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風呂を上がったムカルは、その後の朝食もしっかりと完食したかと思えば、もう一度入浴すると再び部屋を飛び出していった。
こんなに、旅館を気に入ってくれているのに。憩は笑顔を失い、口を開いた。
「やっぱり、行っちゃうんですか?」
「ああ。イシカ、会計を頼む」
「はい、ムカル様」
ムカルの言葉にイシカがぺこりと頭を下げ、フロントへと向かった。奥で経理をやっていた高橋に話しかけている。
ワコルはロビーにあるソファにちょこんと座っていた。その横に、ムカルもどっかりと腰を下ろす。悲し気に見下ろす憩の目を真っ直ぐに見る。
「俺達には魔王を倒す使命があるんだ。ここで長居するわけにはいかない」
「でも……」
「こうしている間にも、魔王がこの世界を破滅に追い込んでいるかもしれない。残りたいのはやまやまだが……」
「……そう、ですか」
憩は盛大に溜息をつきながら、かぶりを振った。俯きがちに、こめかみへと手を当てる。
朝食の配膳の際にそれとなく旅館に留まるよう話を持ちかけても、ムカルは魔王を倒すの一点張りで、ろくに聞こうとすらしてくれない。そんなキャラクター設定などどうでもいい。こっちは真剣なのだ。
何かないか、何か。彼らを引き留められるならどんな方法でもいい。
「ちょっと、困ります! いくらなんでも冗談が過ぎますよ!」
憩が唸っていると、フロントから高橋の声が響いてきた。
「どうしたんですか?」
慌てて駆け寄ると、イシカが困惑した様子で耳を垂れ下げていた。しゅんと叱られた子犬のような目で憩を見る。
「どうもこうもないわよ! これ! こんなものお金だって言い張るのよ? 趣味は人それぞれだと思うけど、流石にこれはやりすぎだわ!」
高橋が指を示したその先には、ゲームセンターで使用するようなコインが、革袋からいくつも飛び出していた。
憩はそれを一つ手に取った。軽い。プラスチックではなさそうだが、価値のある金属で作られているようには見えなかった。金色というより黄色に近い色をしていて、コインの真ん中には大きく『G』の文字が彫られている。
「どうしたんだ? イシカ。いくらなんでもその金で足りないなんてことはないだろう?」
ゆっくりと憩の後を歩いてきたムカルが、イシカの肩にぽんと手を乗せ聞いた。
イシカは目を潤ませながら、すがるようにムカルを上目遣いで見つめた。
「ムカルさま……」
「ああ足りてませんよ! こんなオモチャのコインじゃ、一泊どころかわらび餅一つ買えませんね!」
高橋が怒気を強めながら、カウンターに手を叩き付けた。傍らに置いてあった革袋から、衝撃でコインがザラザラと流れ落ちる。
「そんなはずはない。戦いも終盤も迎えた我々は、ゴールドの使い道がないほど余って大変だったくらいだ。意味もなく回復剤を大人買いするくらいにな」
鼻高々にムカルは顎をくいと上げ、腕を組み仁王立ちをした。なぜそんなに自慢げなのだろう。
憩はコインを窓から差し込む陽の光に照らし、じっくりと見つめた。しっかりと作り込まれて、オモチャと呼ぶには忍びない出来ではあるが、何にせよ支払いは不可能だ。
「持ち合わせはこれだけですか?」
「うむ、そうなるな」
ムカルが頷くと、憩もつられて頷いた。
まったく。それでなくとも経営は苦しいのに、久々にきた客ですらお金を持っていないだなんて。ああ、まったく。
まったく、ついてる。
憩は目を光らせ不敵な笑みを浮かべた。
次の瞬間、表情は一変して眉毛を吊り上げる。ムカルに対抗するかのように腕を組み、ずいと詰め寄った。
「こんなオモチャで騙そうなんて、卑怯じゃない!」
「ひ、卑怯だと……!?」
グイグイと背伸びをして顔を近づける憩に、ムカルはたじろいだ。気迫にも圧倒されたが、卑怯という言葉が何より心外だったようだ。
その態度を見て、憩は畳みかけるように続ける。
「そうよ卑怯よ! それに最低! こんな詐欺まがいなこと、悪者がやることだわ!」
「なっ! ううっ……!」
ムカルは心にダメージを負ったようだ。胸の辺りを抑え、苦しそうに体を丸くした。
耳をさらに垂れ下げたイシカが、おろおろとうろたえながらムカルの背中をさすり始めた。興味がなさそうにソファで足をぷらぷらさせていたワコルも、異常に気付きムカルの元へと駆け寄る。
にやりと、再び憩は笑った。
ゲームなどやったことのない憩にも、勇者という単語はなんとなく聞いたことがある。悪と戦う正義のヒーローというやつだ。
自分が一番正しいと疑ったことのない者に対して、否定の言葉をぶつける。しかも自分が最も嫌う悪党と一緒にされるなど、さぞかし屈辱だろう。
もうひと押しかな?
「こんな犯罪を天下の勇者様が行うなんて、もう皆さんに顔向け出来ませんね! 勇者の恥さらしもいいところだわ!」
「お、俺はどうすれば……」
ムカルは頭を抱えてうずくまった。イシカは半泣きで耳をぴこぴこと上下に動かしている。ワコルは大きな帽子のつばを両手で目深に下げ、ムカルの情けない姿から目を背けていた。
憩はゆっくりと、ムカルの肩に手を置いた。
ムカルはゆっくりと顔を上げる。
そこには先ほどまでの怒りやいやらしい笑みとは違い、女神のごとく清らかな表情で微笑む憩がいた。
「大丈夫。ムカルさんは悪人じゃないってこと、私が証明してあげます」
「憩……」
「話は簡単。無銭宿泊じゃなければいいんです。ほんのちょっと、この旅館で宿泊料金分働いてもらえれば。ね、簡単でしょう?」
「そ、そうか! そんなことでいいのか!」
すがるように憩を見つめながら、ムカルはこくこくと強く頷いた。
心なしか微笑む憩の姿に後光が見える。
それはムカルを救う聖母の力のように映ったが、実際にはちらちらと降り始めた雪が陽の光に反射しているだけであった。
当の聖母憩の心はどす黒い私欲にまみれていた。