二話「悪魔の契約書」
「エド、やっと終わったのね! 随分と待ったわよ」
司祭とともに大聖堂を出たエドを待ち受けていたのは、一人の少女だった。ウェーブのかかった長い金髪、碧眼。雪のように白い肌。人形のように精巧な造りをした顔立ち。制服の上からでも見て取れる豊満な身体。
「これはこれはメグ王女。……はて、王女様はエドとお待ち合わせを?」
メグ王女――マーガレット・リリィ・セシル・オブ・ナグレンドは、ここ、ナグレンド王国の第四王女であり、教会本部付属魔法学園の生徒でもある。
「あ、司祭様。……いえ、特に示し合わせていたわけではないですが、エドから放課後に大聖堂礼拝があるって聞いていたもので、終わるまでここで待っていたんです」
司祭の問いかけに答えるメグ。それを聞いた司祭は困惑した表情でエドを見る。
「エド、もしこれから王女様と何か予定があるなら、例の件は無理にとは言わんぞ。その……君にも優先したい約束はあるだろう」
司祭は、エドに先約があったにもかかわらず、自らが断りづらい誘いをしてしまったと思ったのだ。
「いえ、いいんです。メグは本当にただここで僕を待っていてくれただけで、元々何か約束していたわけではないですから」
「しかし……」
何か言いたげな司祭をよそに、エドはメグに向き直る。
「メグ、待っててくれてありがとう。でも、ゴメン。この後ちょっと、まだ用事があって――」
「い、いいのよ。気にしないで。私が勝手に待っていただけだから! むしろ、そのせいで変に気を遣わせちゃって――」
「司祭様。例の見学、どのくらいの時間がかかりますかね?」
メグの言葉を途中で遮るように、エドが司祭の方を振り返る。
「ん? あ、ああ。そう長くはかからんさ。そうだな……夜入りの鐘が鳴る頃までには終わるはずだ」
「ありがとうございます。――ってことだから、夜入りの鐘の鳴る頃に女子寮前まで迎えに行くよ」
「――っ! うん! 待ってるわ!」
メグの顔がぱぁっと明るくなった。
「それじゃあ、また後で」
その後、メグは司祭に軽く挨拶し、その場を立ち去った。
「さて、行きましょうか」
「ああ、そうだな。……しかし、エドも全く隅に置けない男だ。本当はこの後約束があったのでは? 別に気にしなくてよかったんだぞ。私も、若い者の色恋沙汰の邪魔をするほど野暮な男ではないつもりだ」
「別に、メグとはまだそういう仲ではないですよ」
「フフッ。まだ、か」
柄にもなくニヤニヤと笑う司祭に、エドはため息を漏らす。
「司祭様、人の言葉尻を捉えるのは趣味が悪いですよ。……本当に、何か約束をしていたわけではないんです。ただ、ここ最近は特に示し合わせるでもなく一緒に食事をすることが多いというだけで」
「そうかそうか。全く、いくらカーティアス教が性に関して寛容であるとはいっても、節度はわきまえたまえよ」
「司祭様!」
司祭とエドは軽口を叩きあいながら、目的の場所へと向かうのだった。
悪魔の契約書は、学園内の一研究室に厳重に保管されていた。
「司祭様、こちらになります」
「うむ。ほう、これが……」
司祭は一人の神学研究者から手渡された分厚い本の中身に目を通す。
「古ナグレンド語……ペオラ教か」
「そのようですね。全文詠唱とともに主神への信仰告白によって契約が起動するようになっております」
「プロテクトは?」
「先に目を通した司教様と、宮廷魔法士長によって既に二重にかけられております」
「最後は私によって、ということか」
「ええ、お願いします」
司祭は大きく息を吐きだし、契約書の中身をエドに見せる。
「エド、古ナグレンド語は?」
「概ね問題なく読めます」
「ふむ」
司祭は一文を指し、それを読むようエドに促した。
「これは……。その、むしろよくここまで下劣な表現を思いつくものだと感心しますね」
そこには、カーティアス教への罵詈雑言が古ナグレンド語のありとあらゆる単語を使って書き表されていた。その一文だけではない。この書の至る所に、カーティアス教を貶めるような言葉が書き連ねてあるのだ。
「ペオラ教が非常に危険な異教であることは、これを見ただけでも分かるだろう?」
「そうですね……」
苦虫を噛み潰したような表情で契約書を見つめるエドを見て、司祭は満足げに頷いた。
「こういった危険な書物には、強力な詠唱阻害魔法をかけねばならん。万が一これを使う者が現れてはたまったものではないからな。エド、君もいずれはこういった仕事をするようになるかもしれん。よく見ておくといい」
「はい、司祭様」
その後、契約書にプロテクトをかける司祭の姿を、エドは神妙な面持ちでじっと見守った。
「――っ! エド!」
エドの姿に気づいたメグが、彼の元へ小走りで駆け寄る。そんな彼女に、エドは慇懃な態度で頭を下げた。
「メグ王女、長らくお待たせしてしまい大変申し訳ございません」
「もうっ。そういうのはやめてって、いつも言ってるでしょう!」
「これはこれは、どうかご無礼をお許しください」
「エド!」
頬を膨らませるメグに対し、ゴメンゴメンと笑いながら謝るエド。
空は既に真っ暗で、周囲に彼ら以外の人影は見当たらない。
「いや、随分と待たせちゃってゴメン」
「大丈夫よ。エドが忙しいのはいつものことだもの。それより、早く行きましょう?」
「うん、そうだね」
学園の敷地はとても広く、もはや一つの小さな街のようである。夜間は学園外へ出ることは禁止されているが、その代わりに学園内には雑貨屋や服屋、更には食事処まで立ち並んでいる。これは、生徒の安全を確保しつつも自由な生活を阻害しないための、王家の意向によるものだ。
「今日はどこのお店にしましょうか」
「実は、既に予約を取ってあるんだ。海鮮料理がメインのお店なんだけど、お気に召さないようだったら別の場所でもいいよ」
「いえ、そこでいいわ。相変わらず用意周到ね、エドは」
「ははは。とはいえ、学園内で行ったことのない店がもうそこしか残ってなかったからね。今夜の食事もおそらくそこでになりそうだったし、どうせ行くならと思ってさ」
――エドとメグは、この日のように幾度となく夕食を共にしていた。お互いはっきりと口に出したことこそなかったが、二人の関係は実質、交際する男女のそれであった。
「ん。そろそろ出ようか」
エドはグラスに残ったワインを飲み干し、そう呟いて席を立つ。店内には、既にエドとメグ以外の生徒の姿はない。
「そうね。出ましょうか」
ほろ酔い加減で顔を赤くしながら、メグも腰を上げた。
手早く二人分の会計を済ませたエドが、店員にご馳走さまでしたと声をかけると、メグもそれを見て同じ言葉を口に出した。
店を出ると、メグは甘えるような仕草でエドの腕に絡みついた。
「メグ、歩きづらいよ」
「いいじゃない。急いでるわけじゃないんだから」
エドは苦笑し、女子寮に向かってゆっくりと足を進める。
「ねえ、エド」
「ん?」
「……何でもない」
ぷいっとそっぽを向いて、赤い顔を見せまいと振る舞うメグ。
女子寮に着くと、エドはしがみつくメグを優しく振りほどいた。
「……もう。エドは、分かってて何もしないの?」
「何が?」
優しく微笑みながらそう返すエドを見て、メグはしょげた顔でため息を吐く。
「いいえ、何でもないわ。気にしないで。……それじゃあ、また明日。おやすみなさい」
そう言い放って背を向けたメグの肩を、エドは無言で掴んだ。
「きゃっ! な、なに――っ!」
振り返ったメグの唇に、エドはそっと口づけを交わした。数秒ほどで彼は唇を離したが、突然のことで驚いたメグは、何の言葉も発せないでいた。
「ふふっ。びっくりさせてゴメンよ。それじゃ、おやすみ」
そう言ってエドはメグに背を向け、手をひらひらと振りながら女子寮を後にした。そんなエドの後姿を、彼女はいつまでも熱っぽい目で見つめていた。
「というわけなんだが、どうだね?」
翌日の放課後、エドとスティーブは司祭に呼び出され、神官事務室に向かった。そこで言い渡されたのは、焚書前夜における契約書の保管警備に同行しないかという提案だった。
「それって、教会所属の魔法軍の人たちと共に、ですよね?」
スティーブは上気した顔でそう聞き返した。
「うむ。君たちのような優秀な生徒には、広い視野を持ってもらいたいと考えていてね。彼らとともに一つの任務に当たるというのが良い経験になるのではないかと思ったのだ」
「やります! 是非やらせてください!」
二つ返事で引き受けるスティーブ。彼は、将来魔法軍に従事したいと考えていたのだ。そのため、現役の軍人と話す機会を設けてもらえたということに対して喜びを隠せないでいた。
――司祭候補生といっても、その将来が必ずしも司祭になることに限られているわけではない。それは単に司祭になりうる可能性のある才能を秘めているという指標にすぎず、その名を冠していたことは将来どの職に就こうと有利に働き、その人物の出世を約束する。
つまり、スティーブが将来軍人になろうと、それは特に誰の期待を裏切るわけでもなく、むしろ国からすれば歓迎に値する行為なのである。
「そうか、そう言ってもらえると提案したこちらとしても嬉しいよ。……エド、君はどうする? 君が魔法軍に関しては特に強い関心は抱いていないことは知っているし、無理にとは言わんよ」
「いえ、僕もぜひご一緒させていただきたいです。こんな機会はまたとないでしょうから」
エドの返答に、司祭はニッコリと笑って頷いた。そして、詳しい日時や場所、注意事項などを二人に伝えた。
「よし、それじゃあ二人とも、その日は頼んだぞ」
「はい!」
「頑張ります」