23.アフターダーク⑶
酷い倦怠感はまるで体中が鉛にでもなったかのようだった。
完敗、大敗。そんな公式記録を残したまま、重い足をずるずると引き摺りながら宿泊先のホテルに向かう晴海高校の面々は俯き涙を終始無言を保っていた。全てが終わった後では叱咤も激励も意味を持たないし、笑い飛ばすには圧倒的に時間が足りなかった。事実上の引退を突き付けられた三年生だけが僅かに顔を上げ、俯く後輩を導くように歩き続けていく。まるで葬列のようだと、密かに思った。
昼前のホテルは静まり返っていた。球場近くのこのホテルに宿泊する客の目当てを思えば、殆ど出払っているのは当たり前のことだ。呑気に昼食をとる気も起きず、それでも酷い疲労のまま呆けている訳にもいかない。部屋に荷物を捨てるように投げ、三年生が食堂へと歩き出す。引き摺られるように付いて行くだけで精一杯の自分達を振り返ることはしないけれど、置いて行くこともしない。
中学時代の自分の引退試合を思い出し、胸が軋むように痛んだ。
三年生の背を押し動かすものが、先輩としてのせめてもの償いのなのだとしたら、それはとんだ御門違いだ。彼等が償うことなど何も無いのだから、思いの限り泣き叫んで不甲斐無かった自分を責めても間違いではない。――そしてそれは、二年前、自分が裏切ってしまうことになった仲間と同じ感情だったのだろう。
思ってしまったら、もう言葉を止めて置くことは出来なかった。
「先、輩」
食堂の入り口を潜ろうとする藤の足が、止まった。釣られるように自然と仲間も動きを止める。
「先輩、」
何で泣かないんだ、とか。
何で責めないんだ、とか。
苛立ちも苦しさも辛さも悲しさも悔しさも、全てが今までの思い出と一緒に、一斉に頭の中に雪崩れ込んで来て言葉が詰まる。思考は堂々巡りで視界がぐるぐると回転を続ける。それでも言葉は理性を振り切って零れ落ちた。
「ごめんなさい……!」
無表情だった藤が、此方を見て目を丸くする。視界がじわりと歪んで、目頭がツンと痛んだ。
「ごめん、なさ、い、先輩……!」
あ、と思った時にはぼろりと、また涙が零れ落ちた。
「ごめんなさい……!」
これ以上見っとも無い姿を晒したくなくて、顔を上げて涙を呑み込もうとするけど止める手立てもなくて。
嗚咽も殺し切れず、涙も抑え切れず、ただただ謝り続けることしか出来なかった。
藤がゆっくりと一歩踏み出す。驚愕に染まっていた藤が、くしゃりと顔を歪めた。
「馬鹿、野郎」
馬鹿野郎。再度、そう呟いて藤が胸倉を掴み掛かる。
「謝ってんじゃねーよ、この、馬鹿」
殴られると思った瞬間、藤が正面から肩を抱いた。理解が追い付かず一瞬、呆然とする。次いで零れ落ちたのはやはり、涙と謝罪だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。俺、先輩に沢山迷惑掛けたのに、心配させたのに、何も返せなかった……!」
針の蓆だったこの一年、世界が敵だった自分を守ってくれたのは彼等で、辛かったのも彼等だった。
勝手な責任感で蚊帳の外に追い出したのに、責めることもせずに引っ張って行ってくれたのは彼等だった。
その結果が、これか。結局何も出来ずに惨めな最期を押し付けただけか。
言えば藤の肩が大きく震えた。
「ふざけんなよ、お前」
至近距離でなければ聞き取れなかっただろう小さな声で、藤が言った。
「ふざけんな。ふざけんなよ、お前!」
痛い程きつく肩を抱かれて、返す言葉も無い自分に藤が叫ぶ。
「お前が何も返せなかっただなんて、冗談言うなよ」
ゆっくりと離れ、両肩を掴む藤の頬は涙に濡れていた。茫然としていた雨宮と千葉もまた、泣き笑いのような奇妙な顔で立っている。
「お前が、お前等が一緒にいたことが、俺達にとっちゃ何よりだったんだよ。一緒に練習したことも、試合したことも、笑ったことも、泣いたことも、全部全部」
全部だ。はっきりと藤が訴える。
「言っとくけどな、俺はお前等と一緒にいたことを、一度だって後悔したことはねーんだよ」
食堂からの光が漏れて、藤の背中を照らす。それはまるで藤が輝いているような錯覚を覚えさせる。
雨宮が頬に涙を張り付けて微笑んで、千葉が不機嫌そうに頷く。夏川は俯いて顔を隠し、箕輪が声を上げて咽び泣き、青葉は啜り泣き涙を拭い続ける。星原は嗚咽を噛み殺し、醍醐が藤に縋り付き、蓮見は不貞腐れたように正面を睨みながら涙を落とす。匠は静かに目を伏せていた。
「お前等に会えて、本当に良かった……!」
泣いても笑っても叫んでも、もう何もかも終わった後だ。それでも歩き出せないでいる自分達を嗤うだろうか。
この世には、不死身の勇者なんていない。ピンチに駆け付けてくれる五人組も存在しない。世界を変えるのは結局自分自身だ。それなのに、何時までも泥濘に嵌ったまま抜け出せないでいた自分を、彼等は当たり前の顔をして引き上げてくれた。
何が、ヒーローになりたいだ。烏滸がましい。
許されることは、切ない。
強くなりたいと、想う。
23.アフターダーク<後編>
出迎えた高槻は何時もの仏頂面だった。
晴海高校の夏が終わってから二日後、漸く自分の中で気持ちに区切りがついて高槻の病室を訪れた。終わらない夏が窓の外から嫌という程に厳しい光を向けて来る。負けて惨めな自分を嘲笑うかのように、と言うのは未だ敗戦から立ち直れていない為だったのかも知れない。
相変わらずベッドの上で、据え付けられたテーブルに幾つもの冊子を重ねていた高槻はそれらを全て閉じた。そのままの仏頂面で、傍のパイプ椅子に座るように顎でしゃくる。促されるまま座れば藤は無数の冊子の下に埋もれていた文庫本を取り出して興味も無さげに開いた。
聞くだけ聞いてやるから、さっさと話せ。
高槻は言葉にせず、そんな態度を取る。それが余りにも彼らしくて、がちがちに張っていた肩の力が抜けた。
「負けました」
「知ってる」
言えば即座に切り返す。相変わらずだな、なんて。
「先輩達、格好良かったです」
高槻がぱらぱらと頁を捲る。
脳裏を過る彼等とのやり取り。感傷に浸りそうになる自分に頭を振って話し続ける。
「俺達と出会えたこと、後悔したことなんて一度も無いって、言ってくれました」
「……藤も成長したな」
ぽつりと、高槻が言った。
和輝にとっては先輩でキャプテンでも、高槻にとっては後輩の一人だ。そんな当たり前のことを思い出して笑う。同時に、ふと、赤嶺の冷たい目を思い出して体が強張った。高槻が目聡く視線を投げるが、結局何も言わなかった。
「陸に会いました」
なるべく表面に感情を出さぬように、普段の態を装って笑う。高槻にはきっと、全部御見通しなのだろうけど。
「先輩はそう言ってくれました。でも、陸は、俺が間違ってるって、言いました。俺がいなければ、誰も不幸にならなかったって」
高槻は何も言わずに頁を捲り続ける。
「勝者が正義なのは解っています。だから、負けた俺が間違ってる。……そんなこと、言われなくても解ってるのにね?」
わざとらしく首を傾けて、悪戯っぽく笑ってみる。高槻は目もくれない。けれど、きっと本の内容なんて全く頭に入っていないだろう。
沈黙が流れた。開け放たれた窓から流れ込む風がカーテンを揺らし、レールと金具が静かに鳴った。
漸く高槻は文庫本を閉じ、ゆっくりと顔を向けた。
「勝ったから正義だなんて結果論、俺は嫌いだ」
外界の光を背負いながら、真摯な目を向けて高槻が訴え掛ける。
そうだろ?
高槻が問い掛ける。
「お前は間違ってなんかいない」
二年前、仲間は自分を否定した。たった独りで歩き出した自分を正しいと認めてくれる人はいなかった。
一年前、世界は自分を悪者にした。お前なんかいなければと蔑んだ。――けれど。
仲間、が。
「たった一度の敗北で、全てが否定されるなんてことあって堪るかよ」
馬鹿馬鹿しいと、高槻が少しだけ笑う。
「良いことを、教えてやるよ」
彼らしくない子どもっぽい笑みを浮かべ、高槻が言った。
「昨日な、外出許可が出たんだ」
「え、」
「それで、袴田に会いに行った」
その瞬間、得体の知れない悪寒が過ぎ去った。
大丈夫、大丈夫。此処はもう、あの場所じゃない。
「一年ぶりに会ってみたら、随分とやつれてたよ。あの似合わない金髪も丸めて、丸刈りになってた。まあ、すげー似合わなくて笑ってやったんだけどな」
此方の様子も気付いているだろう。それでも、高槻が何も気付かないような素振りで話し続けてくれることが嬉しかった。
一年前の事件以来、顔を見ていないどころか近況すら知らなかった袴田を思い浮かべる。何処か吹っ切れたような高槻の顔は明るい。
「お前の話をした」
それまでの楽しそうな笑みを崩さぬまま、高槻が言う。
「一年前、お前が手を伸ばし続けた意味をずっと考えてたらしい。……恥ずかしい話だが、俺もお前の行動を知るまで、袴田の気持ちなんて欠片も考えたこと無かったんだ」
何処か困ったような顔で笑うその姿は高槻らしくなかった。
「俺はあいつを、仲間を守った気になって、守られた側の気持ちなんて全然解ってなかった。押し付けた偽善が相手を傷付けてたなんて、解ろうともしてなかった。結局、一年前の事件はその場しのぎの上っ面の平穏に甘んじて、仲間の気持ちを踏み躙って来た俺への罰だ」
「そんなことない! だって、実際に皆は守られて、救われてた!」
「だからそれは、結果論だろ」
びしりと言い切った高槻はもう笑っていなかった。
「結果が良ければ過程が許される訳じゃねーよ。学校から消えた袴田が敗者になったから、必然的に俺が正義とされただけだ」
高槻は真っ直ぐ見据えている。
解るか、和輝。そう前置いて、高槻が言う。
「どっちが正しいとか間違ってるとか、そんなことは問題じゃねーんだよ。勝ったのは強いからだ。負けたのは弱いからだ。でも、弱いことは悪いことじゃねーんだよ」
其処で漸く、高槻が笑う。
「此処で終わる気は無いんだろ?」
「……当たり前です」
「次に勝ちたいなら、負けから学べ」
それは正論過ぎて、反論の余地も無い。
手厳しいな、と密かに笑った。