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「あっ、いたいた憩さん」
憩が廊下をふらふらと歩いていると、高橋の声が聞こえてきた。
「すごい量じゃない。半分持つわよ」
「ありがとう、お願いします」
部屋から壊れ物を持ち出している途中だったので、荷物にあふれて高橋の姿が見えなかった。茶びつとポット、グラスを持ってもらい、やっと普通に歩けるようになる。
「そういえば、支配人と女将さんは無事行ったの?」
「はい、すごい荷物持って行きましたよ。今頃は飛行機に乗ってるんじゃないかな」
「いいなぁ。ハワイ三泊五日だっけ? 憩さんがプレゼントしたんでしょ?」
「えへへ。偶然、歳末の福引で当てただけなんですけどね。旅館で休みもなかったから、ちょうどいい機会かと思って」
「いくら人がこなくても、休むわけにいかないからね」
「……そうですね」
高橋の言葉に、憩は声を落として俯いた。
旅館の経営は思わしくなかった。日帰り入浴は地元の人たちが銭湯代わりに通ってくれているが、宿泊に関しては冬場は特に絶望的だ。とにかく閉鎖された環境のこの土地には、目玉となるものが欠けていた。わざわざ遠くて不便なこの場所を選ぶ理由が見当たらないのだ。
憩の暗い表情に気づいたのか、高橋が慌てて声をかける。
「あっ、ごめんね。私、余計なこと言っちゃったわね」
「いえ、いいんです本当のことだから。それより、加藤さんはなんて言ってました?」
加藤はこの旅館の料理長だ。長と言っても調理をしているのは一人なのだが。五十代前半の彼は、憩が生まれる前からここで働いていて、面倒見のいい人だ。高橋も三十代後半ではあるが、子育てしながら旅館のために頑張ってくれている。
「夕食は心配いらないわ。明日は町の会合で食事会を予定しているから、食材はたくさんあるみたい。今から仕込みを始めれば余裕ですって」
「そっか、よかった」
にこりと憩は安堵の笑みを浮かべる。両親が不在の間は自分に任せてと大見得を切ったのに、このままお客様を満足させられずに帰すわけにはいかない。
備品庫を開け、持ってきた割れ物を収納する。グラスがないと不便かもしれないから、洗面所用のプラスチックタンプラーで代用しよう。温かいお茶を出せないのは申し訳ないが、従業員用の麦茶ポットで我慢してもらうしかない。
「それにしても、変なお客さんよね。コスプレっていうの?」
「コスプレ? あれってコスプレだったんですか?」
「違うの? ほら、前に町が共賛してアニメか何かのイベントをやってるニュース見たじゃない? コスプレの衣装のまま宿泊できるってやつ。あれの延長なんだと思ってたんだけど。割と場所も近いし」
「そうなんだ……私、そういうの詳しくないから」
道理で日本語は出来るのに、日本人離れした髪の色や服装をしているはずだ。憩は小学生の時から通学に一時間以上かかる生活を送っていたので、友達の家で遊んだことがほとんどなかった。家では旅館の手伝いをしていたので、流行や娯楽には疎い。
不審な発言も行動も、キャラクターになりきっていたからなのかもしれない。布団はとりあえず三組きちんと敷いておこう。
「平良くんに聞いてみたら? あの子ならそういうの詳しいんじゃない?」
「えー。わざわざあいつに聞くのはやだなあ」
憩はあからさまに嫌そうな顔をして舌を出した。
「わざわざじゃなくても、明日になったらうちに来るんじゃない? 会合のお酒注文してるから、届けにくるでしょ」
クスクスと笑いながら、高橋が備品庫のドアを閉めた。
平良というのは近くの酒屋の一人息子だ。年齢は憩と同じ十六歳の高校一年生。選ぶほどの学校がないこの場所なので、当然のごとくずっと同じ進学経路をたどる腐れ縁だ。仲が悪いというわけでもないが、一緒にいすぎたせいか会うたび憎まれ口を叩き合ってしまうので、休みの間くらいは顔を見ずに過ごしたかった。
仕方ないと、肩をすくめたその時。
ドゴォォォォォン!
唸るような地響きが旅館内に鳴り渡った。急な揺れに足をとられ、憩は思わず転びそうになる。
「な、何?」
幸いにも揺れはすぐに止んだ。しかし、音の正体は不明だ。旅館内の、しかも東側から聞こえたように思える。あそこにあるのは、厨房と、大浴場のみだ。
嫌な予感がする。とてつもない嫌な予感だ。
憩は持っていたタンブラーを高橋に預け、走り出した。
「ちょっと、見てきます!」
フロントを抜け、さらに奥の廊下を進むと厨房がある。中を覗くが、別段変わった様子はない。しかし、夕食の仕込みをしているはずの加藤が見当たらなかった。
音はここから聞こえてきたわけじゃないのだろうか。調理中の爆発事故かと頭をよぎったが、煙も焦げ臭さも感じなかった。
だとすると、残されるのは大浴場のみ。素早く浴場前に移動すると、男湯の暖簾を頭に垂らした状態で立ち尽くしている、男性の背中が目に飛び込んできた。
七分袖の白い調理服と、これまた白い前掛けエプロン姿の男。間違いない、料理長の加藤だ。
「加藤さん?」
「……え? あ、嬢ちゃんか! 大変だ! おち、おち、落ち着いて聞くんだぞ!」
「へ? いや、加藤さんこそ落ち着いてくださいよ。どうしたんですか?」
お玉を持ったままガタガタと震えだす加藤を、憩は背中をさすってなだめた。
「あ、あれだよ……。嬢ちゃんも自分の目で確認するんだな」
ぷるぷると指を震わせて、加藤が男湯を指さす。
「で、でも、男湯ですし」
「じゃあ女湯からでもいいから、入ってみるといい。どっちももう変わらんよ……」
言っている意味がいまいちわからないが、そりあえず何かが起こっているらしい。ひとまず加藤をそのままにして、女湯へと入った。
脱衣所は泥棒に荒らされたかのように散らかっていた。脱衣カゴが全て棚から放り出され、イシカとワコルが着ていた服が点々と床にばら撒かれていた。貴重品入れのロッカーは、鍵が全て破壊されている。
また隅々まで調べて回ったのだろうか。そちらも気にはなるが、今はそれどころではない。ガラリと浴場のドアを開けると、湯けむりが一気に立ち込めた。
ほとんど視界が見えないまま慎重に進んでいくと、ぐにゃりとした何かを踏み、憩はあっけなく転んだ。ふげっと情けない声を上げ、鼻を打ち付ける。
痛みに悶絶しながら、踏んだ何かを拾い上げる。石鹸だ。洗い場に備え付けの石鹸がばらまかれている。それだけじゃない。湯桶もタイルの至る所に転がっていた。
「何なのよもう……」
段々と湯けむりが晴れていき、浴場内が露わになる。お風呂のある場所を見て、憩は愕然とした。
女湯と男湯を隔てている壁が真っ二つに割れている。巨大な刃物で切断したかのように縦に見事な穴が開き、両方の浴場をつないでしまっていた。
こちら側では、イシカとワコルが呑気にお風呂で泳ぎながらはしゃいでいる。
そして向こう側では、全裸で一心に斧の素振りをする男がいた。
「な、な、な……」
あまりの衝撃に言葉が出てこない。しかしその声が聞こえたのか、男が素振りの手を止めた。開いたばかりの壁の穴から顔を出す。一目見れば決して忘れない赤い髪、ムカルだ。
「おお、憩か。この温泉というのは、素晴らしいな! HPどころか、ステータスまで底上げされるようだ。おかげで新しい技もひらめいたんだぞ!」
「本当に、気持ちいいですね、力がみなぎります」
すらっとして白い滑らかな肌に、イシカが湯を撫でつけた。長い耳がヒクヒクと恍惚そうに動く。
「ムカル様うらやましいわぁ。私も新しい呪文欲しいー」
駄々っ子のようにワコルが両手を動かすと、豊満な胸がプルンと揺れた。
何から突っ込んでいいかのわからず憩が放心していると、ザバザバと湯をかきわけて進む音が途切れた。
「どうした憩。怪我でもしたのか? お前も温泉に入ったらどうだ」
ひょいとムカルが憩の顔を覗き込む。
「へっ?」
その瞬間、憩は我に返った。目の前に、ムカルが立っている。
もちろん、全裸で。
憩の目線の先には、自分の体にはないおぞましい物体がぷらり。
「うぎゃあああああああ!」
大混乱のまま、憩は立ち上がる。再びぐにゃりとしたものを踏んだ。
そこで憩の意識は途絶えた。