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6.希望の轍


 人は権力を持つと、碌なことにならない。

 醍醐は、目の前で馬鹿笑いする見知らぬ面々を見て思った。


 風邪でも引きそうに鳥肌立った夜が明けた午前十時。練習もそこそこにグラウンドには近場で合宿をしているという高校と試合を行うこととなった。名も知らぬその学校はそれなりに強豪であるようで、総勢十名の晴海高校とは異なる三十名以上の部員を抱えていた。人数の違いからグラウンドを二分する必要も無く、隅で試合に向けたノックをこなす晴海高校には試合に欠片の興味も無い名ばかりの顧問がバインダーの上で一心不乱に書類仕事をしている。一方で相手高校は監督が自らノックしており、随分な違いだなと醍醐は溜息を零した。

 晴海高校は昨年の夏大会において、県内ベスト4に入る実力を持っていた。優勝も十分狙える圏内だったのだ。ーーあの事件が無ければ。

 醍醐は、彼等に何があったのか知らない。知りたいとは思わなかったけれど、知らなければならないのだと悟る。

 グラウンドにあの少年はいない。また、何処かへ消えてしまった。

 朝食後、便所へ向かう途中の渡り廊下で、何の気無しに見遣った中庭。青々とした紫陽花の上から落下した青虫は、土の上に出来た泉のような水溜まりに浮かんでいた。歪な表皮は身動き一つしなかった。

 皆の前で屈託無く笑顔を振り撒く少年にその陰は無く、昨夜のことは夢だったのではないかと思う程だ。否、そう思いたかったのだ。

 練習試合に向かう列の中で、人知れず気配を絶った少年は何処へ行ったのだろう。間違っても、あの中庭にいることは無い。

 いよいよ試合開始というところになって、醍醐は思い出したように便所へ走った。試合中に尿意を催したとしても、行く余裕などある筈が無いからだ。蓮見がその後ろを小走りに追い掛けてきた。幼馴染み、考えることは一緒だ。

 駆け込んだ便所、出会い頭にぶつかるところだった。対戦校のユニホームが醍醐の視界を遮った。

 借り物のユニホームを極力汚すまいと踏み止まった醍醐に、目の前の男はあからさまに眉を顰めて舌打ちした。



「邪魔臭ェな」

「ーーンだと?」



 条件反射のように突っ掛かる醍醐を、後ろから蓮見が叩く。



「すいませんね、急いでまして」

「気ィつけやがれ」



 百歩譲って、全面的に此方が悪かったとしても、それだけ傲慢な態度を取られればお相子だろう。何か言い返すより早く伸びた手は、背中を向けた少年達の馬鹿笑いに停止した。



「ーー監督も何考えてやがるんだろな」

「本当だぜ。部員ギリギリの雑魚チームと練習試合なんて」

「あんな雑魚、適当に相手してさっさと帰ろうぜ」



 雑魚、だと?

 醍醐の頭の中で、太くも長くも無い堪忍袋の緒がぶち切れる音が確かにした。蓮見が止める間も無く伸びた手は、初対面の少年の胸倉を乱暴に掴んでいた。

 少年達のどよめきの中、不機嫌に眉を寄せた見下ろす目を醍醐は睨んだ。



「好き勝手なこと、言ってくれてんじゃねェよ!」

「何だと!?」



 状況も場所も忘れて怒鳴り散らす二人は、言い合い互いにヒートアップする。

 元より止める気も無いだろう少年達を相手取り、醍醐も負けじと言い返す。如何したものかと苦々しげに顔を顰める蓮見は蚊帳の外だ。試合前に口論になるなど何を考えているのだろうと、蓮見は舌打ちする。……何も、考えていないのか。



「廃部寸前の雑魚が、鬱陶しいんだよ!」

「黙れ!」

「この、クソガキ!」



 あ、と思った時には遅かった。まさか振り上げられるとは予想していなかった少年の拳が、醍醐の視界に映った。

 売り言葉に買い言葉の応酬の末、暴力沙汰なんて最早笑う気にもなれない。醍醐が身を固くした、その時。



「ーー止せよ」



 場違いな程に冷静な声が、少年の拳を制した。

 何時の間に其処にいたのか、酷く整った顔立ちの小柄な少年が悠然と立っていた。汗ばむ日光の下、一陣の風が吹き抜けたように醍醐は瞬時に冷静さを取り戻した。



「あんた……」



 和輝は何も応えず、振り上げられ行き場を無くした拳を一瞥する。

 何でこんなところにいるんだ、とか。今まで何をしてたんだ、とか。訊きたいことは山のようにあるのに、醸し出される冷たい空気は一切の質問を拒絶しているようだった。

 無表情に少年を見遣る和輝は何処か、苛立っているようにも見えた。



「何があったか知らねぇけど、それは遣り過ぎだ」



 そう言って、和輝はそれまでの空気を氷解させて笑った。

 なあ、だから引いてくれよ。困ったような人懐こい笑みを浮かべる和輝は醍醐を庇うように間に立った。



「うちの一年が無礼なことをしたなら、謝る。なあ、」



 何か続けようと和輝が口を開いたのと、それは同時だった。

 虚空を漂っていた拳は一瞬にして振り抜かれた。肉を打つ乾いた音と、骨に当たる鈍い音がした。



「おい!」



 醍醐が止める間も無く、小さな体は地面に吹っ飛んだ。

 拳を振り切った少年は鼻息荒く、吐き捨てる。



「調子に乗るなよ、雑魚野郎!」



 倒れ込んだ和輝が、ゆっくりと体を起こす。拳に打ち付けられた左頬は赤く腫れ上がっていた。

 行こうぜ。

 わざとらしく足音を立てながら去っていく少年達を追い掛けるよりも、醍醐は和輝に駆け寄った。



「おい! あんた、大丈夫か!?」



 起き上がった和輝の鼻から一筋の血液が零れた。

 袖口で拭ったそれが鼻血と気付いた和輝は一瞬驚いた顔をして、笑った。



「ったく、本当に殴る奴があるかよ」



 なあ?

 そう悪態吐いて笑う和輝が解らない。醍醐は苛立った。



「あんた……、悔しくないのかよ」



 理不尽に殴られて、言い返すこともせずにへらへら笑って。事態を引き起こした醍醐を叱ることもせずに。

 学校中で流れる根も葉もない噂を否定することも肯定することも無く、向けられる好奇の目を睨み返すことも無く。

 何も無かったように笑顔で取り繕って、本心を奥底にしまい込んで。



「怒れよ! なあ!」



 和輝はやはり、笑っただけだった。

 袖口で鼻血を拭い去り、腫れ上がった頬もそのままに和輝は立ち上がった。



「でも、俺達の為にやったことなんだろ?」



 先程の遣り取りを知っていた筈が無い。けれど、確信めいたその言葉に醍醐は口を噤んだ。

 チームの為、ではなかった。ただ、自分が悔しかった。馬鹿にされるのが堪えられなかった。奇異の目で見られるのが許せなかった。それも本当は全て見越しているだろう少年は、やはり屈託無く笑うだけだった。



「場外で乱闘するくらいなら、試合でぶちのめしてやれよ。……スポーツマンなら、己の主義主張はプレーで示すべきだろ」



 困ったように笑う和輝の言葉は尤もだった。醍醐は返す言葉すら持たない。

 傍で見ていた蓮見は盛大に溜息を零した。



「和輝先輩、早く戻りましょう。手当しないと」

「グラウンドに戻らなきゃならないのは、お前等だよ」



 突然、入り込んだ声は匠だった。



「試合が始まるぞ」

「匠先輩」



 匠は頬を腫らした和輝を一瞥し、静かに言った。



「……ちゃんと、手当しておけよ」



 そうして後輩二人を引き摺って、匠は道を引き返す。置き去りにされた和輝だけが当然のように微笑んで、手を振った。





6.希望の轍




 匠は何も訊かなかった。自分達のやりとりを一体何処から知っていたのかは解らないけれど、仲間が声を掛けることを躊躇するくらいの怒気を滲ませて、ベンチの奥で黙りこくっている様を見る限り、和輝の腫れた頬の理由は恐らくきっと察しが付いているのだろうと思う。

 グラウンドで整列し、向き合う対戦相手にはあの大柄な少年がいた。此方を見る薄ら笑いも無視し、衝動のままに拳を振り上げられなかったのは恨み言一つ吐かなかった和輝の為だった。グラウンドの遙か彼方で守備位置に着く彼等が何者なのかなど解らないけれど、それ以上に醍醐は今もベンチにいない和輝のことが気に掛かった。

 マウンド上の投手は切れ長な目をした長身だ。放たれる切れの良い変化球には目を見張る。その投手が言った訳ではないけれど、総勢十名の晴海高校を雑魚呼ばわりするだけの力のあるチームであることは確かだった。

 当然のようにいないあの天才を、誰も気に掛けないのは何故なのだろう。醍醐には不思議でならなかった。此方の持って当たり前の疑問を切り捨てるだけの圧倒的な存在感と威圧感を醍醐は知っている。それでも、知りたい。

 プレイボールが響く。バッターボックスに立つのは一年、星原千明。守備位置は三塁。

 声援を投げ掛ける活気に満ちたベンチで、醍醐は藤の隣に立った。此方に気付きもしないで真っ直ぐグラウンドだけを見据える集中力を切らせてはいけないと思うけれど、醍醐は自身の抱える疑問を問い掛けずにはいられなかった。



「キャプテン、如何して、あの人はいつもいないんですか?」



 グラウンドを見ていた筈の藤は、その声をぴたりと止めて振り返った。其処には新入部員ながら、誤魔化しようのない真剣な二つの瞳があった。藤は数秒の沈黙の後、やれやれと溜息を零す。

 金属音が響いた。打球はふわりと二塁上空へ浮かんだ。危なげなくセカンドが捕球し、ワンナウト。

 残念そうに、星原がベンチに戻る。醍醐を中心に異様な空気が溢れ出ている状況に身じろぎながら、星原はキャプテンと匠を交互に見た。



「良い機会だから言っておく。和輝のことだ」



 まるで今思い出したかのような何気無さで、藤は口を開いた。



「お前等も知っていると思うが、一年前の夏、この野球部で傷害事件があった」



 練習試合が並行世界のように流れていく。藤はグラウンドに目を向けたまま言った。



「あいつはその事件に巻き込まれて右肩と右腕を故障した。日常生活にも支障を来す程の重傷だ」

「故、障」



 醍醐は反唱すると、藤は頷いた。

 余計なことを言うなと、匠が鋭く睨め付けるのも構わない藤は無表情だった。



「バットを振るのも、ボールを投げるのも今のあいつには無理だ。だから、一人別メニューでリハビリをしている」



 自分達がグラウンドにいる間、ずっと一人きりで行って来ただろうリハビリがどんなものなのか、醍醐は知らない。日常生活に支障を来す程の重傷を抱える少年が行うリハビリが容易なものでないことだけは明らかだった。

 バットを振ることもなく、ボールを握ることもなく、ただこのグラウンドに戻る為だけに流した汗だ。ただ、この場所に立つ為に。

 其処まで話した藤は、一つ溜息を吐いた。



「去年の夏に何が起きたのかは俺も概要しか知らない。本当に知りたいのなら、本人に訊くことだ」



 それを容易く本人が口にする筈も無いけれど。

 話し終えた藤は既にグラウンドに意識を向けていた。醍醐は、和輝と会った日のことを思い出した。

 大した縁も無い生意気な一年の為に、何の価値も無い野球勝負を買って出た。浴びせられる罵声に言い返すこともなく、弱音も愚痴も零しはしなかった。振れる筈の無いバットを握り、投げられる筈の無いボールを掴んだのは何故。

 恐らく全ての事情を知っているだろう少年へ目を向ける。匠は面倒臭そうに目を背けただけだった。



「俺だって全てを知っている訳じゃない。俺が知っているのは、今のあいつの苦しみだけだ」



 醍醐は、背けられた視線の先に、底知れぬ闇の片鱗を見た気がした。

 匠の脳裏に、血溜まりに沈む幼馴染みの姿が浮かび上がった。続いた皿の割れるような悲鳴に、総毛立つ。それが過去の出来事だと知っていても、匠は安堵することが出来なかった。



「匠先輩」



 ネクストバッターズサークルへ向かう匠の背中に、醍醐の声が掛かった。



「俺、練習試合ってあんまり関心無かったんですけど、この試合は公式試合よりもっと大切だって解りました」



 醍醐が何を言おうとしているのか解らず匠は眉を寄せる。醍醐は声を張り上げた。



「絶対、勝つ! 勝って、あの人に勝利報告をするんだ!」



 匠は、ふつりと笑った。



「当たり前だろ!」



 此処はあの場所じゃない。

 匠は拓けた視界に映るグラウンドに、笑みを零した。





 宿舎に戻ると、リハビリをしていただろう和輝が玄関で出迎えてくれた。

 室内でのトレーニングだった筈の和輝のユニホームに泥がこびり付いていた理由は、誰も知らないだろう。醍醐は意識しないようにと、故障しているという右腕から目を背ける。和輝は笑っていた。

 労いの言葉を掛けようと口を開いた和輝を遮って、醍醐は叫んだ。



「ーー勝ったぞ!」



 驚きに目を丸くする和輝も構わず、醍醐は言った。



「あいつ等、ぶちのめしてやったぞ!」



 その瞬間、綻ぶように和輝が笑った。

 腹を抱えて笑い声を漏らすその様に、醍醐は呆気に取られる。

 有名人で、天才で、アイドルで、万能人間で、自分達と一線引いた冷静なこの少年が、こんな風に笑うなどと思わなかった。冷たい陰を連れた自嘲でもなく、ただ面白くて吹き出すように声を上げて笑う姿は酷く幼く見えた。



「ーーよくやった!」



 良く通るボーイソプラノが響いた。自分のことのように誇らしげに言った和輝は、醍醐の頭をくしゃりと撫でた。

 続いて戻った藤等に声を掛け、和輝はまたいつもの人好きのする穏やかな微笑みを浮かべていた。

 夕食の前、醍醐は便所へ向かった。渡り廊下から見渡す中庭に、あの歪に歪んだ青虫の死骸は無かった。何処からか現れた水馬が自在に水溜まりを滑るだけとなり、不審に思い出て見ると、見覚えのない細長い石が庭の隅にひっそりと立っていた。



「何してんの?」



 掛けられた声に振り返ると、野球部唯一のマネージャーである霧生青葉が立っていた。

 咄嗟に返す言葉が見付からずに醍醐が口籠もると、青葉は思い出したように言った。



「そういえば、帰って来て早々和輝も其処で土弄りしてたな。何やってんだか」



 やれやれ、と去って行く青葉には解らないだろう。

 誰も知らなくていい。醍醐は静かに、その墓石に手を合わせた。

 寄生蜂を抱えて死に絶えた青虫が、きっと此処に眠っているのだろう。殺してやろうかと、凍り付くような冷たい声を放った少年を忘れない。けれど、誰も見向きもしないような青虫の為にその両手を泥塗れにしてわざわざ墓を建てる少年を知っている。

 どちらが本当の彼なのか、醍醐には解らない。だが、最早知る必要も無い。



(俺は、目に見えるものを信じるだけだ)



 異を唱えることすら躊躇う圧倒的な存在感と威圧感を、揶揄すら退ける類い希な才能と相貌を、凍り付くような無表情と刃のように研ぎ澄まされた言葉を、ありのままに受け止めるだけだ。

 醍醐は歩き出した。広間からは夕食の食欲をそそる匂いが立ち籠めていた。



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