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「俺、このゲーム買おうと思ってたんだけどさ。発売前日に突然延期の発表があったんだ 」
「それって……よくある話なの?」
ゲームに疎い憩には、発売の延期という意味の重要性がいまいちピンとこなかった。大雨の予報が出ているので翌日の運動会を延期するというレベルの話ではないのだろう。
「まあ、延期自体は珍しいことじゃねーけど。さすがに前日ってのは聞いたことねえな」
「ふぅん。発売もしてないのにこんな格好してるなんて、変わってるんだね」
「それ本気で言ってんのか? 大手のシリーズ作品ならともかく、こんなマイナーゲームのコスプレなんか、するわけないだろーよ」
「えー? じゃあ何よ、ゲーム会社の人とか?」
「お前なあ……何でわざわざ延期したゲームの恰好でこんな辺鄙な場所に来る意味があんだよ」
「何よもう! だったらあの人たちはなんだっていうのよ!」
憩は思わず声を荒げた。
いちいち突っかかる平良の言葉に、ついイライラとしてしまう。ゲームやコスプレの常識など知ったことか。勿体つけずに早く正解を出してくれればいいのに。
平良はなぜか憩に手招きし、辺りに気を遣うようにしながら声を潜めて話しだした。
「ここだけの話、実はこのゲームには重大なバグが発見されたらしくてさ」
「バグ?」
「ゲームの不具合ってやつだよ。それがどうも、出現するはずのキャラクターが消えちまったみたいなんだ」
「へえ」
「それまでのデバッグにそんな症状は出なかったし、プログラムにも異常はないのに突然だぜ? だからさ、これは俺の勝手な予想なんだけど」
「うん」
「こいつらがこっちにきたから、ゲームから消えたってことなんじゃねえかな」
「……は?」
適当に相槌を打っていた憩だが、平良の突拍子もない発言に耳を疑った。勢いのまま喋りだそうとしたが、喉まで出かかったところを口をパクパクさせて踏みとどまった。ゆっくりと深呼吸して心を落ち着かせてから、改めて話しだす。
「一応聞いておくけど……ゲームから人が飛び出してくるっていうのは、よくある話なわけ?」
そう、例えばテレビや映画である3D作品のように、視覚だけでなく実際に画面から出てくるのなんてことがあり得るのかもしれない。もしかしたら憩が無知なだけで、世の中はそれが当たり前なのかも。
平良は得体の知れないものを見るような目でこちらを向いた。その体がぷるぷると震えている。しばらくしてぷっと吹きだし、ゲラゲラと腹を抱えて笑い始めた。
「お前、バカじゃねえの? こんな話がしょちゅうあるわけねーだろ」
「なっ……!」
あまりの恥ずかしさで、憩の顔が紅潮した。いや、恥ずかしさだけではない。怒りと悔しさとその他もろもろの感情が絡み合って、沸騰寸前だ。湯気が出そうなくらいの勢いで、まくし立てる。
「私はそんなことあり得ないってわかってたし! ていうか、言い出したのはあんたじゃないのよ!」
「はあ? 俺はただ純粋に夢っつーか、憧れっつーか。男のロマンをだなぁ」
「何がロマンよくだらない! そんな非現実的なこと起こるわけないでしょ!? ねえムカルさん?」
憩が勢いよく振り返ると、ムカルたち三人は一つのコップに麦茶を注いで回し飲みをしていた。昨日は足を伸ばしたりあぐらをかいたりとだらしない座り方しかしなかったのに、今はきちんと正座をして部屋の隅っこに小さくまとまっている。
「む? どうした憩。この、泥水のような飲み物、まずくはないな。少し物足りない味だが」
一リットル用の麦茶パックに対して水を多めに入れていることがバレたのだろうか。一瞬ギクリとしたが、今はそんな話をしたいわけではない。憩はかぶりを振ってムカルの麦茶を取り上げて口を開いた。
「ムカルさんはどうやってここに来たんですか?」
上りの便にあたるバスにはムカルたちの姿はなかった。日に一本のバスで両親が乗るのを見送っていたので間違いない。では下りの便か。レンタカーという線も考えられるが、旅館に車は駐車していないし、わざわざ他の場所に停めるなどと面倒くさいことをするだろうか。だとすれば、ヒッチハイクとか? こんな格好の怪しい三人組、私なら絶対に車に乗せたりしないけど。
「ワコルの魔法で転移したまでだ」
ムカルは名残惜しそうに麦茶の入ったコップを眺めながら、当然のことかのようにさらりと言った。視線をゆっくりと憩へ移し、目を細めてにこりと笑う。
「レベル上げや装備は整っていたんだがな。魔王の住処がわからず困り果てていたんだ。ワコルが転移魔法をひらめいた時に、もしやと思ってな」
「やっぱりゲームの世界から来たんだな! すっげ。あの! 握手とかしてもらっていいすか!?」
「ああ」
興奮しながら平良が跪くと、ムカルはまんざらでもない様子ですっと手を差し出した。ぶんぶんと勢いよく握手を交わすと、平良は上司に接待するかのように自らのコップに並々と麦茶を注いでムカルに渡した。
憩は口を開けたままその光景を見ていた。傍から見ればさぞかしだらしない顔に見えたことだろう。あまりの呆れ具合に脱力し、顎の筋肉がその機能を忘れてしまっていた。
あくまでも設定を貫こうとするムカルもムカルだが、それを信じる平良もどうかしている。
半開きの瞳で心底憐れむように二人を眺めていると、上機嫌でムカルの装備をまじまじと見つめていた平良が視線に気づいた。
「あっ! お前、まだ信じてないだろ」
当然だ。そう思ったが口には出さなかった。その代わりに最上級の作り笑いでこたえる。
旅館の手伝いで鍛え上げた営業スマイルに不備はなかったと思うのだが、付き合いの長い平良には通用しないようだった。不審そうに眉根を寄せてムカルへと声をかける。
「ムカルさん、こいつまだムカルさん達のこと信じてないんすよ。この世間知らずの馬鹿に目にもの見せちゃってくださいよ」
舎弟さながら平良が密告すると、ムカルはうむとしっかりとした口調で頷き、ワコルへと目を向けた。
「ワコル」
「はーい、ムカル様」
ワコルはテーブルの上に置いてあった茶菓子を頬張りながら呑気に返事をした。
本来なら客室用に用意している茶菓子だが、客がこないため一向に減らず、賞味期限間近のものは従業員で食べるようにしている。かなりの数が余っていたというのに、そのほとんどが空になっていた。後に残された大量の包み紙のひとつをワコルは手に取り、くしゃくしゃに丸める。握りしめたこぶしに向かって何語かもわからない言語を呟いてから、ふわりと手を広げた。
「え?」
手のひらにあったはずの包み紙は消えていた。憩は目をぱちくりさせながら声を上げた。それから声には出さなかったが、こう思った。よくできたマジックだなあ、と。
そういえば先ほども落ちたバスタオルを拾うために、このような力を使わなかっただろうか。やはりワコルは使える。宴会芸にはもってこいの逸材だ。
憩が満足げに瞳を輝かせているのとは対照的に、平良の目は暗く淀んでいた。まるで憩の心を見透かしているかのように、それは違うとかぶりを振る。
「ワコルさん。そういう小手先の小さな魔法じゃ、このバカは理解できないんすよ。もっとこう、パーッと、派手でわかりやすい使い方じゃないと……」
「えー? 面倒くさいなあ、もう。はい、じゃあ行ってらっしゃいですわ」
嘆息気味にワコルが言いながら、中指と親指を合わせてパチンと指を鳴らした。
「ふぇ?」
その時、憩は理不尽な力で体が持ち上げられるような感覚になった。突然の浮遊感に思わず目をつぶる。次の瞬間には、ジェットコースターで体験する内臓が重力を忘れてしまったような不快感に襲われた。急降下というより、落下と表現するのが正しいだろう。思わず身を縮める。怖い。このまま地面に叩きつけられて死んじゃうのではないか。自分がどこにいるのかもわからないが、目を開ける勇気はなかった。そして。
どぼん、とくぐもった音を立てながら、憩の体は落ちていった。
ああ、わたしこのまま死ぬんだ。道理で息が出来ないはずだ。それに何だか体が重い。まるで水の中にいるような。って、水の中……?
ぷはっと、水面から顔を出し、やっとの思いで浅く短い呼吸を繰り返す。きょろきょろを辺りを見回す。何だかすごく見覚えのある光景だった。濛々と立ち込めている白いもやは、霧ではない。ただの湯けむりだ。鼻をつく独特な硫黄の香りも、ぽかぽかと体の芯から温まるお湯にも、間違えようのない確信があった。
「うちの、大浴場だ……」
ぽたぽたと髪から滴り落ちる滴を見つめながら、視線を落とす。ひとくくりにしてバレッタで留めていたいたはずだったのに、水に入った衝撃でほどけてしまっていた。着慣れた作務衣がぐしょ濡れでべったりと体にまとわりついて気持ちが悪い。
はあ、と憩は深くため息をついた。
認めざるを得ない。異世界の住人かはともかく、ムカルたちには説明のつかない力が備わっていることを。しかしそれでもいいのだ。力の正体よりも重要なことが間近に迫っていた。
浴場に備え付けられた時計を見上げると、もうすぐ二時になろうとしていた。会合まであと三時間。やれることはやっておかねば。
憩はもう一度深く嘆息してから、重い足取りで浴槽から立ち上がった。