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16導火線


 あれは遠くて近い、辛くて悲しい思い出だ。

 夕焼けに染まった川沿いの道。水面が乱反射する金色の光と、鉄橋を通過する電車の轟音を今も鮮明に覚えている。正面に佇むその姿は平素と変わらぬ堂々としたもので、此方の焦燥や悲痛など理解出来ないと告げられているようで、酷く苦しかった。

 あの日、夕日に霞む和輝は、どんな顔をしていただろうか。匠は、思い出せなかった。

 中学三年、シニアリーグの引退と進路選択での擦れ違いから、匠は生まれて初めて和輝と決別した。喧嘩ならば星の数程した。殴り合うこともあった。それでも、会話どころか顔を合わせることすら無くなったのはあの頃が唯一だった。姿が見えなくてもわざわざ探そうとは思わなかったし、自分がいてもいなくても友達と談笑して過ごす和輝の顔を見るのが癪だったから、無意識に避けていたのだと思う。


――何で皆、和輝のこと無視するんだよ


 一人帰路を急ぐ背中に、追い縋るような声が掛かった。

 振り返った先にいたのは和輝と見間違うような、小柄な少年だった。


――皆、おかしいよ。あの引退試合のせいか?


 否定は出来なかった。

 秋に行われた全国大会。相手チームは、攻撃の要であり起点であった和輝を全打席敬遠にした。結果として橘シニアの攻撃は乱れ、守備に影響を及ぼし、敗北したのだ。それから数日後、和輝は仲間のいない晴海高校への受験を一人で決めた。

 置いて行かれたと思った。裏切られたと思った。見捨てられたと思った。あの頃は皆、本気でそう信じていた。

 ただ一人を、除いて。


――なあ、何で和輝が責められるんだよ。あいつが何か悪いことしたのかよ


 あの引退試合、唯一欠場したレギュラーがいた。同い年の小柄なこの少年は試合前日に高熱で倒れ、当日は意識が朦朧とする中、観客席で試合展開をただ見守ることしか出来なかった。

 グラウンドに立てなかった彼には、偏見無く試合が見えていたのだろう。幾ら匠が否定しても無視しても、追い縋ったあの少年が何を訴えていたのか、もう思い出せない。名前すら、





「――い、匠」



 急浮上した意識は、僅かに揺られる肩と声でより鮮明になる。

 賑わう教室を背景に、和輝が呆れたように首を傾けていた。



「いつも授業真面目に受けろって言ってる癖に、お前は居眠りかよ。良い身分だな」

「うるせーな」



 和輝の精一杯の嫌味に、匠は欠伸を噛み殺しながら答えた。

 夏休み間際のこの時期、中間考査の返却と補習の決定に教室のいたるところから悲鳴が上がる。年々偏差値の上がり続ける晴海高校だが、生徒が秀才ばかりかと言えばそうではない。所謂スポーツ特待で入学した脳みそ筋肉と呼ぶべき生徒達は、幾ら部活で己を鍛えようとも毎度のことながら赤点の羅列の阿鼻叫喚の図となるのだ。

 特待生がある程度免除されるのに比べ、一般受験した和輝は殆ど全てが赤点だ。中学……否、小学校の頃から、この馬鹿さだけは治らない。赤点どころか、学年の平均点さえ下回ったことのない匠にとっては不思議で仕方が無い。

 形ばかりの授業はテストの返却で終わりそうだ。答え合わせと採点ミスの訂正に、教壇に列を作る生徒を見ながら匠は思った。



「で、お前は?」



 ちらりと見遣れば、和輝はきょとんと眼を丸くする。匠は溜息を零した。



「赤点、免除されたか?」

「俺が? ンな訳、ねーだろ」



 からりと笑う和輝を、殴ってやりたい。堂々と見せられた答案用紙の隅に、百点満点の筈が一ケタの数字が記載されている。

 追試は確定だ。むしろ、追試と補習をしてもらえることに感謝するべきだ。この科目を最後に、全ての答案が戻って来た。

 張り倒したい程の真顔で、平然と和輝が言った。



「全教科、赤点だよ」



 だから、如何してそんなに当たり前のように言うんだ!

 思わず振り上げた拳骨は空を切った。一歩退いて和輝が悪戯っぽく笑う。



「お前、テスト前、あんなに一緒に勉強したじゃねーか!」

「解る訳ねーだろ、お前の教え方で! 今までお前と勉強して、赤点とらなかったことねーよ!」



 続け様に振り下ろした拳骨は和輝の右頬を掠めた。なまじ顔が整っているだけに、クラスの女子から悲鳴が上がる。

 教壇から教師の怒号が響いたが、和輝は忍者のような身軽さで教室中を逃げ回っていた。



「偉そうに言うな!」



 此方の苛立ちなど関係無いとばかりに笑う和輝に、匠が叫ぶ。

 その姿が、一瞬、二重に見えた。まるで和輝が二人いるような奇妙な視界のブレに匠は思わず額を押さえる。片手を机に突いて虚空を見詰める様子に、流石に心配になったらしい和輝が恐る恐る近付いた。



「おいおい、大丈夫か、匠」



 純粋な労りを向ける幼馴染に、匠の目が光った。



「――だから! お前のせいだろーがあああああ!」





16.導火線




「ああ、そりゃー多分、皐月のことだよ」



 頭頂のたんこぶを摩りながら、和輝が言った。終業式を間近に控えた学校生活では、自然と部活動の時間が長くなる。

 最近ではリハビリよりも練習に参加する時間の方が増えて来た和輝は、中身の無いスカスカの鞄を肩に担ぎながら軽快な足取りで進んで行く。



「忘れちったの? 薄情な奴だなー、お前」



 お前に言われたくねーよ、と匠は胸の内で呟く。どんな嫌味も、この単純な、例えるならトイレットペーパーの芯のような幼馴染には響かない。一年前の決別を機に、和輝は青樹や赤嶺の名前どころか存在すら記憶から抹消していたのだ。そんな男に何を言われても響かないのはお互い様だろう。

 匠の心中など察せる筈も無く、和輝は手の中のキーホルダーを弄びながら言った。



「蝶名林、皐月。すげー久々に呼んだなぁ」



 キーホルダーは、家の鍵に繋がっている。和輝は汚れた訳の解らない異国の人形のような、不気味なストラップを見詰めて言った。彼の姉が冗談半分に買って来た土産物を、理由が無いからと外さずにもう何年もぶら下げている。

 蝶名林、皐月。口の中で繰り返し、そんな名前だったなと納得した。



「お前、皐月と仲良くなかったもんなぁ」



 しみじみと、思い出すように言って頷く。

 匠は、周囲の人間が思う程に温厚ではないし、好き嫌いも多い。その短気さで中学時代には赤嶺と何度と無く衝突して、殴り合いまでしたことがある。だから、和輝は匠が自分の保護者扱いされていることには不満を覚えるのだ。直情的な幼馴染の為に、どれ程苦心して来たのかなんて誰も知らない。

 けれど、匠のその性格は、性善説を地で行こうとする幼馴染のせいでもあると、和輝だけが気付いていない。

 匠は舌打ちをした。



「俺のせいじゃねーよ。あいつが、俺を嫌いなんだ」

「そうか?」



 能天気な幼馴染に、匠は辟易とした。

 部室棟が迫る。既に着替えを終えた後輩がいそいそと準備に動き出しているのが見え、和輝は鞄を背負い直すと駆け出した。

 バットケースを抱える蓮見の背中に、和輝が体当たりする。体制を崩して落とし掛けたバットを、慌てて隣の醍醐が掴んだ。怒鳴り付ける醍醐に和輝がへらへらと笑う姿が見え、匠は呆れて肩を落とした。既に先輩の威厳など零だ。

 遅れて出て来た星原は、匠の姿を見付けると不思議そうに首を傾げた。



「あれ、匠先輩。何してるんですか?」

「……何でもねぇよ。――おい、バ和輝!」



 性懲り無く後輩にちょっかい出す和輝を、苛立ちながら匠が呼んだ。それでも気付かない幼馴染にがっくりと俯くと、星原が後ろで擽ったそうに笑った。



「本当に、匠先輩は和輝先輩が好きなんですね」

「はあ? 気持ち悪ィこと言ってんじゃねーよ」



 怪訝そうに目を細める匠に、星原は益々笑みを深める。

 和輝に懐いてるのは、お前だろ。匠はそう思う。普段は人を食ったような星原が、唯一和輝の前では飼い犬のように後を追っていた。尤も、腹黒い星原にとって、馬鹿正直で御人好しの和輝はからかい甲斐があるのだろう。

 笑いを噛み殺しながら、星原が言った。



「そんなんだから、皐月先輩に目の敵にされるんですよ」



 聞き逃せない単語に匠が動きを止める。目聡く気付いた星原が、わざとらしくまるで今思い出したかのように言った。



「匠先輩、皐月先輩と仲悪かったですもんね」



 デジャヴだ。数分前と同じやり取りをする程、暇ではない。適当にあしらって部室に向おうとして、足を止めた。

 あ。

 ぽつりと、星原らしかぬ間抜けな声が耳に届いた。

 賑わう生徒の中で、場違いな程に浮いた存在。周囲の生徒が好奇の目を向けるのも構わず、ポケットに手を突っ込んだまま薄ら笑いを浮かべている。晴海高校の制服とは異なる、黒いスラックス。第二ボタンまで開けられた半袖シャツ。肩に担ぐ白いスポーツバッグ。

 小柄で、童顔で、笑みを絶やさない。まるで幼馴染の代名詞のような特徴を持つ少年を、匠は知っている。


 ……出来れば、二度と会いたくなかったが。



「何で、こんなとこにいるんだよ」



 匠の声に、その少年の声が重なった。思うことは同じらしい。互いに抱く嫌悪も変わらないようで何よりだ。

 星原が、その名を呼んだ。



「皐月、先輩……」



 蝶名林、皐月。いけ好かない元チームメイト。

 皐月は星原を見ると、にこりと微笑んだ。



「久しぶりだなぁ。元気だったか、千明?」

「先輩こそ! それより、何で此処に?」

「そりゃ、決まってるだろー?」



 自分を無視して続けられる会話に、匠は一切口を挟まない。興味すら無い。

 ただ、皐月は言った。



「和輝に会いに来たんだよ」



 そうだろうな、と匠は思う。それ以外に、彼が此処にいる理由が思い当たらない。

 きょろきょろと周囲に目を向け、皐月の視線は匠に向いた。



「なあ、和輝、何処?」



 その瞬間、ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。

 感情の無い冷たい視線。言葉を失った匠に、一歩、皐月が歩み寄る。――その時だ。



「――あれ、皐月じゃん」



 途端に氷解した空気に、匠は忘れていた呼吸を思い出す。肺が酸素に満たされるにつれて、冷や汗が滴り落ちた。

 後輩にじゃれ付いていた筈の和輝が、ことり、と首を傾げて立っていた。その姿を認めた瞬間、皐月は匠の横を風のように通り抜けて行った。



「和輝!」



 今にも跳び付きそうな皐月を掌で制しながら、和輝が笑う。

 それまでの刺すような威圧感も、凍り付くような冷たさも存在しない。



「会いたかったぜ、和輝! 中学以来だよな!」

「そうだなあ。元気そうで何よりだ」



 和気藹々と会話を弾ませる二人に、匠は舌打ちを漏らす。ふと、和輝が言った。



「挨拶に来たんだろ?」



 皐月が、意味深に笑った。

 意味を測り兼ねた匠が目を遣ると、呆れたように和輝が言った。



「準決勝の相手、知らねぇの?」

「マジかよ。相手も知らないで、よく試合出来るな。馬鹿じゃねーの」



 明らかに多い一言は聞き流し、匠は和輝に言葉の先を促す。どんなに耳を欹てたところで、皐月が向けるのは匠への敵意と悪意だけだ。

 和輝がやれやれ、と言った。



「武蔵商業。去年の夏、神奈川大会の優勝校だ」

「それくらい、知ってるよ。そうじゃなくて――」

「何、お前、本当に馬鹿なの?」



 皐月が呆れ切ったように言った。演技がかった仕草にも苛立ちを覚えるけれど、匠はそれでも聞き流す。

 二人の不穏な空気など気にしていないのか気付いていないのか、和輝は変わらぬ調子で言った。



「皐月は武蔵商業の選手だよ」



 ピタリ、と。匠は二度目となる無呼吸状態に陥る。思考停止から回復までの時間が酷く長く感じたけれど、それは和輝の普段と変化無い穏やかな笑みに促された。



「わざわざ、挨拶に来るなんて皐月らしいよな。昔から、礼儀正しいっていうか」



 隣で、星原がいやいやと手を振る。百人いれば百人が否定するだろう。その百人に、和輝が含まれていなければ。

 星原も大概和輝信者だが、皐月は少し違う。



「試合、楽しみにしてるよ」



 小柄で童顔で、笑みを絶やさない。人は和輝と皐月が似ていると言う。けれど匠は、そう思わない。この二人は真逆だ。

 口角を釣り上げた皐月に、寒気を覚える。



「ああ。匠、お前を許さねーよ」



 呼吸が止まりそうな緊張感が走る。今度は流石に和輝も驚いたように目を丸めた。

 意味が解らない。大きな目で穴が空く程、皐月を見詰める。和輝にへらりと笑い掛け、皐月が言った。



「二年前、和輝を裏切ったお前を、許さない。殺してやりたい」

「おい、皐月、何言ってんだ」

「和輝は黙っててくれ。お前がこいつ等を許しても、俺は許せない」



 今にも噛み付きそうな――否、ナイフでも取り出しそうな殺気に匠が後ずさる。反射的に和輝が庇うように、間に滑り込んだ。



「物騒なこと言うんじゃねーよ。友達だろ」

「友達なんかじゃねーよ。チームメイトだったことも、無かったことにしたいくらいだぜ」

「何で、そんなこと言うんだよ……」



 何処か泣き出しそうに、絞り出すように和輝が言った。心底、困ったといった調子で皐月を見据える。

 仲間だろ。繰り返すように、和輝が言った。それを誰に言い聞かせているのか、匠には解らなかった。



「引退試合。全部の打席を敬遠されて、仲間の援護も無く敗北を味わった和輝が、どんな気持ちだったか解るか? 一度だってお前等を責めたりしなかったのに、お前等は和輝を否定した!」

「――それは」



 堪らなくなって言い返そうとした和輝を遮って、皐月は更に言った。



「てめぇの無能さを棚に上げて、責任ばっかり押し付けて、和輝を一人きりにしたお前等を、俺は絶対に許さない!」



 ち、と舌打ちが聞こえた。

 それは酷く自然な仕草で、大きく一歩間合いを詰める。広げられた掌が、皐月の顔へ伸びる。



「うるせーよ」



 ぐにゅ、と。張り詰めた緊張感に見合わぬ間抜けな音で、和輝は皐月の頬を抓った。

 茫然と目を丸くする皐月に、和輝は眉間に深い皺を刻みながら、変声期を抜け切れない中の精一杯の低い声で言った。



「お前に怒ってもらう謂れもねーよ。気に食わなかったら自分で怒るし、匠相手なら幾らでもぶん殴ってる」



 ぐにぐにと頬を抓りながら和輝は目を細めた。



「終わったことをねちねちと、しつけーんだよ。過去が如何あれ、現在に満足出来るなら十分だろ」



 文句があるか。殆ど反論を許さないような強い口調で、和輝が言う。

 そういえば、中学試合の和輝は時々、こういうことをする奴だったな。ぼんやりと匠は思い出す。これで相手をビビらせているつもりなんだろうかと呆れてしまうけれど。

 言葉を失っていた皐月は、肩を震わせながら俯いた。くつくつと喉を鳴らしたかと思うと、顔を上げて笑い出した。

 グラウンド中にだって響きそうな大笑いに、和輝が瞠目する。そこで漸く抓っていた手を外した。



「相変わらず、和輝といると退屈しねーや」



 軽快な足取りで、皐月はくるりと踵を返す。元来た道を辿ろうとする姿に、呆気に取られるが、皐月は半身を翻し微笑んだ。



「試合、楽しみにしてる」



 言い忘れたというようにそれだけ言うと、そのまま消えて行った。

 嵐のような騒がしさが夢だと言われれば信じたい。けれど、それを察したように和輝が匠の頬を抓っていた。



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