23.アフターダーク⑵
周囲を取り囲む観客の大半は政和賀川を応援していて、その絶対的王者の試合を楽しみにしている。絶望的な点差を前に、葬式会場と化した晴海高校ベンチは邪気の無い声援に押し潰されようとしている。
四面楚歌。そんな言葉が脳裏を過り、匠の肩を借りながらベンチに向う足取りが鈍った。
半ば引き摺られるように辿り付いた先で、向かい入れるように藤が笑った。
「――よくやった」
言葉の意味が理解出来ずに立ち尽くせば、何突っ立ってんだよ、と匠が苦笑する。
勝利を確信した政和賀川の応援が背中に降り注ぐ。感覚の消え失せた右腕がじくじくと痛む。けれど、それ以上に目の前に広がる仲間の姿に意識が奪われた。
「……十五点差、か」
電光掲示板を見遣り、藤が肩を落とす。
もう無理だ、諦めろ。そんな否定の言葉が紡がれるのが恐ろしくて耳を塞ごうと上げた手を、匠がしかと掴む。
「諦めなければ勝てるとは、言わねーよ。でも、諦めたら勝てねーよな?」
なあ、と確認するように藤が仲間に目を遣る。
雨宮が、千葉が、箕輪が、夏川が、醍醐が、蓮見が、星原が頷いた。甲子園本選でなければコールドゲームも有り得たこの絶望的な点差を前に試合を放り出すような選手は一人もいない。
きれいごとが現実になるとは思わない。正論が正解とは限らない。それでも、諦めたくない。
「勝ちたい、です」
ぽつりと零れ落ちた声は、自分が思う以上に掠れた情けない声だった。
勝ちたい。負けたくない。こんなところで諦めたくない。強く、強く思う。目の前の藤を真っ直ぐ見据えれば、隣で匠が「違ぇよ」と後頭部を小突いた。
「勝つんだよ!」
当たり前のことを言わせるなと、匠が声を上げる。
仲間はそれぞれ顔を見合わせると、頷き合った。攻守交代。試合は今も進んで行く。ぞろぞろとベンチから現れる仲間の足取りは揃わないけれど、その目に灯る光だけは一様に変わらない。隣に並んだ箕輪がグラブを手渡す。一年前、左手に転向した時から使い始めたそれは既に右手に馴染んでいる。星原が、青葉をベンチから連れ出した。
甲子園球場の片隅に、小さな円陣。
「まだまだ、試合は終わってねぇ。行くぞ!」
「おおッ!」
まるで、安っぽい青春映画だ。それでも自嘲することは無かった。
胸の中に込み上げる熱の正体も解らぬまま、口元は吊り上っていた。
五回を終えればグラウンド整備が挟まり、それはちょっとしたインターバルにもなった。
用を足そうと薄暗い廊下を匠と並んで歩く先、年季の入った男子用トイレが現れる。試合中に尿意を催すことは無いけれど、ランナーズハイになりそうな気分を落ち着けたかった。一人でベンチを抜けた筈が感付かれ匠に付き添われることになる。
子どもじゃあるまいし、なんて言い訳にもならない。匠は感覚の消えた右腕の状態に気付いている。
ちゃっかり持ち出した氷嚢を押し付けながら入口を潜れば、何の因果か見知った顔が手を洗っていて。
「……よう、陸」
声を掛けるも、赤嶺は一瞥しただけで擦れ違う。
冷た過ぎるだろう、と苦笑して小便器に向かった。用を足す訳でもない匠は手持無沙汰に廊下の壁に寄り掛かって待っているようだった。
幾ら水分補給をしても汗となって流れていく。切れの悪い小便に溜息を零し、水を流す。手を洗おうと水道の蛇口を捻る。冷水が心地良かった。
「お前がしているのは、ただの自己満足だろ」
不意に聞こえた抑揚の無い声に、鏡越しに目を遣る。匠と鉢合わせしたらしい赤嶺の背中が見えた。
両手の付いた水滴を切りながら、何事かと顔を覗かせる。赤嶺は冷たく匠を見下ろしていた。この僅かな間にどんなやり取りがあったかは知る所ではないし、干渉する権利も無い。自分に視線すら向けない赤嶺の横を擦り抜け、匠を呼んだ。
戻ろうぜ。
そう言うと、匠は此方を見て猫目を細め笑った。幼い頃から見て来た穏やかな笑顔だった。
「いいんだよ、自己満足で」
手にしていた氷嚢を押し付けられ、訳が解らないまま二人を見遣れば匠がまた、笑う。
「それで、こいつが笑っていられるなら」
行こうぜ、と匠は歩き出した。冷たい目を細める赤嶺に自分の姿は映らないらしい。まあ、30cm近い身長差だからな、なんて無理矢理自分を納得させて追い掛ける。振り返ることはしなかった。
23.アフターダーク<中編>
試合が進む程に嵩む点差と疲労。
現在の高校球界最強の怪物投手から得点どころかヒットすら打てないまま、試合は最終回を迎える。高校球界最速のストレートと、並ぶ切れのある変化球。余程、此方を研究して来たのだろう。匠が手も足も出ない状況で、唯一反応出来た自分も碌に打ち返す余力すら無い。それでも、これを絶望とは思わない。
最終回、二十三点差。二死走者無し。
噎せ返るような夏の空気が飽和している。湿気を帯びた土と風、青空に現れた入道雲は天候の崩れを予感させた。
(コールドゲームが無くて、良かった)
碌に顔も知らない高野連の人間に、一人感謝する。
予選を勝ち抜いて来て、勝敗が決しても少しでも長くグラウンドにいられるようになんて配慮の為じゃない。見知らぬ誰かに、勝手に幕を下ろされる訳にはいかない。
赤嶺は振り被らない。その理由が無いからだ。
剛速球は唸りを上げながらミットに突き刺さる。凶暴な生物を捉えたかのように、ミットの中で今も暴れ燻っている。
二球目。フルスイングした瞬間、バットに引っ張られるようにぐらりと体勢を崩して膝を着いた。審判がストライクを宣告する。それでツーアウト。あっという間に追い詰められた。
ずっと、不思議に思っていたことがあった。
世界を救う勇者様は、悪の根源の魔王を前にして何を思うのだろうか。
危機に駆け付ける正義の五人組は、敵の親玉と対峙して何を考えるのだろうか。
歴代のヒーローだって怖いもんは怖いだろうさ。
匠が言っていた。俺もそう思う。でも、きっと彼等は責任感の方が大きいんじゃないかな、とも思うんだ。
何か一つを目的に生きていく姿は美しいけれど、脆いと思う。それでも目的を達成出来る彼等を人はヒーローと呼ぶのか、それともただの結果論なのか、俺には解らない。
「諦めねーの?」
馬鹿馬鹿しいと言うように、呆れ返ったように、赤嶺が呟いたのが解った。
周囲の音が消え失せる。忙しなく動き回る筈の現実が切り離されて、目の前の赤嶺以外がモノクロに変わった。ハウリングのような耳鳴りがする。
「諦めねーよ」
独り言のように呟けば、赤嶺が怪訝な顔をした。
馬鹿じゃねーの。すっかり俺達の口癖になった言葉を吐いて、赤嶺がワインドアップする。大きく伸び上がったその威圧感は単純に体格差故ではない。押し潰されそうで、吸い込まれそうだ。
テークバック、ステップ。――スローイング。
目を奪われる程に精練された動作。放たれた白球はまるで銃弾のように走り抜ける。その刹那。
何度も何度もテレビで聞いて来たあの高音が鳴り響いた。モノクロに染まった世界が一瞬で色彩を取り戻す。背後でキャッチャーがマスクを押し上げ立ち上がった。掌からすっぽ抜けたバットが空中で数回旋回し、グラウンドに落下する。その勢いに巻き込まれるように姿勢を崩し倒れ込む。一瞬、視界が黒く塗り潰された。左手を突いて顔を上げれば目が眩むような青空。そして、白球。
「ピッチャー!」
キャッチャーが叫んだ。
空中に浮かび上がった打球は、ゆっくりと、名残惜しむように落下し、赤嶺のグラブに収まった。
「アウト! ――ゲームセット!」
一際大きな宣告が、歓声を生み出していく。
二十三対零。完敗だ。――これで、終わりか。
整列に向かう雑踏の中、理解が追い付かないまま立ち上がることすら出来なかった。耳の後ろが拍動しているらしい。頬から一粒、汗が滑り落ちて行った。
握り締めた拳が軋んだ。甲子園の土を握り締め、叩き付けるように拳を上げた。その時、前方の大きな影が落ちたことに気付いて顔を上げれば、壁のように大きな少年が立っていた。
「……り、く」
ぽたり、ぽたり。
零れ落ちる何かを手の甲で強引に拭い去るけれど、止め処無く溢れて行く。
俺、泣いてんのか。格好悪ィ。
嗚咽だけは漏らすまいと無理矢理笑えば、赤嶺はただ冷たく見下ろすだけだった。笑いに来たのかよ、なんて軽口を叩く余裕も無い。赤嶺はあの抑揚の無い無感情の声で言った。
「お前は、間違ったんだよ」
咄嗟に声を出すことも出来ず、ただ目だけがぎょろりと開いた。
「この一年、お前が時間と才能を無駄にして来たことは知ってる。全部、無駄な努力だ」
ぴしりと、空間が罅割れたような気がした。
「悪人になったり、英雄になったり、忙しい一年だったな。そうしてお前は結局、仲間を独り善がりな偽善に付き合わせて来た」
お前は間違ったんだよ。再度、そう繰り返すと赤嶺は背を向けようと踵を返す。
二年前、俺は仲間に黙って独りの道を選んだ。その結果が、この程度だ。傷害事件に巻き込まれて、人を一人死なせて、人一人の人生を破滅させて、仲間を地獄に引き込んだ。
――俺は、間違った。
ぞわりと、背筋に冷たいものが走る。だけど、それでも。
「……ない……」
赤嶺が足を止め、振り向く。
「間違ってなんか、ない……!」
顔を上げれば、不機嫌に顔を歪めた赤嶺が見下ろしていて、立ち上がることも出来ないまま声を上げていた。
「俺は間違ったなんて思わない。思いたくない。……馬鹿で間抜けで自分勝手で、情けなくて格好悪い俺でも、それでもいいって言ってくれた仲間を絶対に否定したくない!」
上げられた声に赤嶺が僅かに目を見開く。
溢れた涙は止まっていた。赤嶺が面倒臭そうに、目を細める。
「じゃあ、如何してお前は死のうとしたんだ?」
声が出なかった。何処かで空間の罅割れる音がする。
何も答えられず、呼吸すら忘れて赤嶺を凝視した。何を言えば正解なのか、何を求めているのか、何も解らない。けれど、その時。
「そんなこと、お前の知るところじゃねーよ」
言い返したのは、匠だった。
能面のような無表情を張り付けて割って入った匠が、毅然として立ち向かう。――俺は何時も、この背中に守られて来た。
赤嶺は相変わらずの仏頂面だった。
「ああ、興味も無ェよ。……解ってんだろ、和輝」
匠を越えて、赤嶺が話し続ける。
「お前が何をして来たとしても、観客は勝敗にしか興味がない。勝者が全てだ」
「負けたから、間違っただなんて言うつもりかよ」
視線すら合わない赤嶺に、匠が食って掛かる。
更に何か言おうと口を開いた匠の肩を、藤が叩いた。
「整列だぞ」
薄らと目元を赤くした藤が、促す。彼等の夏が、終わったのだ。
掛ける言葉を持たぬまま、和輝は言われるがまま立ち上がって走り出した。