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Play the hero. ー2.リトル・ヒーローー  作者: 宝積 佐知
24.リトル・ヒーロー
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24.リトル・ヒーロー⑵


 テレビを見て初めて気付く。ああ、こんな気持ちだったのか、なんて。



 ずぶ濡れの奈々を迎えに来た涼也君が、何時もの飄々とした態度で教えてくれた。

 坂戸高校の夏の終わり。夢の跡地。圧倒的大差で敗北が確定した状況で、それでも逃げられずにただ機械的に野球を続けた坂戸ナイン。泣いたって嘆いたって諦めたって、永遠に終わりは来ない。少しずつ空いて行く観客席からは野次が飛び交い、同情の目が向けられる。そうして漸く試合が終わってみれば負け犬のレッテル。

 辛かっただろうな、なんてそれ以上の大差で敗北した自分に言えることではないけれど、画面の中の彼等の涙は吐気を催す程度には辛かった。

 圧倒的な才能の違いは、努力では越えられない。どんなに頑張っても届かないものがある。それは当たり前の一つの現実だ。

 夏の終わりは、チームを瓦解させた。絶望、諦観。次の大会に向けるべき情熱など消えたと憔悴し切った顔で選手が口々に訴える。その中でただ一人、奈々だけが奔走する。練習に来ない部員を叱咤し、部活を盛り上げようとする。一人相撲、空回り。

 マネージャーは縁の下の力持ちだ。チームを支える必要不可欠な仲間の一人。けれど、其処にチームが存在しなかったら、自分の存在意義なんて見付からないだろう。


 夏の甲子園も佳境だな、とぼんやり思う。

 相変わらず、陸はツマンネー顔でボールを投げている。


 そう言えば、自分も見っとも無く泣き喚いたな。本当に泣きたかっただろう先輩に宥められるくらい、情けなかった。

 仲間が絶望して行く様を、奈々はどんな気持ちで見ていたんだろう。考えるだけで胸が軋むように痛んだ。自分達の夏が終わったあの試合でもしも、誰か一人でも絶望して諦めようと提言したら何を訴えられただろう。諦めるな、と叱咤しただろうか。励ましただろうか。俺ならきっと、プレーで示しただろう。じゃあ、それが出来なかった奈々は?

 堂々巡りの思考。頭がこんがらがって来る。頭でっかちだと言われる俺の頭は情報を処理するには向いていない。キャパシティの低さは初期の大型パソコン以下だ。すぐにオーバーヒート。

 昨日の雨にぬかるむグラウンドをぼんやりと見詰めていると、隣で匠が言った。



「実際、俺達の方が異常だったと思うぜ」



 あの試合を思い出す匠の目は遠い。

 絶望的な大差で、それでも誰一人勝利を諦めなかった。麻薬でも吸っているんじゃないかと思われる程度にはおかしかったらしい。



「でも、俺は後悔してねーよ。だって、泣いても叫んでも諦めても状況は何一つ変わらないんだからな」



 遠い目をしていた匠は何時の間にか、しっかりと此方を見据えていた。



「逃れられない苦しみなら、楽しんだ方が得だよ。結局、世の中は楽しんだもん勝ちなんだから」



 からりと、猫目を細めて匠が笑う。

 例えばさ。匠が言った。



「例えばさ、目の前に越えようのないでっかい壁があったとして」



 目を閉じて想像する。瞼の裏に浮かぶのは鉄のように重く冷たい、途方も無く大きな壁だった。闇に染まった世界を塞ぐそれはまるで牢獄のようだ。



「回り道する奴もいるだろうし、如何にかしてぶっ壊してやろうって奴もいるだろう。でも、俺なら其処に絵を描くね」

「絵?」

「そう。例えば、青空。例えば海、山、虹。可能性は無限大だろ?」



 したり顔で笑う匠の思う壁は、きっと真っ白なんだろう。それがキャンバスに見えるのだから。

 牢獄を思い浮かべる自分は大概、卑屈な性格だ。内心嗤う。ド真面目な匠は意外と思考が柔軟で、驚かされることが未だにある。ぶち当たった壁に絵を描くなんて意味が解らない。



「絵を描いている内に、何時の間にか壁なんて越えてるかも知れねーだろ。障害物なんて、結局はその程度なんだよ」



 楽観的なのか、自信家なのか。釣られて笑った。



「いいな、それ。……でも、俺は壁なんて本当は何も無いんじゃねーかなと思うんだ」



 今度は俺が出し抜く番だ。



「俺達が壁だって錯覚してるのは、本当はきっと扉なんだよ。引き戸もあるだろうし、鍵が掛かっているものもある。ただ、俺達はその開け方を知らないだけなんだ」



 言えば、匠が猫目を丸めた後にくすりと笑った。

 いいな、それ。俺の言葉を引用して匠が微笑む。



「まあ、要するに、此処で立ち止まってるつもりは無いってことで」

「うん。一つ、考えがあるんだ」

「考え?」



 奈々が帰ってから一晩、如何してやればいいかと考えていた。

 俺達の前にあるのがどんなに大きな壁でも、複雑な扉でも構わない。其処に大空を描こう。一緒に鍵を探そう。



「キャプテンの初仕事だ。練習試合を組むことにした」

「……は? いきなり練習試合って……つか、相手は?」



 まさか、と息を呑む匠に、とっておきの笑みを浮かべてやる。

 歓喜でも自嘲でもない挑発的で好戦的な微笑みを。





24.リトル・ヒーロー<後編>




「たーまやー」



 ビロードのような夜空にぱっと花が咲く。代表的な夏の風物詩を眺める河川敷は青々と草が絨毯のように茂っている。

 二年ぶりの花火大会は息苦しくなる程に人が犇めいて、どの出店も長蛇の列を成して大変繁盛しているようだった。その人込みから避けるように鉄橋下から覗くように見上げる花火は最早恒例だった。薄暗く、障害物のある場所を嫌って人の少ないこの場所は穴場で、何時しか親しい仲間内で集まるのが決まりのようになっていた。物理的な距離だけでなく、大人になろうとする自分達はこうして一つ一つの約束を忘れて上塗りして生きていくのだろう。

 匠は、ぼんやりと空を見上げている。

 赤、青、緑。美しい大輪の花を見上げる隣の和輝の顔が、花火に照らされては闇に沈む。大きな相貌には光の花が映り込んでは消えていく。八月某日の夜。いちゃつくカップル等目に入らないというように一心に空を見上げる横顔は幼いのに、何処か大人びたとも感じる。その奥では奈々が同じように空を見上げては嘆息を漏らす。道行く人が一様に振り返る程度には整った顔をした二人が、こうして花火一つに瞳を輝かせている。そして、それを一番近くで見ているのが自分だと思うと少しだけ誇らしい。

 思い立ったが吉日。そんな諺を知らしめるように、和輝は今日の昼には奈々の学校、坂戸高校に練習試合を申し込んだ。互いに甲子園進出というブランドを背負い、先日の敗戦で意気消沈している部員を奮い立たせたいと考えていたらしい監督は、和輝の申し出を二つ返事で了承した。三年生のいない晴海高校は選手が足りないというのに、和輝は平然と受験を控えた先輩を巻き込むと言ってのけた。これが本当の引退試合だと笑った和輝に邪気が無いことは皆が知っている。それが余計に性質が悪いとは思うけれど、後輩の我儘くらい聞いてやると三年生もまた笑って受諾してくれた。相変わらず、人の好過ぎる部活だ。

 二週間後の夏休み最終日が練習試合の日となった。決定するや否や奈々がわざわざ裏山のグラウンドまでやって来て説明を求めていたけれど、和輝は笑うだけだった。

 そして、夜。恒例の花火大会に何の因果か幼馴染三人組で並ぶことになった。この因果は切っても切れない腐れ縁に近いのだろうと、何と無く思った。



「あ、今のハートだった」



 打ち上がった歪な赤い花火を差して、奈々が嬉しそうに言った。和輝も空を見上げたまま頻りに頷いている。俺としては偶然じゃないか、なんて漏らす。情緒が無いと二人が笑った。

 夜空に浮かんでは一瞬で散って行く。遠くで激しく自己主張する油蝉。儚さを象徴する夏の風物詩は温い空気に溶けて消えて行く。こんな夏の終わりもいいじゃないか、なんて爺臭いことを考えてみる。

 月日の経過はあっという間だ。嵐のような、地獄のようなこの一年を振り返る。そして、隣の幼馴染を盗み見る。

 なあ、和輝。お前にとってこの一年って何だった?

 困難の無い人生なんて無い。どんな障害もより高く上る為のステップだ。そう言って、笑える?

 胸の内で呟いた言葉は自然に口から零れ落ちていた。



「お前はこの一年、辛かっただろ」



 それまで和やかに夜空を見上げていた和輝の丸い目が、じっと此方を見詰めていた。

 声にしたことを後悔した。和輝が返す言葉なんて解り切っていたからだ。『周りはもっと辛かった』と、そんなお決まりの模範解答はもう十分に聞き飽きている。

 けれど、和輝は少しだけ口角を釣り上げて笑う、振りをした。



「辛かったよ」



 その返答に、信じられず耳を疑う。奈々だけが「そうだよね」と静かに肯定した。

 ヒュー、ドン。打ち上げられる赤い光が和輝の横顔を照らした。



「お前等がいなかったら、きっと生きていられなかったよ」



 夜空の光が闇に溶けて消える。

 一年前の冬、和輝が死のうとしたことを知っている。自分だけが辛い訳じゃないと言い聞かせて来たことを知っている。――でも、それ以上に辛くて苦しくて哀しくて、全てを投げ出したかったことも知っている。弱音も泣き言も呑み込んで来た強情な幼馴染が、微かに笑った。それは元来の童顔に見合わぬ何処か大人びた微笑みだった。



「ずっと怖かったんだ。本当は、ずっと」



 花火の破裂音は遠くの出来事のようだ。電車の通過音も周囲の歓声も川のせせらぎも全てが遠退く。



「人から笑われるより、馬鹿にされるより、何を言われるより、……置いて行かれるのが、ずっと怖かった」



 何に、とは訊けなかった。

 兄に、自分に、仲間に、世界に。伏せられた長い睫が照らされて頬に影を落とす。



「でも、解ったんだ。幾ら拒絶されても、見放されても、自分が手を離さなければいいんだって」



 ゆっくりと開かれた瞳に映る青い光の花。和輝が顔を向ける。

 この一年の地獄が、次へのステップになるだなんてきれいごとだ。そう、思っていたけれど。

 置いて行かないでと泣き叫んだ小さな頃の和輝を思い出す。けれど、目の前にいるのは。

 和輝は目を伏せて言った。



「俺は欲張りだから、目に見えるものを全部抱えて行きたかったんだ」

「……そんなの無理だろ」



 頷いた和輝が、自嘲するように息を漏らした。



「結局、俺は信じられるものしか信じられないし、手を伸ばした人しか救えないんだ。……どんなに願ったって、全てを手に入れられる訳じゃない」



 周囲の期待も、誰かの英雄像も、何処かで聞こえる悲鳴も、助けを求める目も。

 そう言って、和輝が笑った。それは何処か痛々しい笑顔だった。



「救世主にはなれないよ。だから俺は、小さなヒーローでいい」



 ドン。ドドドン。

 終了時刻が近いのだろう。クライマックスだと言わんばかりの花火の連発。周囲から歓声が上がる。

 たーまやー。奈々が言った。かーぎやー。和輝が言った。




 夏休み最終日。例年より早くやって来た夏の終わりに吹く風は、何処か懐かしい匂いがした。

 水彩絵の具を広げたような水色の空をぼんやりと見詰める和輝の瞳に何が映っているのかなんて解らない。夏休み最終日、八月の最後は何と無く世間全体が気怠げに感じた。

 甲子園に辿り付いたことで学校側から漸く認められた野球部が、最終日に校庭を全面的に使用出来るなんて、一年前には考えられないことだったそうだ。転入生である自分の知ることではないけれど、仲間は皆嬉しそうだった。

 グラウンド、三塁側のベンチには奈々がいる。和輝がキャプテンになっての初仕事は、西東京代表の坂戸高校との練習試合。当日を迎えても和輝は普段と何ら変わらぬ態で現れた。

 ――嘘だ。


 三年生の引退試合だと意気込む仲間、作業的に試合の仕度をする坂戸高校、均されていくグラウンド、澄み渡る青空。全てを真っ直ぐに見詰めるその様は、既にキャプテンの風格だった。

 掛ける声を持たない俺の横を擦り抜けて、藤先輩が言った。



「今日は声掛けてくれてありがとな」



 振り返った和輝が笑う。



「いいえ。というか、先輩達がいないと碌に練習試合も出来ないんですよ」

「はは、そりゃそうか。……まあ、楽しませてもらうとするか」

「はい。楽しく勝ちましょう」



 小さな拳を持ち上げて和輝が言った。応えるように作られた藤先輩の拳がぶつけられた。

 それぞれが試合の準備に動き出す忙しないグラウンドで、其処だけ切り取られたかのように時間がゆっくりと流れて行く。また何処か遠くを見詰めながら和輝が佇んでいる。



「匠」



 ゆるりと振り返った和輝の口元に笑みが浮かんだ。

 携帯貸してくれないか。否定の言葉など端から聞く気も無い癖に、と思いながら鞄の中から取り出した携帯を投げて寄越す。サンキュー。目尻を下げて和輝が言う。

 人の携帯をまるで自分のものであるかのようにスムーズに操作し、和輝はそれを自身の耳に当てた。



「もしもし。ああ、陸?」



 赤嶺陸。突然繋がれた電話の相手に息を呑む。

 意味が解らない。けれど、和輝は目に見えない遠くをじっと見詰めながら言う。



「大した用じゃねーよ。ただ、言い忘れたことがあったから」



 何を言うのだろう。今更、試合後に浴びせられた罵倒に反論する気も無いだろう。

 見詰める視線に気付いたのか和輝が俺を見て不敵に笑った。



「どっちが正しいとか間違ってるとか、そんなこと如何だっていい。俺は俺が生きたいように生きて、やりたいようにやる。だから、これはお前への宣戦布告だ」



 一陣の風が、吹き抜けた。



「勝率が低かろうが、世間が何を言おうが関係無い。俺は俺のやり方でお前に、勝つ」



 待ってろ、と和輝は言わない。待たせる気など更々無いのだ。

 一方的に電話を切った和輝は何か悪戯めいた笑みを浮かべて携帯を手渡して来た。吹っ切れたように清々しく笑う和輝が、背筋を伸ばして歩いて行く。ベンチでは既に準備を終えた仲間が俺達を待っていた。

 このチームで行う正真正銘最後の試合。過去の柵は此処に置いて行く。和輝の横顔に迷いや戸惑いは一切感じられない。

 気怠そうな坂戸ナインが、監督の話にだらだらと返事をしながら聞き流していく。対するは補欠も監督もいない晴海ナイン。

 試合開始を促す審判の声。弾かれるように駆け出した先で待ち構える坂戸ナイン。

 こんな相手に負ける気は無い。負ける訳が無い。小さなヒーローが其処で笑った。



「さあ、行くぞ」



 返された声が、グラウンドに響き渡った。


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