19.ジターバグ
「ユズリハってあるだろう?」
脈絡無く切り出した和輝の口調は歌うように軽やかだった。
神奈川県地区予選、決勝戦。この試合の勝者だけが甲子園に行ける。敗者の未来は消える。勝てば官軍、負ければ賊軍。実に解り易い試合だと匠は思う。大勢が押し寄せ埋まり行く観客席を感慨深げに眺める和輝の心中は誰にも解らない。
「春になると若葉が出て、古い葉は譲るように落葉するんだ」
聞いたことがあるな、と思う。確か縁起物だった筈だ。
おぼろげな記憶を辿る匠の横で、和輝は依然として変わらぬ上機嫌で言った。
「若葉はどんな気持ちで、朽ちた葉を見るのかな。落葉した古い葉は、どんな気持ちで若葉を見るんだろう」
和輝の言葉の真意を悟り、匠は沈黙する他無かった。
どんな答えを求めている。何を返せば正解だ。少なくともその言葉は、ただの思い付きで放たれた言葉ではなかった。
試合開始のサイレンが鳴り響いた。悲鳴にも慟哭にも聞こえる不吉な音は、観客席からの声援を掻き消しグラウンド中に響き渡って行く。ベンチ前に一列に並んだ晴海高校。向き合う一塁側ベンチに、光陵ナインが並ぶ姿が見える。
「行くぞ!」
藤の声に、雄叫びにも似た声が上がる。弾かれるようにして、両校共に、一直線にグラウンドを駆けて行く。
空に浮かぶ大きな白い入道雲は一見穏やかさを感じるけれど、内部には目が眩むような稲光を孕んでいる。その底辺はぞっとする程に暗く、災害に匹敵する程の悪天候が起こるのだ。やがてあの雲は、この球場を覆い隠すだろう。そんな予感が、匠にはあった。
整列。審判を軸に並んだ二つの直線が向き合う。
エマージェンシー。呪文のように和輝が唱えた。その正面には、糸のような細い目をした、如何にも胡散臭い笑顔の選手が立っている。ああ、こいつか。こいつが神奈川県屈指のスラッガー、見浪翔平。その痩躯を見れば眉唾物だなと思うけれど、和輝の横顔に浮かぶ不敵な笑みがそれを否定する。
うずうず。そんな擬音がぴったりだった。
「これより光陵学園対晴海高校の試合を始めます。両校、礼!」
「お願いします!」
外した帽子を被り直し、匠は皆と同様にベンチへ向かって走り出した。少し先を行く和輝は振り返らない。
薄暗いベンチに到着すればすぐさま作戦会議だ。名ばかりの顧問、轟は一切口を挟まない。光陵の打順を確認しつつ、守備から始まるこの試合を予習する。じゃんけんで決めたという先攻後攻は和輝のお蔭で後攻だ。打ち合わせ終了後、グラウンド各々守備の備えを行う中、和輝は匠を見た。それは何処か悪童のような、悪戯っぽい笑みだった。
「この世はね、冷静な天国なんだよ」
同じ言葉を、昨日も和輝から聞いたと匠は思う。意味は解らない。
けれど、その解釈の助けとなる言葉を、和輝は続けた。
「神様なんて、いない」
この言葉は、世界に対する悲観なのだ。そう気付いた匠の視線の先で、和輝は既にグラウンドを見据えていた。
行くぞ。藤の声に、威勢の良い返事が掛かる。勢いよくベンチを飛び出した選手の背中を醍醐が見送る。昨日の怪我から今日はベンチだ。先発はエースの夏川だが、それは同時に後が無い背水の陣だった。
和輝が何かおかしいのは解っている。それでも、匠は掛ける言葉を持たない。
晴海高校が守備位置に付き、トップバッターが打席に立つ。
プレイボール。試合が、始まった。
19.ジターバグ<前編>
『一回表、光陵高校の攻撃は――』
夏川が構えた。正面の蓮見は射抜くような鋭い視線で、やって来るだろうボールに備えている。
アナウンスを置き去りに夏川は振り被った。尾を引いた声など追い付かない。黙って見送った打者、審判が声を上げる。
アウト。蓮見の返球。夏川のワインドアップ。出遅れたアナウンスなど追い付かない。
乾いた音が響き渡る。好調だ。アウト。審判が叫ぶ。打者はバットを振り切った姿勢で動けない。
『バッター一番、早川君。背番号――』
更に一つ、乾いた音。追い駆けるバットとアナウンス。アウト。審判が拳を上げた。
選手紹介が終わるよりも早く消えた一番打者が、苦い顔をして頭を下げた。ワンナウト。圧倒的なその球威に、誰もが歓喜した。敵さえ舌を巻く好調ぶりは和輝の笑みを深くする。
ナイピッチ。和輝が、三塁定位置で叫んだ。
笑っている。夏川も好調だ。何も不安に感じることなど無い筈なのに、匠の胸騒ぎは収まらない。
二番打者が打席に現れる。ランナーを背負わない夏川が振り被る。鋭い直球。バットの根本で跳ね返された打球は三塁線にボテボテのゴロとして転がり落ちた。和輝が飛び出す。
「アウト!」
一塁審が叫んだ。ツーアウト。危なげない試合展開。
続く三番打者をピッチャーゴロに抑えて一回表が終わる。涼しい顔でベンチに戻る夏川に、声を掛けて匠は小さな背中を追い掛けた。
小さな背中は、ベンチから消え失せた。その手に握られた氷嚢に、匠は自分の胸騒ぎの理由を悟る。
ベンチの先、無人の男子用トイレで小さな背中は壁に凭れ掛かった。薄暗いトイレ内を寿命を間近にした蛍光灯が照らす。外から聞こえる微かな蝉の声を呻き声が消し去る。
右肩に押し当てられた氷嚢の意味を理解する。
昨日の試合は、最初から最後まで出場していた。最後は故障中の右腕まで使った。それが一日で癒える筈も無かった。
押し殺された呻き声が、静かな空間に反響する。掛ける言葉を模索する匠を余所に、ベンチから箕輪の声がした。
「――攻撃始まるぞ、和輝!」
晴海高校のトップバッターは和輝だ。それまでの苦悶を消し去った和輝が、氷嚢をぶら下げてしれっと現れる。入り口で立ち尽くす匠との出会い頭に、困ったように笑った。
「……ンな顔してんじゃねーよ」
擦れ違い様に肩を叩く。それまで氷嚢を握っていた左手は、死人のように冷たかった。
掛ける言葉が無いのは当然だった。誰も和輝に試合に出ることを強制してはいない。和輝が勝手に望んでやっていることだ。一年前の傷害事件の折、野球を辞める選択もあったのに、続ける道を選んだのも和輝だ。誰も悪くない。全て和輝の自己責任だ。
後を追うようにベンチを出れば、箕輪が何処か苛立ったように待ち構えていた。
遅ぇよ。押し付けるようにヘルメットを渡す。和輝が笑った。
『一回裏、晴海高校の攻撃は――』
響くアナウンス。出て行った和輝の後を追うように、箕輪もバットに手を伸ばす。
『バッター一番、蜂谷君。背番号五番――』
間延びした声に肩を落としつつ、ベンチ前で声援を送る仲間に混ざる。
神経がささくれ立つ。
嫌いだ。何も出来ない自分も、何も求めない和輝も、何も解らない他人も。
(野球は楽しいか?)
楽しそうにボールを追い掛けたあの頃の和輝を、随分と見ていない気がした。
何が正解なのか。何が間違いなのか。この八方塞の暗闇の中で、棘だらけの道の途中で、歩き出せない泥濘の中で、何をすれば救われるのだろうか。匠には解らない。
「和輝先輩、何か変ですね」
声援を送り続けていた星原が、顔を上げてふと口にした。誰も答えなかった。それが自分達の首を絞めることになると、解っていたからだ。何かあったのは今日ではない。一年前の、明日だ。
バッターボックスでは和輝がただ前を見据えている。振り返る必要も無いけれど、その質の高い集中は周囲を置き去りにする。
基本的に、和輝にサインは出ない。和輝の仕事は切り込み隊長として、相手チームを撹乱し、出塁することだ。そしてそれは、ベンチにいる誰かよりも実際にバッターボックスに立って試合の空気を直に読める和輝が解っている。バントするか、打っていくのか。全て自己判断で自己責任だ。それはベンチの無責任ではない。才能がそういうスタイルを確立させた。
カツン。金属に衝突した硬球が、三塁線ギリギリに転がり落ちる。守備が滑り込むより早く、遥かに速く一塁を駆け抜けた小さな影。
「セーフ!」
喧しく騒ぎ立てる応援席。
涼しい顔して、相変わらず危なげない。打率十割もランニングホームランも夢ではなく現実に成し得る俊足は全国一だろうと匠は思う。晴海が誇る特攻隊帳は今日も揺るぎない。
二番、箕輪がバントで送り、ワンナウト・ランナー二塁。続いて藤がライトフライとなりツーアウト・ランナー三塁。スコアリングポジションに入った和輝がバッターボックスを見て不敵に笑う。匠に笑い掛けているのではない。光陵へプレッシャーを掛けているのだ。
(お前も大概、性格悪ィよ)
そういうところは、嫌いじゃねーけど。
匠もまた、不敵に笑う。光陵の投手は決して大きくは無いが、鋭い変化球と球種の多様さには中々手古摺るだろう。出会い頭を叩いた切り込み隊長はそれを読み勝ったのか、当然のように対応したのかは解らないけれど。
事前にビデオで確認して来た投手だが、実際に対峙するのと訳が違う。投手が頷き、三塁へ一度視線を送る。牽制が殆ど無意味な走者だ。光陵とて解っているだろう。
初球、外角に逃げる変化球。様子見を含めただろうその一球を受けたと同時に捕手の鋭い視線が三塁に向けられる。
ニヤリ。そんな擬音が似合う悪質な笑顔を和輝が浮かべる。役者なのか本性なのか、最早匠にも解らない。
ベンチからのバントのサインは無い。送る必要は無い。――どのみち、ボールが転がれば和輝は突っ込んで来るだろう。匠は力の無い自然体のまま、次のボールを待つ。
二球目は内に食い込む変化球だった。外角からの内角は打ち辛い分、投げ辛い。それを簡単に行えるだけ、優れた投手だ。だが、匠は和輝と同様の悪質な笑みを浮かべたままバットを振り切った。
鋭い高音。ピッチャー返し。鋭いライナーとなった打球は内野を一直線に駆け抜ける。――が。
乾いた音が、その打球の息の根を止めた。大きく飛び上がったセカンドの伸ばされた左手、グラブの中に打球が突き刺さる。そのままグラウンドに着地した瞬間、球場が沸き立った。
「アウト! チェンジ!」
匠はバットをぶら下げたまま、少し笑った。
完璧に内野を抜いたと思ったのだ。否、内野は抜いていた。――セカンドが、見浪翔平でなければ。
得点のチャンスを潰されても、ファインプレーには胸が熱くなる。表情には出さぬまま匠はベンチに戻った。
二回表。光陵学園の攻撃は四番から始まる。光陵学園最強の打者。一見、長身痩躯の爽やかな好青年だ。一方で、箕輪は彼をえげつないスラッガーと呼び、和輝は筋金入りのドSと称している。そして、そのどちらも納得の強打者だ。
昨年、光陵を抑えたのは当時のキャプテンの高槻だ。試合内容は彼にしては珍しくフォアボールを出し、エラーも多発した大荒れの試合だった。それでも振り返る選手は一様に、楽しい試合だったという。
四番、見浪翔平がバッターボックスに立つ。
待ち草臥れたぜ。
声にはしないで、口元だけで見浪が言った。和輝が苦笑する。
高校球児らしく溌剌と見浪が挨拶する。容姿こそ渋谷界隈にでもいそうな優男だが、中身は丸刈りの野球児なのだろう。匠がそう思った瞬間、見浪は目を疑う程、背筋が凍るような冷たい笑みを浮かべた。それは触れるものを皆傷付ける抜身のナイフのようだった。
威圧感というものを持つ選手はいる。それは単純に体格だけのことではない。二年、見浪翔平。包み込む空気は、天候の崩れを予測させる湿気を帯びた熱を霧散させる程に冷たい。
夏川がワインドアップする。そして、初球。
向かい来る剛速球を、まるで鏡が反射するように見浪のバットが一閃した。二遊間。夏川、匠、箕輪。誰一人反応出来なかった。そのレーザービームのような鋭い打球が内野を抜けた瞬間、和輝が叫んだ。
「センター!」
恐ろしいことに、その打球はまるで勢いを衰えさせることなく外野すら抜き放った。
センター、藤がその打球を拾い上げ、漸く送り出した時、見浪は既に二塁を蹴っていた。
ライナーと呼ぶことすら億劫に思う。弾丸のようなその打球を放ったのは長身痩躯の優男だ。
「三塁打!」
球場が沸き立つ。
爽やかにガッツポーズを決めて見せる様に黄色い声援が飛び交う。三塁に付いた和輝がくつりと喉を鳴らした。
「胡散臭ぇ」
「お互い様だろ?」
見浪が不敵に笑う。
和輝の浮かべる笑みは相手を挑発する為だけのものではない。楽しくて、嬉しくて仕方が無い。そういう子ども染みた感情が丸出しの笑みだった。
「相変わらず、楽しそうだな」
皮肉っぽく見浪が言った。和輝は口元を釣り上げる。
「楽しいよ。当たり前だろ?」
「これだけプレッシャー掛けられて、よく笑ってられんな」
お互い様だろう、と和輝が声を殺して笑う。
見浪の放つ言葉は全て相手を掻き乱す為の凶器だ。それでも一々反論したくなる程度には、和輝もまた見浪との会話に楽しさを感じている。互いを牽制し合うのは気を張るけれど、その分、遠慮する必要が無い。
「他人のプレッシャーなんて、如何だって良いんだよ」
和輝が言うと、見浪がわざとらしく口笛を吹いた。審判がじろりと睨んだが、それでも試合は滞りなく進んで行く。
「言うねぇ。お前のファンに聞かせてやりてーよ」
「俺だって、お前のファンに聞かせたいよ」
「腹黒チビ」
「性悪ガリ」
「ガリ、はお前に言われたくねーよ」
見浪が笑う。
五番、打ち上げた打球は二塁上空。捕球。アウト。
感慨も無く見浪がそれを見遣る。
「相変わらず、世間じゃ王子様じゃねーか。良い御身分だな」
「俺の知ったことかよ。兄ちゃんの影響だろ」
「羨ましい限りですな。人気者は羨ましいぜ」
「良くも悪くも、な」
自虐ネタかよ。見浪が嬉しそうに言った。
好い加減、審判の視線が厳しい。それでも見浪も和輝も声を殺して会話を止めない。それは試合に身が入っていない訳では無い。体は臨戦態勢で、視線はバッターボックスをしっかりと捉えている。
「お前、よく野球辞めなかったな」
ぽつりと、見浪が言った。其処で初めて、和輝が計算されたものでない自然な、苦笑を漏らした。
「辞めたくても、辞められなかったんだよ。野球が、好きだったから」
「アイデンティティーみてぇなもんか。まあ、辞めても辞めなくても風当たりはきつかっただろうな」
「……お前、変わってるよな」
きょとん、と。和輝は小首を傾げる。その様を横目に見浪は言葉を待った。
「如何して他人の評価なんて気にするんだ? お前自身が心から楽しんでるなら、それでいいじゃねーか」
それがまるで当たり前のことであるように、和輝が言った。一瞬、言葉を失った見浪の頭上を白球が通過する。
レフトフライ。――深い。
打球の行方を一瞥し、見浪が笑った。大きな掌が、和輝の帽子を潰すように、けれど優しく撫でた。驚いたように短く声を上げた和輝に、それまでの不遜さが嘘のような笑顔で見浪が言う。
「お前のそういうところ、嫌いじゃないぜ」
それだけ言うとくるりと踵を返し、走り出す構えを見せる。
レフト、雨宮が捕球。ワンナウト。同時に、三塁コーチャーが叫んだ。
「GO!!」
見浪が飛び出す。追い掛ける送球はショート、匠が中継する。
本塁。匠の放ったボールは蓮見のミットに飛び込んだ。審判が、ゆっくりと両手を開いた。
「セーフ!」
先取点――。
沸き上がる地区予選の決勝、甲子園への切符を掛けた最後の試合。本塁を踏んだ見浪が得意げに拳を突き上げていた。




