レプリカ。
2015年
小さな、一人用の画面で再生される映画は、どうも入り込めない。空の上で、上の空とはこれいかに。噴き出した僕を、隣の女子高生(多分)が不審そうに見た。映画の内容で笑っているふうを装いたかったけれど、画面には既にエンドロールが流れ始めていて、無理だった。僕はもう何を取り繕っても無駄だと知りながら、咳ばらいをしてみたりした。
映画が終わり、僕はまた暇になってしまった。僕はこういう、空の上だとか、新幹線のシートだとかでぐっすり眠れる人が羨ましい。
まあ、この仕事に就いてから深く眠ったことなど、数えるほどしかないのだけれど。
2011年
伊吹美也。
その名前を反芻する時、いつも僕の中の何かが揺らめく。古傷が疼く、ってやつとは違って、もっと切ない何かが、ゆらゆらと立ち上がるのだ。まるで真夏の蜃気楼のように。もっとも彼女と出会ったのは、真冬の病院だったのだが。
2011年の冬、O大学医学部5回生の僕は、学内の病院に実習に来ていたのだ。所謂、ポリクリというやつで、主要な内科や外科は2、3週間ごとにローテーションして学び、比較的マイナーな科は1週間で学ぶ。指導医の診察を見学するだけのこともあれば、患者を一人決められ、担当することもある。
そんな実習生の僕に精神科で割り当てられた担当患者が、伊吹美也だった。
初めて会った日、彼女はベッドの上にこんもりとチョコレートの包み紙の山を作っていた。ベッドサイドの棚にはファスナーが開いたままのポーチが置かれていて、メイク道具らしきものが無造作に突っ込まれていた。
僕は、目線を下げようとベッドの傍らにしゃがみ込んで、声をかけた。
「チョコレート、好きなの?」
伊吹美也は、不意にチョコレートの包み紙を丸めると、僕に向かって投げつけた。
「……だいっきらい」
僕はため息をつき、落下したごみを回収した。
初めての担当患者ということで多少身構えて病室に乗り込んだものの、いきなり嫌われてしまったようだ。そう思って、次の言葉を考えあぐねていたら、意外にも彼女の方から話しかけてきた。
「先生、何処の人」
抑揚がなさ過ぎて、最初は疑問文だと認識できなかった。僕が間抜けな顔で彼女を見上げると、彼女は苛立ったように言った。
「ヒョウジュンゴやん。この辺の人ちゃうんやろ」
「あ、ああ、うん。東京出身だから、標準語かも」
そう自己紹介するも、彼女は僕のプロフィールに興味があったわけではないらしく、ふんと鼻を鳴らした。
「何、標準て」
ゴウマンやと思う、と彼女は断罪した。
「標準とか普通とか、誰の基準なん」
精神病って、何なん?
「何なんって言われてもなあ。精神病ってひとくちに言っても、精神性の障害の総称だから、症状は人によって様々なんだ」
「先生、理屈っぽいって言われへん?」
彼女は不満そうに僕を見つめた。
「たまにね」
「モテへんタイプや」
「初対面の女子高生にそこまで言われる筋合いはないと思うけどね」
「あ、そ」
「まあ、君以外からも、そういう評価を受けたことはあるんだけど」
「何や、やっぱりそうやん」
やっぱり、普通そう思うんやん、と彼女はにやりと笑った。
「普通、ね。普通って何?」
僕がちょっと厭味ったらしく言うと、彼女は、あ、と口を開けて、それから悔しそうに口を尖らせた。
「わからん。普通が何かなんて」
「普通になりたい?」
「……別に」
「そっか」
彼女との面会が終わった後、僕は指導医のところに顔を出した。すると指導医はさらに上の先生のところに挨拶に行くようにと言ってきた。精神科の長、芦田先生だ。今朝の申し送りの時に見かけたが、昔美人だったんだろうなって感じで、少し厳しそうなおば様だった。うん。正直、近寄りがたいタイプ。挨拶するのが億劫な気持ちに蓋をして、僕は彼女の部屋のドアを叩いた。
芦田先生のデスクはきっちり整頓されていて、彼女は僕が入っていくとその美よりも知性が勝る顔で、デスクトップパソコンごしに僕を眺めた。睨まれていると感じるぐらいの目つきだったけど。
「芦田先生、少しお時間よろしいでしょうか」
そう聞いてみるが、彼女の表情は緩まない。しかし不機嫌なオーラを発しながらも、彼女はこう言った。
「お座りなさい。長話になりそうですものね」
「は、はあ」
「君にはきちんと、あの子がどんな理由で入院しているか、お話します。本来、こんな難しいケースをポリクリで扱うものじゃないんだけどねえ。古川先生がどうしてもって言うから」
「古川先生が?」
彼は、僕の1回生からの担当だった。大学によって制度は様々あるようだが、O大医学部では4,5人の学生に1人、アドバイザーなるものが割り振られる。と言っても出席状況や成績に問題がない限り、アドバイスを受ける機会などほとんどないはずだった。が、彼は精神科医として、僕の身に起きた諸々に興味があり、僕も当時は“彼”にまつわる様々なことに悩んでいた。そんなふうに需要と供給が一致した結果、彼は、僕の“事情”を知っている唯一の人となったのだった。
「ええ。あなたなら、美也さんの心に寄り添えるかもしれないって、そう仰るの……」
「彼女、何かの事件の加害者ですか?」
「え?」
「古川先生が、僕が適任と言ったのなら、そうかもしれないと思って。僕は、その……親友が、そうなったことがありましたから」
「だとしても、学生にこんなこと……古川先生も無茶だわ。彼女は……」
数え切れないくらい、殺しているんだもの、と彼女は告げた。
撃ち合って倒れていたのだそうだ。
伊吹美也と、若い男。男の方は警察もマークしていた人間だった。ヤクザに雇われた、所謂、殺し屋。殺しを生業にしている男。
伊吹美也の方は、学校にも家にも寄り付かず、街を彷徨っている子供だった。数え切れないくらい殺している、とは彼女自身の言だったらしい。
「伊吹さん」
「……何や、先生か」
彼女はあからさまにがっかりした顔を作って言ってきた。
「何やって、酷いな。僕でがっかりした?」
「……さあ」
「誰だったらいいの?」
ちょっと悪戯っぽく聞いてみる。それが、結構核心をついてしまうかもしれないと知りながら。そんなことに気づいてもいないって表情を貼り付けて。
「せやなあ……そんな奴おらんな、もう」
「そっか」
僕があっさり引き下がると、彼女は話を変えた。
「先生っていくつ?」
「22。というか、正確には先生じゃないんだよね」
「げ、そうなん?」
先生とか呼んで損した。彼女はそう言って舌を出した。
「ポリクリって言って、医学部の5年目の臨床実習中なんだ」
「ふうん。で、何て呼んだらええの? 名前は?」
渋々名前を言う。
「ほな、ヤマさんやな」
「何だよそれ」
「ヤマちゃんよりは敬意を払ったつもり」
「うーん」
「何なん? 不満そうやな」
「まあ、いいけどさあ……」
実に、びっくりするほど、普通の女子高生だと思った。
いや、びっくりはしなかったかもしれない。だって、“彼”もそうだったからだ。
2004年
中学生の途中で、僕は東京から大阪へ引っ越した。案の定、「はぶられる」っていう憂き目に遭った。ヒョウジュンゴも、僕という一人称も、成績の良さも、運動音痴も、新しい同級生たちには全部鼻につくらしかった。
そんな中、たった一人僕に近づいてきた男は、月並みな言い方をすれば、札付きのワルだったのである。
「山田」
僕は心底吃驚した顔をしていたと思う。僕の名前を呼ぶ人なんて、本当にクラスに1人としていなかったのだから。
「え」
「何や、そんな阿呆面して」
「し、してないよ」
言ってしまってから、あ、まずい、と思った。不良にはちょっとした口ごたえすら危険でしかない。だが、予想に反して彼はにやりと相好を崩した。
「ほな、元から阿呆面なんやな!」
「……」
「ほんで、お前さ、今日放課後ヒマ?」
「えっ」
「ヒマなん?」
僕は声が出せなくて、必死に首肯した。馬鹿みたいに何度も。彼はそれを見て、またにやにや笑った。
待ち合わせは中学の近くの商店街にあるゲーセン。学校からゲーセンまでの道々、やさしげに話しかけられて話に乗ってしまったが、彼の“お仲間”たちがぞろぞろ現れて金を巻き上げられるのがオチなんじゃないか、と不安がよぎった。歩を進めるにつれてよぎるどころじゃなくなってきて、最後は完全にその考えに頭を支配されていた。ゲーセンの入口が見えるところまで辿り着いた僕は、周囲を伺った。彼もいなければ、仲間らしき者もいなかった。というか、ゲーセンは至って静かだった。
「山田ぁ」
背後から呼びかけられ、肩が震えた。
振り返ると彼が立っていた。ズボンのポケットに両手を突っ込んで、不機嫌そうに呟いた。
「カツアゲに遭うんちゃうかってビビってたやろ」
「い、いや、そんなこと」
「やっぱり俺、そーいう奴に見えるんやな」
わかってるし、と言う彼の横顔があまりに淋しくって、でも、そんなことないよ、なんて気休めみたいな科白ばかり言いたくもなかった。
「ま、カツアゲはせえへんけど、ええ奴かいうたら、ちゃうな」
言いながら彼は、ポケットから煙草を取り出した。僕が目を丸くしていると、
「お前もいる?」
なんて勧めてきて、僕は慌てて首を横に振った。
「あ、そ。ちなみにここのゲーセン、大分前に潰れてん」
「そ、それより、えっと、煙草は体に悪いと思うけど……」
「へえ」
彼はちょっと嬉しげな声を出した。
「俺の体、心配してくれるんや」
「いや、うん、それは……それなりに」
僕が途切れ途切れ言ったら、彼はぷっと噴き出した。
「何や、おもろいなお前」
きょとんとする僕を、彼はハンバーガーショップに誘った。
いたるところにある、あのメジャーな某ハンバーガーショップで、僕はハンバーガーとお茶を頼んだ。ハンバーガーは、とにかく安上がりだ。席を取って待っていると彼はトレイをいっぱいにしてやって来た。
「え、そんなに食べるの?」
「あ? 普通やろ」
ハンバーガーの肉はダブルだし、ポテトもチキンナゲットも買っていた。それから、多分Mサイズのシェイク。味は確かチョコレートだった。
「けど、家に帰ったら晩御飯があるでしょ? 御飯の前にこんなに食べたら……」
「体に悪いって?」
お前、そればっかりやなあ。
「晩飯、あれへんし」
ぽつりと置かれた言葉が、置かれたままに2人の間を漂った。
「えっ?」
「親、帰るん遅いねん」
「じゃあ、うちに来ない?」
「は?」
「うちで食べたらいいよ。うちの母親、料理教室やってるから、多分そこそこ美味しいし」
「いや、それは遠慮しとくわ」
彼は苦笑いのような顔で言った。僕も、初めて喋ったただのクラスメイトに急に変なことを言ったかな、と思って、
「そっか」
と引き下がった。
「お前ってさ」
急に彼は神妙な顔で言った。
「きっと、間違えへん奴やと思う」
「へ? どういうこと?」
「お前は正しいってこと。けど、もうちょっと隙があった方が、友達増えると思うで」
「要らないよ、友達なんか」
そう口を尖らせたら、彼は眉を上げた。
「訂正。それに関しては、お前は間違ってるわ」
「どうせ僕、またどこかへ引っ越すし」
「そんなん関係あれへん」
シェイクをずるずる吸い上げながら、彼はのたまった。
「それを言うたら、どんな友達かて死ぬまでだけの短い付き合いや」
「極端だなあ」
「友達だけやないで。家族もみんなそうや」
「短い……うん。だけど、出来るだけ長く生きてもらいたいって思う」
訊かれてもいないけど、僕は呟いた。
「だから、僕は……」
言葉を切った僕を、彼はもぐもぐと口を動かすのを止めて、見つめた。
「医者になりたいんだ」
「お、凄いやん」
「でも、血とか無理かもしれないな」
「そんなん、もっと大きな目的のためには、乗り越えられるやろ」
「そうかなあ」
不良のレッテルを貼られた彼は、確かに煙草を吸ってたり、夜遅くまで街をぶらついてたり、決して”いい子”じゃなかったけれど、悪人でもなかった。僕にしてみれば、僕を無視し続ける奴らの方がよほど嫌な奴だった。
彼は、
「医者になりたいんやったら、ちゃんと学校おった方がええやろ」
と言って、授業をサボる時に誘っては来なかった。僕は真面目に授業を聞き続けた。
その間に、彼が何をしていたのか。
僕は、何も知らなかった。
2011年
伊吹美也は、北風が吹きすさぶ病院の屋上にいた。
「ヤマさん、あたしが人殺しやって知ってるんやって?」
唐突な質問だったけど、僕は至って冷静に対処する。
「うん」
「あんまりにも自然に接してくるから、知らんのかと思たわ」
「そう?」
僕は何のこだわりもないような声音で言う。
「人殺しだろうが、君は君だと思うけどね」
2005年
高校に入ると彼に会う機会はぐんと減った。彼は同じ高校でないどころか、高校に行かなかった。
僕は時々あの商店街に足を向けた。彼はもうそんなところには来ないんだろう、ちゃんと働いてるんだろうなんて、思っていた。
そんなある日、彼を見つけた。
そして、ゲーセンの前で、彼は倒れていた。腹部が信じられないくらい赤かったのは、覚えている。血は苦手なはずだったけど、僕は必死で止血した。救急車が来た辺りで、僕の記憶は途切れている。
次に記憶が始まるのは、病院だった。制服を引き裂いて彼の止血をしたらしく、家から持って来られたTシャツを着せられていた。母親がなぜか泣いていた。
「あんたが、刺したの?」
「あんたが、山崎君を……殺そうとしたの?」
「え?」
「刺して、自分で止血したのよ、あんたが……」
「何で……」
「そんなの、こっちが聞きたいわよ!」
僕は、しくじったのか。
そう思うと、笑えた。
彼を見つけた。僕は、彼が何をしていたか、知ってしまった。ヤクザの下っ端。何かあったら、簡単に切り捨てられそうな。
小突かれる彼を見ていたら、胸が悪くなりそうだった。
彼は、ワルって言われるけど、本当はそんな奴じゃないんだ。僕は、知ってる。なのに、何でそんなところにいるんだよ。そんなところで人に馬鹿にされて、平気な顔してるんだよ。
僕は、彼を解放しなければいけないと思ったんだ。
2015年
そういうわけで、僕は、彼の代わりに医者になることにした。うん、多分、どういうわけだかわかってはもらえないんだろう。
彼はただ、僕のために僕を殺したかったんだろう。そして僕は死んだ。
もしも彼に会えるのならば、
「殺人未遂で捕まってようが、お前はお前やと思うけど」
と。
今度こそ伝えなければいけないと思う。彼がこれ以上、穢れていく前に。
僕はそんな気持ちで、空港に降り立った。