ミレッタの森
本作品に登場する歌(呪文)は全て古代語ですが、古代語の文字を再現することが困難であることから、日本語のカタカナをもって最も近い発音を再現しています。なお、スミ付き括弧【 】には歌の意訳を付記しています。
ミレッタの外れの森は鬱蒼としている。
快晴の日であっても木々の枝が幾重にも折り重なり、暗々とした影ばかりが地面の面積を占めている。
年中湿った枝葉に覆われている地面を踏みしめながら、ぼくは森の中を進んでゆく。
湿った空気の中に、獣のにおいと気配を感じ取る。ぼくはその方向へ歩いてゆく。
ミレッタの森に自生する"ウイフト"という種の木は、枝が奇妙に曲がりくねっている。そのため空ばかりか、森の奥を見通そうとするだけでも、ひどく苦労するのだった。
森の向こうに獣の気配がある。
しかし、獣も息を潜めているのか、正確な位置までは掴めない。
ぼくは溜息を吐いて、それから息を吸った。
ひっそりと語りかけるように、ぼくは空気に向かって歌う。
「アルス フィオーレ ミ ディオレ イント」
【森に潜む獣の場所を我に語り給え】
森の向こう側に無数の光が灯りはじめる。それはぼくにしか見ることのできない、恩寵の光だ。森の空気がぼくの歌に呼応して、味方をしてくれたということだ。
光は、森の奥に潜む獣の場所を教えてくれる。ぼくは背中の弓を構えて、矢をつがえる。古くて粗末な作りの矢だったけれど、もう自分の身体の一部のようになっていた。
「マール カルロ ミ ジェレニ」
【感謝を捧げます】
ぼくは感謝の旋律を口ずさんで、それから矢を放つ。
きゅいん、と短い鳴き声が響き、森は再び闇に返った。
ぼくは曲がりくねった枝を掻き分けながら、森の奥、鳴き声がした方向へと進む。
「ごめんよ」
小型の動物の骸。四つ脚で全身が毛深く、小さなツノが身体のいくつかの場所から無造作に生えている。
ぼくはその上にそっと布を被せて、それから背負った。命を失った空っぽの身体はぐにゃりと柔らかく、生々しい。
生きるためには仕方がない。
けれど、やはり祈らずにはおれない。
森は薄暗く、どこか寂しげだった。
「さてさて、腕利きの狩人は何を持ってきてくれたのかな?」
ぼくが我が家へ戻ると、養父のアルスが悪戯っぽい声で出迎えてくれた。
「もう、からかわないでくださいよ」
アルスは少し膨れて、背中に背負っていた荷物と、獣の亡骸を降ろした。獣はすでに血抜きも終わっており、森を抜けるうちにすっかり忘れ冷えて硬くなっていた。アルスは感触を確かめるように、骸にゆっくりと触れる。
「ハリコタか」
アルスは感心したような声を上げた。「ハリコタ」とは、古代天球語で「三つのツノ」という意味だ。アルスは流木のように骨ばった指で、ハリコタの胸の創傷に触れた。
「奴らはすばしこいからな。よく矢一本で仕留めたもんだ」
「すでに弱っていたんですよ。ほら」
ぼくの言葉は謙遜でもなんでもなくて、事実、ぼくが指さした脚の一本は奇妙な方向に折れ曲り、蹄も割れていた。
「運が良かったんです」
「はて、運も実力のうち、とはどこの諺だったかな」
アルスは蓄えた髭に手をやりながら、首を傾げる。
「世界を旅したはいいが、文化がどの人々のものだったのか混ざってしまうのがよくない。耄碌したものだな」
それから疲れたように目の辺りを揉んだ。
「体調はどうですか」
「今日は随分いいよ。傷も昨日ほど痛まない」
アルスは盲目だった。世界中を巡った後、何処かの紛争に巻き込まれて、破砕した建物の残骸によって失明したという。日によって、その古傷が痛むのだった。
「ゆっくりしてください。薬は?」
「飲んだよ。飯にしよう」
アルスはぼくが止める間も無く立ち上がる。
どれほど体調が悪くとも、彼は必ず食事を作ってくれるのだった。
新鮮なハリコタの肉は柔らかく脂も適度に乗っているため、少しの塩を香辛料でも十分贅沢な食事になった。ツノも、湯掻くと嚙み切れる程度に柔らかくなり、味はあまりしないが、栄養満点の食材になる。
食事は、殆どが自給自足だった。
時折村に降りて穀物だけは買うけれど、他は全て森で調達する。香辛料も、いくつかの山菜を乾燥させて、アルスが煎ったものだ。
今日のアルスは少し様子がおかしかった。
「イリス、私の目が見えなくなったのが何故か、きちんと話したことがなかったね」
アルスは空になった器を置き、静かに話し始める。
「え、紛争に巻き込まれたって……」
「具体的な話を何もしてやれていなかった。場所も、理由も」
ぼくは部屋の空気が急に冷え込むのを感じた。
彼の言葉には力がある。
ぼくらが使う呪文のようなものとは異なる、人を惹きつける、幻のような力が。
アルスが語り始めると、ぼくはいつもその力の虜になってしまう。
「第二次天界大戦の火が、まだ世界中で猛威をふるっていた頃の話だ……」
アルスが何故、突然ぼくにこんな話をしたのか、この頃はまだ判っていなかった。
だが、アルスは感じていたのだ。
……ぼくらが、当分言葉を交わせなくなるということを。




