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Play the hero. ー2.リトル・ヒーローー  作者: 宝積 佐知
番外編 笑って ヒーロー
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2.僕だけのヒーロー

 匠が事故に遭った瞬間のことを、今も鮮明に覚えている。

 奈々と四葉のクローバーを探していた。俺の手を引く匠に、俺は応えてやれなかった。才能にも体格にも恵まれて何の不自由も無い筈の匠が、毎日毎日不必要な自主練に付き合ってくれるのは俺の為だってことも解っていた。匠の言葉は何時だって正しかった。俺の為に言ってくれる。俺の為にしてくれる。何時だって、間違ってなかった。

 それなのに、俺は匠に応えてやれなかった。空き地を飛び出した匠は、猛スピードで駆け抜ける紺色のスクーターに衝突し、無重力空間の中みたいに軽々と吹き飛んで行った。奈々が悲鳴を上げた。俺は血塗れの匠の腕を掴んで、無我夢中で引き寄せた。血溜まりの上を今度は乗用車が通過した。

 けたたましいサイレンと野次馬のざわめきの中で、俺は何度も匠の名前を呼んだ。匠は一度だって返事をしなかった。奇妙な形に歪んだ腕が痙攣するみたいに時々ぴくりと動くだけだった。

 頭の中は真っ白だった。何が何だか解らなかった。

 ただ一つ解っていたのは、俺が間違っていたということだけだった。






2.僕だけのヒーロー






 全治三か月というのが、医者の診断結果だった。

 搬送された病院で、匠は裂けた肉を縫合し、動かないようにギプスを嵌め、包帯でぐるぐる巻きにされた。何時だって導いてくれた俺のヒーローは、見る影も無かった。

 利き腕である右腕が動かせない匠は日常生活にも支障を来していた。例えば授業では碌にノートが取れなかったし、食事では箸を使うことも出来なかった。野球ではボールを投げるどころか握ることも、バットを振るどころか持つことも出来なかった。俺達のブームになっていたカードゲームでも手札を持てない匠は参加出来ず、自然とブームは去って行った。

 日常の殆どを一緒に過ごしていた俺の幼馴染は、だんだん距離を置くようになった。始めの頃は不便だ、なんて笑っていたのに、匠は何も喋らなくなった。同じ教室の中にいても匠は俺達の傍に来なくなった。

 そっとしておいてやろう。友達の一人が言って、皆が頷いた。

 それまで当たり前に出来ていたことが出来なくなるって、どんな気持ちなのだろう。大好きなものを理不尽に奪われるって、どんな思いなのだろう。俺には解らなかった。初めから何も持っていなかった俺は得られる喜びに毎日が輝いていたし、それを奪われるなんてことは考えたことも無かった。だから、勉強も運動も何でも出来る匠が、何も出来なくなってしまう気持ちなんて俺には想像も付かなかった。

 解ってやりたかった。そんな押し付けがましい親切心と、理不尽に日常を奪ってしまったことへの罪悪感で、俺は匠の周囲に纏わり付いた。鬱陶しがられても傍にいた。姿が見えなくなれば探した。あっちに行けと言われても離れなかった。

 飼い主に纏わり付く犬みたいだと、友達が笑いながら言った。

 じゃあ、俺は捨て犬だな。俺は思った。

 小学校が終われば、俺達はよくグラウンドでドッヂボールをした。けれど、匠が怪我をしてからは参加しなくなった。すぐに下校してしまう匠に置いて行かれるのが嫌だったからだ。

 俺の世界は狭くて、僅かなもので構成されている。その中心にいるのは家族と、匠だった。

 祐輝兄ちゃんは俺のことが嫌いだった。特に小さい頃は会話どころか、視界にすら入れてくれなかった。

 その小さな頃、棚の上のお菓子を取ろうとして椅子を踏み台にした俺は派手に転んだ。棚の角に後頭部を打ち付けてたんこぶを作った。痛くて痛くて声を張り上げて泣いた。俺の小さな世界、家の中にいたのは偶々、祐輝兄ちゃんだけだった。祐輝兄ちゃんは俺のことを一瞬だけ見て、すぐに目を逸らしてテレビの音量を上げた。帰宅した一番上の兄、大輝兄ちゃんと二人の姉が俺の声に気付いてすぐに冷やしたタオルを当ててくれて、背中を摩ってくれた。俺のことを、祐輝兄ちゃんが睨んだ。

 俺は気付いた。この場所は俺の場所じゃない。心配されるのも、慰めてもらうのも、抱き締めてもらうのも間違っている。俺にそんな権利も価値も無い。それに気付いてからは、俺は泣くことを止めた。痛くても辛くても泣かなかった。インフルエンザで高熱を出しても、黙っていた。そうすれば、祐輝兄ちゃんは俺のことを睨まなかった。

 如何して祐輝兄ちゃんが俺のことを嫌いなのかは考えなかった。嫌いになるのに理由なんていらないと解っていた。同じように、好きになるのに理由だっていらなかった。

 俺は祐輝兄ちゃんが好きだった。野球をしている時の祐輝兄ちゃんは言葉では表せないくらい、格好良かった。勉強も出来る。運動も出来る。友達だっている。家の中から出られない俺と違って、兄ちゃんは何でも持っていた。それが俺の手に届かないものだって解っていた。祐輝兄ちゃんは同い年の浩太君や、奈々の兄の涼也君、匠とよく一緒に遊んでいた。俺は一度だって誘われたことは無かった。

 彼等が庭でキャッチボールをしているのを見るのが楽しかった。けれど、俺が見ていると祐輝兄ちゃんはすぐにつまらなそうな顔をした。俺は見ていたらいけないんだと気付いた。だから、何時も部屋の奥で耳を澄ますか、物陰に隠れて見るようにした。一度だけ、浩太君が俺を誘ってくれた。嬉しかったけれど、祐輝兄ちゃんがまたつまらない顔をするのかと思うと怖かった。あんなに楽しそうな時間を俺が奪っていい筈が無い。これ以上、嫌われたくなかった。俺は浩太君の手を取れなかった。

 匠のことが羨ましかった。俺も一緒に遊びたい。一緒にいたい。密かに願っていたけれど、それが叶わないことを知っていたから、何時の間にかそんな感情も忘れてしまった。

 親父は優しかった。大輝兄ちゃんも、姉ちゃん達も優しかった。熱を出せばずっと傍にいてくれて、寝付けなければ絵本を読んでくれて、一緒にお風呂に入ってくれて、沢山遊んでくれた。祐輝兄ちゃんが幾ら俺のことを無視しても、睨んでも、匠は何時も傍にいてくれた。俺が何を言っても無視しないし、呼べば返事をしてくれる。

 ある日、俺は何時もの病院で点滴を受けた。それは俺が生きる為に必要なものなんだと、親父は話してくれた。何故かその日は親父と二人きりではなくて、祐輝兄ちゃんが一緒だった。そんなことは初めてだったから、俺は浮かれていた。運転席の親父と、助手席の祐輝兄ちゃん。後部座席の俺は無視されるのは解っていたけど、何度も何度も祐輝兄ちゃんに話し掛けた。窓の外に見える景色、ラジオから流れる音楽。まるで中身の無い話を延々と話し続けた。祐輝兄ちゃんは一度として振り向かず、返事をしなかった。

 俺が処置室に入る前に、親父は祐輝兄ちゃんに缶ジュースを買った。俺には病院が終わったら買ってくれると言った。その缶ジュースを俺が見ていると、祐輝兄ちゃんは隠してしまった。其処で漸く、自分が酷く浮かれていることに気付いた。

 俺は視界に入っちゃいけなかった。祐輝兄ちゃんの世界に俺はいては駄目だったんだ。

 理解すると俺は絶望的な気持ちになった。これ以上、祐輝兄ちゃんに嫌われたら俺は如何すればいいんだろう。今度は叩かれるのかな。それとも、家を追い出されるのか。点滴を受けている最中、俺は終わった後のことを考えると怖くて怖くて震えた。

 点滴が終わると、処置室の前に祐輝兄ちゃんがいた。手足から血の気が引いて、怖くて寒気がした。

 そうしたら、祐輝兄ちゃんは俺にジュースをくれた。それは親父が買ってくれたあの缶ジュースだった。少し温まっていた缶ジュースはきっと、祐輝兄ちゃんが大事に大事に抱えていたものなんだろうと気付いた。そんなものを貰う訳にはいかない。これ以上、嫌われたくなかった。でも、祐輝兄ちゃんはそれを俺に押し付けて一言。



「やる」



 初めて、俺に掛けてくれた言葉だった。

 その日から、兄ちゃんは俺のことを世界に入れてくれるようになった。何があったのかは解らないけれど、呼べば返事をしてくれて、困っていれば助けてくれて、熱を出せば傍にいてくれるようになった。俺の世界が広がった。

 でも、何時またその世界から追い出されるのかと、怯えるようになった。全部、都合の良い夢だったなんて言われたら、俺はもう、立ち直れないと思った。

 祐輝兄ちゃんが俺に優しくしてくれる度に、怖くなった。その姿が見えなくなると、立っていることも恐ろしくなった。そんな俺の傍に何時も変わらず傍にいてくれたのは、匠だった。

 当たり前みたいな顔で、一緒にいてくれた。名前を呼べば返事をしてくれて、振り向いてくれて、傍にいてくれた。俺の狭くて小さな世界は、僅かなもので構成されている。家族と匠だ。

 だから、匠がいなくなるのは、俺の世界が崩れることに等しかった。

 匠がいなくなってしまうと思うと、怖くて堪らなかった。

 それまで出来たことが出来なくなってしまう気持ちは解らなくても、それまであったものが無くなってしまう恐怖は痛い程に解る。そして、匠の世界を構成する大切なものを奪ってしまったのは他ならぬ、俺だった。

 小学校入学と殆ど同時に野球を始めた。そして、三年経った今も俺はベンチにすら入れない。

 体格が悪いから。体力が無いから。監督は俺を見てくれないし、評価なんてくれない。それでも、俺の狭くて小さい世界は光に満ちていた。

 家族がいる。仲間がいる。匠がいる。それだけで良かったのに。

 匠がベンチ入りし、兄ちゃん達レギュラーとグラウンドに立っているのを見て、――願ってしまった。

 一緒にいたい。一緒に野球したい。一度そう願ったらもう自分を止めることなんて出来なくて、俺は自主練を始めた。

 練習後、一人で町内を走るようになった。庭で素振りをするようになった。時々、兄ちゃんが教えてくれた。一緒にいたかったから、その為なら何だってやれた。どんなに辛くても苦しくても構わなかった。傍にいたかったから。

 そして小学校三年の春、相変わらず昇格試験に落ちる俺に、匠が一緒に自主練をしようと声を掛けてくれた。既に一人で自主練していることは、言わなかった。自主練しているのにこの程度かよ、と呆れられたくなかった。それからは、匠と一緒にランニングするようになった。一緒に素振りするようになった。壁に向かって投げていたボールは、匠とのキャッチボールに代わった。

 それでも伴わない結果に落ち込む時もあった。

 だって、そうだろ?

 橘シニアの練習の一環で行われたシャトルランで、レギュラーの倍の結果を出した時、監督は俺に「体格に恵まれなかったお前に期待は出来ない」って言ったんだぜ。

 ランニングでへばれば「体力の無い奴は使えない」って言って、結果を出せばチビだから駄目だって?

 ちゃんちゃら可笑しいぜ。じゃあ、如何したら俺はレギュラーになれるの。如何したら俺はグラウンドに立てるの。如何したら俺は、皆と一緒にいられるの。

 諦めなければ何時か必ず、なんて漫画じゃあるまいし。何時かって何時。期待してくれなんて言わない。俺はただ、皆と一緒にいたかっただけだ。そんな俺の内心が見えているのかも知れないな、と太陽の沈んだ河川敷で、肉刺の潰れた掌を見詰めていた時も、隣にいたのは匠だった。

 俺の隣にいたのは、匠だけだった。

 独りぼっちの時も、挫けそうな時も、泣き出したい時も、隣にいたのは匠だった。



――だったら、強くなるしかねーよ



 その言葉に、俺がどんなに救われたか匠は知らない。知らなくていい。

 強くなろうと思ったんだ。誰が否定してもいい。誰が笑ってもいい。誰が何を言ってもいい。だって、俺の隣には何時だって匠がいる。匠は俺のヒーローだ。


 そして、俺は、そのヒーローが墜落する様を、目の当たりにする。

 何時だって皆の中心にいた匠が少しずつ距離を置くようになって、だんだん口数が少なくなって、見学していた筈の橘シニアの練習から姿を消して、自主練にも顔を見せなくなった。俺は独りきりになった。

 ヒーローの墜落というのは、周りに大きな影響を与えるようで、仲間達から匠の話題が上がらない日は無かった。



「最近の匠、感じ悪ィよな」

「挨拶しても無視だぜ?」

「せっかく、こっちが気ィ使って声掛けてやってんのにさー」



 窓際でぼんやりとグラウンドを見詰める匠に、わざと聞こえるように声を大きく口々に仲間が言った。



「もう放っておこうぜ」



 二か月が経っていた。匠の腕はもうじき完治するだろう。それまで腕を釣っていた三角巾は外れて、ギプスも包帯も患部を覆う程度のものに変わっていた。

 匠は仲間達の声が当然ながら聞こえていたようで、勢いよく席を立ち上がった。HRの行われていた教室は一瞬、居心地の悪い沈黙に包まれ、匠はそのまま扉を開けて出て行ってしまった。教師のいない教室で、教壇に上がっていた学級委員は驚いたように目を丸め、クラスメイトはざわめきながら匠への悪口を垂れ流している。

 小学校三年の初夏、黒板には近々行われる遠足の詳細について記されていた。居心地の悪い教室に流れる不穏な空気に堪え切れず、俺は匠の後を追って教室を飛び出した。



「――匠!」



 追い掛けて飛び出した廊下の奥、角を曲がろうとする背中に呼び掛ければ、驚いたように大きく震えた。

 それでも振り返らない背中を見失うまいと俺は必死に走って追い掛けた。他のどんなことで敵わなくても、駆けっこで負けたことは一度も無い。校舎を飛び出してグラウンドを突っ切って、体育用具倉庫の前まで行けば匠は終に観念したように足を止めた。

 互いに荒い呼吸をしていた。匠は痛むのだろう腕を押さえながら俺を睨んだ。内心、ひやりと嫌なものが走った。



「何で、付いて来るんだよ」

「匠が逃げるからだろ」

「逃げてない」

「それでもいいよ。なあ、教室帰ろう」



 匠がいないとつまらないんだよ。匠がいないと落ち着かないんだ。匠がいないと嫌なんだ。匠と一緒にいたいんだよ。

 けれど、匠は僅かに口元を釣り上げて皮肉っぽく嗤った。俺は今まで一度だって、匠がそんな風に嗤うのを見たことが無かった。



「独りで帰れよ。そんで、あいつ等と一緒になって俺の悪口言ってりゃいいだろ」



 意味が解らなかった。俺は一度だって匠の悪口を言ったことなんてないし、言うつもりも無い。何でそんなことを言われるのかも解らない。

 俺が黙っていると匠は苛立ったように声を張り上げた。



「毎日毎日、纏わり付きやがって! お前、うざったいんだよ!」



 匠の口が開かれる。心臓の音がやけに大きく、近く聞こえた。



「どっか行っちまえ!」



 どっかって、何処。

 咄嗟に何も言えなかった。だって、他に俺の居場所なんて、無い。



「行かない」



 声が震えていた。誤魔化すように強く拳を握った。



「何処にも行かない」



 嘘だ。何処にも行かないんじゃなくて、何処にも行けないんだ。

 すると、それまで根っこでも生えたように立ち止まっていた匠が急に足を踏み出して俺の胸倉を掴んだ。激昂したように叫ぶ匠の声は聞こえなかった。心が拒否して理解しようとしていなかったのかも知れない。ただ、俺は何処にも行けなかった。

 匠は俺の胸倉を掴んだまま、空いていた手を振り上げた。


 殴られる。


 そう解った瞬間、逃げようとは思わなかった。咄嗟に匠の肩を押して伸びてしまう腕を止めた。もうじき完治する筈の腕を痛めてしまうのが恐ろしかった。

 腕を押さえられた匠が驚いたように目を丸くした。俺はそのまま体制を保てずに後ろに倒れ込んだ。傍にあった枯れ木の枝が爪を立てるように俺の蟀谷を掠めた。鋭い痛みを感じながら頬を伝う温かさに指を這わせれば、真っ赤な血が付いていた。

 匠が真っ青な顔をしていた。



「匠……」



 匠は俺の顔と自分の右手を何度も見て、猫のような目を更に丸くする。



「お前、何を」

「匠の手は、野球する大切な手だろ……」



 何処の誰にも、匠からそれを奪う権利なんてない。匠は何も悪くない。

 そう言えば、匠はばつが悪そうに目を伏せてそのまま立ち去ってしまった。

 噛み締めた唇は、鉄の味がした。どっか行っちまえ。匠の声が何度も頭の中に響いていた。

 匠がいなくなってしまってから、そういえばまだHR中だったと思い出して教室に戻った。袖口で乱暴に拭った蟀谷からの出血は止まらなかったけれど、それが匠のせいになるのだけは防ぎたくて保健室に寄った。血の滲むガーゼを蟀谷に貼り付かせた俺にクラスメイトがざわめき立った。転んだと言った。

 遠足の詳細はすでに説明を終えたらしく、黒板には行き帰りのバスの座席表が貼られていた。小さなコピー用紙の図をフリーハンドで映したらしい黒板に、女子はそれぞれ自分の希望する席を仲の良い友達と一緒に書き込んでいる。

 女子の陰湿な集団での敵対行動には何の興味も無いけれど、俺の心配する振りをして匠を貶めようとする。



「和輝君、何処座るの?」



 女子の集団が、此方を見ている。一方で仲間が俺を呼んでくれる。

 空いている座席は僅かだ。



「お前の名前、入れとくぞ」



 最後尾の五人掛けの席に、俺の名前を入れる。四つの席が自然と埋まっていた。

 俺は黒板の前まで行って、短くなったチョークを握った。白で記されたバスの座席。空いた窓側の席。俺は何の迷いも無く、其処にすぐに見付けられるよう赤いチョークで名前を記していく。仲間が何か言った。

 おいおい、もう放って置けよ。

 そんなこと、言わないでくれ。祈るように、俺は『白崎匠』を記入する。



「俺の隣は匠なんだよ」



 これまでも、これからも。

 例え、匠が俺を置いて行ってしまっても。

 呆れたように溜息を吐く仲間に、半ば自棄になりながら俺は教壇を後にした。

 HRが終わればすぐに下校だ。匠が先に帰ってしまったせいで、俺は独りぼっちだった。仲間が声を掛けてくれても、胸の中の空洞は埋まる筈も無い。だって、俺の世界は極僅かなもので構成されている。ガーゼの貼られた蟀谷が鈍く痛んだ。

 教室を出ようとすると、扉の前で奈々が待っていた。

 集団を作りたがる女子の中で、奈々は孤立し易いらしい。その可愛らしい外見と、媚びない態度が反感を買うらしい。俺の幼馴染は如何も癖が強い。俺が奈々のところに行くと仲間は自然と離れて行った。仲間の中には奈々に好意を寄せていた者もいた筈だけど、陰湿な女子のグループが嫌う奈々と関わると睨まれることが解っている為か遠巻きにしている。俺にしてみれば他人の評価なんて放っておけばいいとも思うけれど、そうもいかないらしい。



「和輝、行こう?」



 俺は頷いて、奈々と歩き出した。

 匠が怪我をしてからも俺の自主練は続いていたけれど、その中に一つ、特別なメニューが追加された。それはトレーニングではない。

 奈々と一緒に向かう先は、あの日匠が事故に遭った空き地だった。ブロック塀の傍に群生する緑の絨毯。所々に咲く小さな白い花は首を伸ばすように俺達を見ている。

 四葉のクローバーは幸運の象徴だと、奈々が言った。何時まで経ってもレギュラーになれない俺の為に奈々が探す幸せの象徴。生い茂る無数のクローバーはどれも三葉のクローバーで、稀な変異体と言われる四葉のクローバーは二か月経った今も相変わらず見付からない。

 見付けることが出来たら幸せになれるのだろうか。

 兄ちゃんが振り向いてくれるのだろうか。

 レギュラーになれるのだろうか。

 匠が置いて行かないでくれるのだろうか。

 俺がそれを探す理由は本当は一つしかなかった。そんなことは初めから解っていたのに。



――どっか行っちまえ!



 匠の声が今も胸の奥に響き続けている。

 頬に何か生暖かいものが伝って、ガーゼから染み出してしまったのかな、なんて俺は鼻を啜った。

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