2 双丘の悪魔
「対策を練らねばなるまい……文芸部として、これ以上表現手段を侵食されるわけにはいかん!」俺は部長らしくこの混沌を収めるべく、一喝した。
「しかし部長、相手は何でもありのチート政府だ。僕たちの力なぞ蚊ほどにも思っていないだろう……」と唸るのは木ノ下だ。
奴はしきりに"あの日僕は死んだのだ"と言う。あの日とは、政府が俺たちから想像創作の手段を奪い去った日のことだ。
以来木ノ下は異世界も異世界転生も描くことも出来ず、チート能力を得た主人公に無双させることも出来なければ、異人種異性ハーレムを描くことはもちろん、そもそも俺たちの暴走の結果、顧問である吉原先生がIDを取得できずに、政府の提示したガイドラインに沿ってファンタジーを描くことも許されなくなった。
「なあに、一度死んだ僕にとって、この世界は異世界そのものさ」と強がるも、もはや木ノ下にとって、ファンタジーを禁ぜられるという事は手足をもがれたアブラムシに相応しい。
だが彼はめげなかった。手足をもがれてもまだ表現手段はあるとばかりに、現代劇におけるハーレム実現の可能性の追求に没頭した。だが、今回は、ダルマになった木ノ下に唯一残された突起物をも、政府は奪おうと迫ってきたのだ。
「エロこそは創作の原初的な衝動ともいえるんじゃないのか。そこを規制されるともう俺たちに希望はない!」小山田が声高に嘆き叫ぶ。
確かにそうだ。
幼年期から少年期にかけての男子が、英雄たちが悪と戦い打ち滅ぼすカタルシスを伴ったヒロイズムから覚め、次に没頭するのはエロティシズムに他ならない。唯一の女性部員である桐生を除けば、ここに居る者のみならず世界中の男子その全てが、中学校期の思春期における思考能力の九割を性的欲情に傾けていたと言えよう。
例えば、なにげに隣の女子が「国重君、ここに私のも置かしてね」などと耳にしようものなら中学生男子式IMEは不可逆的に「国重君、ここで私を犯してね」などと変換してしまうのだ。
俺たち男子学生が抱える、拭い去ろうにも拭い去ることができない、不可解と混沌に包まれた世界への渇望とは、砂漠で脱水死寸前の旅人が地平線の向こう側に垣間見るオアシスの蜃気楼のように、果て無く続く希望と絶望の繰り返しといえる。
ある者は身体を動かしその閉塞的情動を汗とともに流し去り、肉欲を筋肉へと、求愛を勝利へと変換し、健全なる肉体と精神を手に入れたと錯覚することで気の迷いを一時的に消し去る。
そして俺たちのような内扉者は、情欲の発露を文字、あるいは絵、映像として二次元へと落とし込むことで一定の収まりを得ようとする。
だが鍛えた肉体を持つ者達が汗のにおいの中、程よく湿り気を帯びた肌と肌のふれあいを継続するうちに、友情が愛情へと変わることがままあるように、我々も零コンマ数ミリに印刷された対象へ愛を求めてしまう事がある。
その愛しき歪み、倒錯、変質性を受け入れることを、我々は昇華だと信奉し称賛する。
今回の法案は、その最終解脱者である多くの想像創作者たちにとって、非常に厳しいものとなるだろう。
俺たちが車座になって部室の机を囲んでいると、そこへ勢いよく部室の扉が開いた。
「あっらぁ! どうしたの? 能無しどもが雁首揃えて何の作戦会議かしら?」
吉原美奈子――――
あの事件以来俺たちと顧問の彼女との関係性は最悪だ。吉原先生には吉原先生の、文芸とはこうあれという理想があった。だが、俺たちはその枠には収まることなく禁断とされた果実をもぎ取り、彼女の統べる楽園で安穏と暮らすことを拒み、イチジクの葉を手に罪を背負うことを選択した。
歯噛みする俺たち二年生の脇を、そよ風のようなさりげなさで通り抜け、吉原美奈子は白鳥のすぐ脇へと佇立していた。
その持ち上げかけた掌はゆらりゆらりと所在なさげに、迷い揺れているように見えたが、けしてそうではない。それは獲物を目前にして抑えきれないリビドーの迸る陽炎である。
白鳥、離れろ。そいつは悪魔だ。
彼女こそが堕天した女神、双丘の悪魔。
胸部にそそり立つ豊満なる丘陵に挟まれた、深い渓谷。それは全ての者が一度目にすれば、探訪したいと渇望して止まない神秘の谷だ。
その谷に誘い込まれた愚直な旅人の視界の先には、永遠とも思える広大な美しい、極非常に緩やかな稜線部が目前に広がる。その真っ白なフワフワの大地は、旅人を誘惑しつつ、激しい葛藤を突きつけ試される試練の大地。旅人に自らの命の全てをそこにぶちまけさせてしまう虚無の平原だ。
そして果てしない絶望を伴う、どこまでも続くかに思えた地平線を越えた先には、突如全ての光を吸い込んでしまう森が現れる。
あまりに不自然に、ただそこにだけ群生し、実は自分は冒険者であったのだと旅人の野性を惹起させる荒々しい黒い森、無限暗黒三角地帯が待ち構えている。だが恐ろしいのはその先だ。
そのさらに森の奥には、好奇心に訪れた俺たちの切なる視線を釘付けにし、さらには無効化し、すべてを無意味にてしまう女神の微笑みを称えた悪魔の洞穴が待っているのだ。
俺の胸中に苦く濁った黒いインクが広がってゆき、思わず反射的に胸を抑える。心臓が深く重く、一度鼓を打つ。
俺は白鳥を守るための言葉が出ない。
しかしそこへ、「吉原先生!」と慄然とした声が部室に響き渡り、俺は呪縛から解き放たれる。
「戯れにして暴言に過ぎます。私たちはこの文芸部にさらなる昇華をもたらさんと、日々研鑽しているのです。同じく文芸を愛する者として此度の法案可決に、先生はどのようにお感じになられましたか?」と、天啓にも似た声色。
桐生幸子――貴女もやはり原罪的中二病罹患者純血種と同じ血を引いているのだな。ペラい胸を相変わらず、恥じることなく目一杯そり返して、この恐ろしき双丘の悪魔と正面を切って対峙している。
「あら、桐生さん。お姉さんはお元気? 彼女はまだ執筆活動は続けているのかしら?」
「くっ……。――――ええ。しかし姉は……姉には才能というものがないのです。血反吐を吐きながらあんな作品しか書けないのであれば、もはや絶筆を勧めるのが眷属としての最後の情けだとすら思います……」
「あぁん、そうなのね。それは残念だわ。まぁ彼女、一般文芸の新人賞では一次すら通ったことがないものね」
吉原・ザ・デヴィル・オブ・ツインヒル・美奈子は艶めかしい舌先で上唇のルージュを舐めると、両の腕を双丘の下へと潜り込ませて、下目遣いで桐生幸子を見つめなおした。
桐生と吉原先生がにらみ合う傍らで、俺は拳を握り締め項垂れるしかなかった。
すまん桐生――――まことに不本意ではある。
実は俺たちは、先のファンタジー法闘争において引きずり出された命題が、俺たちと彼女との認識齟齬を認めざるを得ない事態に発展させ、この文芸部の現況、すなわち顧問教師との軋轢関係を生みだしてしまった旨を新入部員二人には告げていない。何より、我々が、御代桐生洋子の遺志を継ぐ残党であることを彼女、桐生幸子は知らない。
当の桐生洋子先輩は無事進学を果たし、今も大学の文芸サークルでその手腕を放っており、各種のBL系小説賞を総なめする超実力派作家となっている。だが、先輩はペンネームを駆使し、家ではそれらをひた隠しに過ごしているという。
桐生家は厳格な家柄で、長女である桐生先輩も、その妹君である桐生幸子にしても、文学といえば純文学こそが至高であるという教えを両親からたたき込まれて育っているのである。
彼女たちの衣服の下には親から与えられた文学賞養成乳バンドが装着されているせいで、乳房が育たないとまことしやかに噂されるほど、家族ぐるみで文学に傾倒しているのだ。
だが、桐生先輩はその拘束があるにもかかわらず、自らの呪縛を引きちぎり、振り切り、省みることなく、見事に道を外れた。
かつて先輩が部費捻出のために書き連ねたBL作品の数々は、純文学をこよなく愛していたはずの無垢な彼女自身自をたちまちのうちに蝕み、超々腐人としてしか文壇に立てない体質へと変えてしまったのだ。無論桐生家に彼女のような超々腐人を認める余地など到底ない。
そして道を踏み外すことなく親の教えを忠実に守る幸子は、幸か不幸か姉の正体に気づいていない。
「所詮姉は凡人です。作品にパッションがない。もはや人間を突き詰めるという、小説執筆の最も核となる情動を放棄したとも思えます」
しかし、よもや自分の姉が、当時中学生の実の妹をモデルにし、その彼氏と自分の父親が恋に堕ちて不倫を重ね、挙句それを知った妹が失意の果てに段ボールハウスのおじさんに体を売ったのをきっかけに、おじさんと空き缶を集めながら全国を流浪の旅に出る。などという鬼畜小説を裏で書いているなどとは思ってはいまい。
すまない先輩。俺たちはあなたのことを心から尊敬しているというのに、書店のBL小説コーナーに"海原桐子" の名を見ない方が難しいという事実を、この幸子嬢に伝えることが出来ない。
あなたが彼女から罵倒されているその事実を聞いて、俺たちは胸が張り裂ける思いなんだ。妹君がここに来てからあなたの話をするたびに、いっそ禁忌を破ってすべてを晒してしまいたい衝動に何度かられたことか。
だがもはや俺たちにその権利はない。
今の俺たちの文芸部は、美麗な萌えイラストで飾られたラノベの一群を小説とは認めないという、健全安全好青年で組織された、世に物語の在り方を問い続け、幸福とは、悲哀とは、を語りつくす思考集団たると、喧伝しているのだ。すべては学園側の思惑通りに。
大敗を喫したあの日から、俺たちのファンタジーへの渇望はガラスの天井の向こう側へと仕舞われた。
吉原先生は桐生の言葉にふっと息を吐き、俺たち三人へと視線を転じる。
「もう、あなたたちは昔のあなたたちではないのよ。人の本質と真理を追い求めるのに、肉体表現を必要以上に前面に押し出す、凡庸で低俗なエロティシズムが必要か? 否、それは単なる末端現象であり、真実からは程遠いところにあるもの。年齢や性別、容姿や立場や境遇、そんなものによって人の持つ神聖なる精神性にバイアスがかけられ、時に酷く歪められ、慮辱される様を私はこの目で見てきた。もはや目に見える快楽に私たちはうつつを抜かしていてはいけないのよ。無意味で傲慢なこの世界にたった一つの光を求める行為こそ、文芸の本来の在り方なのよ」
かつての女神は、あの日から文芸原理主義者とも呼べる怪物となり果てた。彼女もファンタジーに夢を抱いていた乙女であった。
ファンタジーは人の持つ原初的な良心、真理としての愛、英明なる正義がそこに描かれるべきで、描かれるものだと信じてやまなかった。幻想世界に縁どられた人々の生きざまはよりシンプルに力強く、命の迸りを謳歌し称賛されるべきものであると信じていた。
それを俺たちは、俺たちが――彼女にしてみれば腐れ外道と揶揄すべき俺たちがことごとく破壊したのだ。
「――それにしても、この部室の暑さは何とかならないのかしら」
そう言ってシャツのボタンを一つ外し、襟を開いた吉原美奈子。そこには汗ばんだ両の乳房が作り出す妖艶な渓谷が開帳される。
口腔が乾ききった俺にとって、それはあたかも朝露に濡れた瑞々しいプリンスメロンのごときに映り、どろどろの種の部分をまき散らし、むしゃぶりつきたい衝動は淫猥なヴィジョンとなって脳裏をよぎる。
しかし、彼女に言わせてみれば、そんな短絡的かつ低俗的な叙情的表現こそ最も忌むべき存在だろう。
俺を含め、小山田、木ノ下ともに何一つ言葉にすることが出来ない。
哀れなる残党はこの巨大な監理者の支配から逃れることが出来ないまま、暑すぎる五月の部室でただひたすら血の汗を流し続けている。