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ムカルたちは初めの奇妙な衣装で、フロント前のロビーに現れた。
「何から何まで世話になったな。今朝の飯も最高に美味かった」
ロビーの清掃作業をしていた憩に、ムカルが笑いかける。ほんのりと上気した頬、しっとりと湿り気のある赤い髪。
毒気を抜かれるような柔らかな笑顔に、憩はつられて微笑む。昨夜の風呂場で見たおぞましい物体も脳裏によぎるが、素早く取り払う。違う、あんなものは、忘れよう。
早朝の塩素測定のため大浴場に行くと、浴槽どころか脱衣所も綺麗さを取り戻していた。写真だけではにわかに信じられなかったが、長年蓄積していた水垢やヒビすらない新築同様の浴場を実際に目の当たりにすると、自然と笑みがこぼれた。
湯船から容器に湯をひとすくいして、試験薬を混ぜる。白い粉状の試験薬はゆっくりと溶けだしながらその色をピンク色に変えていく。ぼうっと混ざりゆく様子を眺めながら、憩の意識は別のものに向けられていた。
高橋の話ではムカルたちはコスプレ集団ということだったが、果たして本当にそうなのだろうか。憩の認識では好きなキャラクターに扮装したり発言を真似るだけのものだと思っていた。コスプレをすることで、特殊能力までも使えるようになるのか。
いやいや。
憩はかぶりを振った。いくら流行に疎いとはいえ、そんなことが起こり得るわけがない。
可能性を考えるならば、有能な左官職人? プロのハウスクリーニング? 流しのリフォーム業者? どれも現実的ではない。
再度かぶりを振って、憩は排水溝にピンクに染まった液体を捨てた。洗い桶で真新しい湯をかけて綺麗に洗い流し、大浴場を出る。
今重要なのは、ムカルたちの正体を暴く事じゃない。不可思議な力が使えるという事実だけで充分だ。
用意していたタオルで濡れた手足を拭き、憩は脱衣所を出た。廊下からすぐ横にある厨房を目指す。加藤は既に朝食の調理を開始している頃だ。三人分程度では人手は必要ないと言われそうだが、配膳の準備くらいは手伝おう。
厨房の暖簾をくぐろうとしたその時、パタパタというスリッパの軽快な足音が聞こえてきた。音の方向に目をやると、ムカルがこちらに向かって歩いてきていた。
赤毛には寝ていた向きがありありとわかる寝癖がついていた。頭頂部には折りたたまれたタオルがちょこんと乗っかっている。胸の前でバスタオルを抱えており、浴衣がはだけてたくましい胸板が見え隠れしていた。
「おはようございます。よく寝れましたか?」
「おお憩か。床で寝るというのは初めてだったが、布団がふかふかなおかげでぐっすりと眠らせてもらった。イシカとワコルも相当気持ちがよかったのか、まだ就寝中だ」
ムカルの言葉に、憩は曖昧に笑った。
昨日聞いた、三人重なって寝るという台詞を思い出してしまった。気持ちがよかったのは布団なのか、それとも別の何かなのか。
「えっと、ムカル様はお風呂ですか?」
「うむ。また新しい技でも習得しないかと思ってな。ここの風呂は本当に素晴らしい。去るのが勿体ないくらいだ」
「そうですか、ありがとうございます。ゆっくりと入浴してきて下さい」
ずっといてくれていいのに。
頭に浮かんだ言葉は口にせず、憩は深々と一礼した。あくまで従業員、しかも今は支配人の代行をしている自分が、個人的な望みを客に要求するのはルールに反する。
憩が頭を上げると、ムカルはにこりと笑った。
「ああ、そうさせてもらう」
そう言ってムカルは大浴場へと歩いて行った。
彼の背中を見て、憩は軽く息をついた。思ったことを言えないジレンマももちろんあるが、昨日浴場を破壊したごつい斧を背負っていなかったからである。
とりあえず、今回は破壊されずに済みそうだ。