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11.理想

 その少年の姿を認めた途端、周囲の人間の態度ががらりと変わった。

 それまでその他大勢の内の一つでしかなかった自分達が、まるで異質な存在であるかのように白い眼で見られる。先輩は皆、慣れたように平然と振る舞っているけれど、その異常さに慣れない醍醐はそわそわと周囲に目配せする。

 許可無く携帯のカメラを向ける者もいる。ひそひそと囁き合う者もいる。媚びるように擦り寄る者もいる。けれど、共通しているのは、彼等は誰一人、その少年がただ一人の人間であるということを理解していないということだった。

 堪らなくなって自然と足取りが重くなり、列の後尾に回れば周囲の囁き合いが嫌でも耳に入った。



「あいつだろ、蜂谷和輝」

「蜂谷祐輝の弟?」

「傷害事件起こした奴だよ」

「マネージャー自殺させたんだって?」



 ざわめく人間達の身勝手な声が耳に届く度に、言いようのない怒りを覚える。

 彼が何をしたって言うんだ。如何して何も知らない赤の他人にまで悪く言われなきゃならないんだ。何も知らない癖に。何も解らない癖に。ふざけるな。

 胸の内に沸々と溜まる苛立ちは既に爆発寸前だ。これ以上の問題ごとを起こす訳には行かないと頭では解っていても、納得出来ない。

 醍醐は昨年の夏にどんな事件が起こったのか、殆ど解らない。だが、仮にも先輩である少年が身勝手な噂によって貶められるのは我慢ならなかった。せめて、何か言ってやろうと振り向いた醍醐の肩を、匠が掴んだ。



「……放って置け」



 匠に表情は、無い。人形のように強張っている。醍醐は奥歯を噛み締め、苛立ちを呑み込みながらまた歩き出した。



「ムカつかないんですか」

「もう慣れた。……事件直後はもっと、酷かったんだぜ」



 これでも落ち着いた方なのだと、匠は苦笑した。

 たった16歳の少年に群がったマスコミは、まるで人権すら存在していないかのように、執拗に追い立てた。茶の間を騒がせたそれが今では人々の囁き合いだけで済んでいるのだから有難い話だ。堂々と背筋を伸ばして歩く和輝の後姿を見遣り、醍醐は肩を落とした。

 会場は騒がしかった。一千近い人数を収容出来る市民ホールの多くは、一目で野球部と解る丸刈りの少年達に埋められている。点在するのはマネージャーと顧問、監督らしき大人だ。晴海高校も同様にマネージャーと、名前だけの顧問を引き連れていた。

 列の最後尾で、生徒のことなどまるで興味も無いように大欠伸をする三十路手前の色黒の男が、寝起きの熊のようにのそのそと歩いている。何かと問題になりがちな野球部顧問を押し付けられたという社会科教諭、轟政宗だった。基本的には無気力で放任主義の為、野球部に干渉することは無い。こうした正式な場では義務だからと現れるが、面倒臭いという態度を隠しもしない。

 全員が紅色のビロードの椅子に座れば、間も無く場内の灯りは落ちた。華々しい吹奏楽部の演奏の中するすると弾幕は上がり、全国高等学校野球選手権神奈川大会、抽選会は始まった。

 眩い程のスポットライトに照らされた檀上には大きなトーナメント表が張り出されている。神奈川大会には186校が参加するが、決勝の甲子園への切符を掴むのはたったの一校だけだ。例外は無い。

 膨大なトーナメント表を前に息を呑む醍醐だが、それでも晴海高校は昨年、準決勝を勝ち抜き、決勝まで駒を進めていたのだ。事件が起こらなければ、甲子園も夢では無かった、筈だった。

 見えていた栄光が、目の前で泡のように消えてしまうというのは、どれ程の絶望なのだろう。醍醐には解らない。黙って開会の言葉を綴る男を見遣る先輩達は酷く澄んだ目をしていた。



『まずはAシードの抽選を行います』



 壇上に上がって行く二人の少年を、場内の誰もが見詰める。

 昨年の夏大会を逃し、秋と春を勝ち抜いた私立光陵学園。甲子園大会へ出場し、秋と春に準優勝を果たした武蔵商業。

 舞台上の二人が順に籤を引く。一番を引き当てたのは、光陵学園だ。ざわめく観客と、退場する光陵キャプテンを取り囲むマスコミ陣。



(でも、俺達の先輩は、その光陵に勝ったんだぜ!)



 胸の内でほくそ笑み、それでも続いて行く抽選会を静かに見守った。

 やがて、シードが全て埋まるかという最後に、晴海高校は呼ばれた。長い間スポットライトに照らされた為か、緊張の為かは解らないけれど、司会進行を熟す男は流れる汗を拭いながら呼んでいる。場内のざわめきが大きくなった。

 色々と話題に事欠かないチームだが、腐っても夏大会は準優勝だ。呼ばれるのは当然だろう。



「――じゃあ、行ってきます」



 音も無く立ち上がったのは、蜂谷和輝だった。

 通常、籤を引くのはキャプテンだ。周囲がざわめく。颯爽と歩き出した和輝に痛い程の視線が突き刺さっているが、気にする素振りも見せずに歩いて行く様は不本意ながら、絵になると醍醐は思った。

 座ったままの藤を見遣ると、隣の蓮見が耳打ちした。



「晴海は去年も、和輝先輩が籤引いてるよ」

「何で!?」



 去年ならば、一年だろう。最後の夏になる三年がいたにも関わらず、わざわざ一年に籤を引かせる意図は何だろう。

 困惑する醍醐に、藤がくつりと悪戯っぽく笑いながら言った。



「去年のキャプテンはすげー籤運悪い人だったから、和輝に任せたんだよ」

「……でも、一回戦で前回の優勝校と当たってますよね?」


 それでは意味が無いだろう。果たして彼に籤を引かせた意味はあったのだろうか。

 藤は可笑しそうに言った。



「狙って引いたみたいだぜ。……強いチームとやりたがってたからな」



 じゃあ、また今年も強豪チームと当たってしまう。と思いつつも今年はシードだ。壇上に上がった和輝は無表情だった。

 此処に仲間がいることも知らず、勝手な噂話を繰り返す周囲の人間には苛立つ。けれど、張本人が堂々としているのだから、開き直ってしまった方がいい。



『126番――。晴海高校、126番です』



 高らかに宣告された結果には見向きもせず、颯爽と壇上を下りていく少年に干渉出来るものは、誰もいない。

 涼やかに投げられた流し目に誰もが沈黙する。彼を待ち伏せていた筈のマスコミは動けず終いだった。

 トーナメント表を確認する。同じ山には目を見張るような強敵は存在しない。本当に彼が狙った場所を引けるのかは解らないけれど、籤引きとしては有難い位置ではあった。

 話し掛けることを躊躇してしまう程に精練された動作に、時が止まる。元来の整った顔立ちがそれに拍車を掛け、近寄り難い空気を醸し出している。和輝は、席に戻った。



「っあー! 緊張した!」



 途端に弾け飛んだ緊張感に、がくりと肩を落とす。何時もの気さくで何処か子どもっぽい、蜂谷和輝がいた。

 この人、二重人格なんじゃねーの。とんでもない猫かぶりだ。

 醍醐が呆れていると、和輝の頭を藤ががしがしと撫でた。



「よくやった!」

「ちょ、藤先輩、痛い!」



 先程までの張り詰めた空気が崩壊し、すっかり和やかな雰囲気になった晴海高校に周囲がどよめき沈黙する。

 醍醐が出会った頃に見せた凍り付くような冷たい空気も、相手を射殺すような鋭い視線も其処には無い。穏やかで、明るくで、馬鹿馬鹿しい子どものような、何処にでもいる極普通の少年がいるだけだ。

 その変化の訳を、匠だけが知っている。

 もう身を守る棘も毒も必要無くなったのだ。在りのままの自分で、堂々と生きていくことを決めたのだ。



――強くなろう



 そう言った親友の言葉を、匠は今も忘れていない。





11.理想




「――よお」



 抽選会後の帰り道。何かと注目を集めて来た晴海高校は周囲の視線も無視して堂々と会場を後にした。追い縋る報道陣を軽く躱していく様は手馴れていた。会場から暫く歩き出した先、起伏に富んだ街道を列になって辿る途中。最後尾を歩く和輝は、突然掛けられた声に振り返った。

 見覚えのある長身痩躯の、糸のような細い目をした少年。また、背が伸びたな、と和輝は少しだけ驚く。



「久しぶり、見浪」



 立ち止まった和輝に、列の後方を歩いていた匠が振り返る。



「誰?」

「見浪翔平。光陵学園の四番」

「へぇ」



 大して興味も無さそうに匠が言った。見浪は薄い笑みを顔面に貼り付けたまま、ポケットに手を突っ込んで立っている。

 光陵学園は神奈川大会では優勝候補の一角だ。そのチームのスラッガ―と対峙しても気圧されないのは、踏んで来た場数云々の前に見浪のことをよく知っている為だ。

 和輝は先を行く仲間を一瞥してから、見浪に向き直る。



「こんなところで、何してんだよ」

「挨拶に決まってんだろ、チビ」



 悪態吐く見浪に、和輝は笑った。

 昨年の準決勝で対峙した見浪翔平は、こんな男ではなかった。相手の弱みを握って踏み躙り、勝利の為には手段を択ばないような男だった。彼のやり方には憤りを覚えたし、実際に折れそうにもなった。それでも、晴海高校は勝利した。

 その勝利の先に起きた事件によってトーナメントから消えた晴海高校を、彼等はどう見ているのだろう。全力で戦った結果ならば胸を張れるけれど、試合にも出られず、彼等の夢も思いも背負って行けなかった自分を、彼等は恨んでいるだろうか。

 次の言葉を見付けられない和輝に、見浪は笑った。



「大会、楽しみにしてるからな。俺達と当たるまで、絶対に負けるなよ」



 念を押すように言って、見浪はまた、笑う。

 作り笑いを浮かべるのは、得意だった。少なくとも、和輝はそう認識している。けれど、見浪のその笑顔は偽物とは思えずに瞠目した。



「……お前、恨んでねーのかよ」

「見縊るなよ。勝者を恨むなんて、雑魚のすることだろ」

「そうじゃなくて、」



 見浪はそれまでの笑みを消し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。



「お前が何か恨まれるようなこと、したのかよ」



 同じような言葉を、以前にも聞いたと和輝は思った。

 事件後に巻き込んでしまった仲間へ謝罪の言葉を口にした時、夏川にも言われた。

 それでも、届いていた筈の夢を目の前で奪われてしまった彼等に、謝罪以外の何が必要なのか和輝には解らなかったのだ。あの事件が起こらなければ出場辞退なんてことは無かった。例え誰かの夢を砕いたとしても、その思いを背負ってやれた。だが、現実は傷跡を残して全て壊しただけだった。

 黙り込んだ和輝に、見浪は言った。



「勝者が負い目を感じる必要は無いんだろ。あの抽選会の時みてぇに、胸張ってろ」



 それが、嘗て高槻が見浪に言った言葉だと気付いた時、償いの言葉を探し俯いた和輝の顔を上げさせた。

 一陣の風が胸に吹き込む。

 高槻は、目覚めないけれど。もう二度と目覚めないけれど。

 彼の意思が其処此処に残っている。

 舌打ちを一つして、面倒臭そうに後頭部を掻きながら見浪は言った。



「こんなこと言いに来た訳じゃねーんだよ」

「知ってる。宣戦布告しに来たんだろ?」



 既に顔を上げた和輝が、真っ直ぐに見浪を見ている。

 晴海高校と光陵学園は逆山だ。当たるとすればそれは地区大会が決する時。



「決勝戦で、待ってる」



 互いに拳をぶつけ、笑った。

 じゃあな。短く言った見浪は背中を向けた。軽い足取りで坂を下って行く背中を暫く見届け、和輝は振り返った。先を行く仲間の姿は既に見えないけれど、匠は二人のやり取りを見ながら其処に立っていた。

 待っていなくたっていいのにな。和輝はそう思いながら笑うが、逆の立場でも待っていただろう。

 匠は何処か嬉しそうに言った。



「競う相手がいっぱいいて、いいな」



 こいつには強くなろうと思う理由が無数にある。それは裏を返せば義務でもあるけれど、強くなりたいと願う和輝にはいい傾向だ。

 誰かの為ではなく、自分の為に強くなる理由がある。尤も、普通は理由なんて必要ないのだけど。

 匠は大きく背伸びをし、先に駅に向かった仲間を早足に追い掛ける。散り終えた桜が青々と葉を茂らせ、太陽の光を透かしている。傍を通り抜ける車のクラクションも、通行人の談笑も、全てが風の中に溶けて行く。



――夏が、来た。

 あの事件から、一年が経とうとしている。



 早く行こうぜ、と声を掛けようと振り返れば、すぐ横を弾丸のように和輝が駆け抜けて行った。

 強い日差しの下、動き難い制服で勢いよく坂道を駆けて行く和輝の口元が微かに弧を描いていた。



「競争だ!」



 走り去った和輝が言った。



「ずりぃ!」



 負けじと匠も追い掛ける。通行人が珍しそうに二人を見遣るけれど、その足は止まることなくアスファルトを蹴っている。

 前方を走る和輝に、純粋な走力では適わない。そもそも、和輝より速い人間を見たことがない。それでも手加減無しで、全力疾走する和輝は匠を突き放し掛けているのに振り返りもしない。

 お前も競う相手の一人なんだぜ?

 そう言っているようで、匠は頬が緩むのを押さえられなかった。和輝との約束が、胸の中に、在る。



――強くなろう。今度は一緒に



 駅に到着した二人が汗だくで、息を切らせているのを仲間は呆れたように見ていた。

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