であっても、彼のリビドーを満たすに足る執筆は可能だったからだ。云うに、エロは万能、全人類の宝であると。
しかし、今回の規制で彼のすべてが封じられるのだ。逆に言えば、小山田が積み上げてきたものはエロ一本だったということなのだが。
皆が渡されたプリントをまじまじと凝視する中で、桐生が突然立ち上がり叫ぶ。
「はっ! なぜ“両刀使い”を出しちゃダメなんですか!」
「――っ、なにがって……桐生、そんなの当たりま――」
「私の作品“流浪剣劇ネコタチ”は、相手が何者であろうとも、剣を交えることを躊躇しない主人公、葉隠菊次郎が愛刀の根来と多知の両刀を振るう痛快剣劇アクションです! マイノリティである自らの人生を切り開いてゆこうという意思を、両手持ちの刀を振るう事で表現したかったのですけど……」
桐生先輩の妹という事もあり、幸子のその発言はいろいろと問題があるように感じてしまったが、そうではない。彼女の作品は二刀流の剣士を主人公にした時代物だ。
ちなみに、ファンタジー規制において、かろうじて時代物は年代考証が正確であり、かつ物理法則を著しく逸脱しないものであれば、登場人物が架空であっても規制は受けないことになっている。
「桐生の作品の場合は規制には抵触しないよ、うん。でも刀の名前は変えた方がいいと思う」俺は努めて冷静に、先輩然としたアドバイスをした。
「ああ、名前で思い出しましたけど、主人公の名前“鬼頭正樹”ってまずいですかねぇ……」と白鳥茜が顎に手をやり唸る。
「むぅ、読みようによってはまずいことになるから、ルビは随所に必要かもな。しかし要は使いようだよ。隠語に限らず、言葉の意味というのは前後の文脈によって発動するものだから……」
「じゃあ、この“私のおいなりさん”というのは何故ダメなんですか?」と桐生がなおも無垢かつ探究心旺盛な瞳で訊いてくる。罪な後輩である。
「うっ! ううん……つまり――――あ、そうだ、稲荷神社の宮司が自らの社を指してその様に言うことはまずないわけで……日本語としてふさわしくない表現だからってことで……」
「ええ? ――でも、私の作品内では“目の前の母娘は瞳を潤わせ、拙者のおいなりさんを物欲しそうに見つめていた”と書いているだけです。主人公は空腹の彼女らにおいなりさんを分けることによって、事件を知るというきっかけになるんですが……これは困りました」
――桐生幸子、まさかの親子丼ときたか。
「うん、まあ、たぶん、そこはおにぎりに変えた方がいいのかなぁ……と」
「ええ、なんでなんですか? これはキツネ色が伏線になってるんですよ?」
「じゃあ……ハンバーガーでもいいからさ」
「時代劇なんですよ?」
想像猥褻媒体規制法の概要は非常につかみどころがないため、こうして具体例を列記しているのだが、それがさらなる混乱をも引き起こしかねないという事を如実に語っていると言えるだろう。
そもそも文芸においてはもとより、官能小説ですら性行為や生殖器そのものを直接記述することはない。もしその記述を文学に求めるならば人は古事記にまで遡らねばならないだろうと言われるほど、人類は性に執拗なまでにベールを被せてきた。
文学における性的描写。それは初見の者にとっては作家の照れ隠しのように思えるかもしれないが、もともとは近代文学黎明期における、当局の検閲を潜り抜けるため著された間接描写であり、独特な比喩表現であったものが、時を重ね熟成され、現代の官能小説ように人の奥底にある淫心を掻き立てる描写となって完成したのだ。
それは文章表現を追求する者としての矜持が強く作用していると言えよう。また性器や性行為、性的部位そのものの直接描写よりも、身近にある直接的なイメージのしやすい媒体を経由する方がより伝わりやすく、かつエロティックに機能するという狙いがあると見える。
「……僕の作品、冒頭からダメじゃないか……なぜだ。"ウチの自慢のコックよ"というセリフはアウトなのか?」
「ああ、木ノ下先輩の『A国女王様はM愛シックスでS級スパイ』の、ターゲットを王宮に招いて料理自慢するシーンですね。なんででしょうか?」
木ノ下の作品はすでにタイトルからして危うい。その作品、俺は読んでいないが内容は大丈夫なんだろうな。それにしてもお前ら、どうして男根ネタの方にばかり振るのだ。そして白鳥、お前はこのタイトルのどこに惹かれて読んだのか。
俺たちが侃々諤々と議論している傍らで、背を向けカタカタと熱心に執筆をつづけているのは小山田だ。まるで自分には関係ない話だと言わんばかりに一心不乱にキーを叩いている。ガイドラインに沿って早速自作の修正に取り掛かっているのだろうか。
俺はそっと傍らから、彼が注視するディスプレイを覗き見てみる。
~大学に合格したものの、うだつの上がらないボクは、通いなれた通学路をいつものようにバイクで走っていた。
信号待ちで前の横断歩道を女子学生が渡り歩いている。すると突然、びゅうと、季節の変わり目を知らせる悪戯な春の妖精が、登校中の少女の制服の裾をふわりとなぜる。
「きゃ、いやん、エッチな風!」
近頃は中学生でも随分とスカート丈が短くなって、興味がないと言えども視線は思わずその発育しきっていない生細い大腿へと注がれてしまう――いかん、ボクは変態か、とブンブンと頭を振って自戒する。
あんな妹と大差ない、いや妹と同学年かもしれないが、そんな女の子に対しささやかながらも下腹部が反応しかけたことに罪悪感を覚える。
大人には、いや男には、裏切ってはいけない、超えてはいけないボーダーがある。昨今では警察官だろうが教師だろうが、易々とその線を越えては世のさらし者になっているではないか。
最低だな……ボクはさながら鬱積した感情を吐き出すかのように、白い息をヘルメット内に吐き出した。そしてタンデムシートに括りつけた、買ったばかりのフルフェイスヘルメットを振り返り、幸福な気持ちに満たされる。
待っていてくれる人がいるのだ。
そう、ボクには家に帰れば愛しい、いもうとというたいせつなそんざいがある。いえにかえったらさっそくいもうとにおにゅーのふるふぇいすへるめっとをかぶせて――――っはあぁああ! むりだぁああああーーーー! 小山田! 全女子小中学生のためにお前は筆を折るべきだ! いやっ、死ねぇええええええええっ!
気づくと、失神した小山田のぷにぷにの首には俺の両手が食い込んでおり、木ノ下、白鳥が懸命に俺を背後から羽交い絞めに。そして真正面からはジト目で桐生幸子が睨みをきかせていた。
「――それにしても厳しい条件を課され過ぎてますよね。国重先輩の言われたように、前後の文脈からその意図はくみ取れるわけですから、通常感覚であれば意味を取り違えることなどあり得ません。ただ、先のファンタジー法にしても、ここまで私たちが規制されるのは何故なんでしょう」
「き、桐生もこの小山田の作品を見ただろ! この犯罪係数をマックスで振り切っている男を規制するためだ!」俺は興奮冷めやらぬまま、警告の意を込めて彼女へと告げる。
「そうはいっても、日常にもエロは転がっているわけですしねぇ」と茜は窓際にもたれかかり、腕を組んだまま窓外に視線を投げかける。
白鳥の視線の先、笛の音と水しぶきのはねる音。まだ早いようにも思えるが、すでに水泳部が夏の大会に向けて練習にいそしんでいるいるのだ。
「ちょっと、なに茜君! プール覗いてるんですか? サイテーですね、不謹慎にもほどがあります」桐生が厳しい口調でグイと白鳥に詰め寄り、不機嫌に窓から外に顔をのぞかせるが「なんだ、男子ですか……」と安堵したかのように短く息を吐く。
今日は男子だけとはいえ、もちろん女子部員の、水弾き度百二十パーセントの健康的な肢体を限界ギリギリまで露出している風景を拝むことも可能だ。
この部室からプールの風景がよく見えるのは大変喜ばしいことであり、文芸部でよかったと、夏のクソ暑い部室に出向こうという気にさせる程の引力を有する、重大な要件といえる。
だが我々は、それをあからさまに見学と称し観察するような愚行は避けねばならない。我々は何気に暑いからと窓を開け放ち、何気に窓際でアイディアを練っているふりをしながら、何気に視界の端でついでの様に、彼女らの瑞々しく健康的な美脚を捉えねばならないのである。