離さないと誓ったのに
「嘘吐き」
そう、ずっと昔のハートブレイク――と言えるのかは分からないが、中二から高校になるまでの間、付き合い、高校一年の梅雨を前に俺を振った――相手が、ごくごく普通の日常会話のように言った。
あれから、もう十六年。中学二年のニキビを気にしていた、おでこ全開ショートカットだった委員長って感じの少女の面影はもうそこにはない。歳相応に、落ち着いたスーツ姿の女性が俺の目には映っている。
はずなのに、どこか、懐かしさを感じた。
まあ、俺だって彼女と同じだけの歳をくったんだ。
別々の道を歩んできたとしても、その進んだ距離は同じようなものだったんだと思う。
告白した、中二の冬、彼女の誕生日。OKをもらえた喜び、そして――。
離さないと誓ったのに、道はたった一年少々で別の場所へと俺達を運んでいた。
「心外だ」
と、純真だったと自己申告だけはしておく中学生の、十六年後の俺が応じる。
「自分に正直だから、恋愛を選ばなかったんだ」
そう、今の――三十を過ぎた今だから、言い切ることが出来た。それなりに成功を収め、それなりに挫折も味わい、この不景気のご時勢にイーブン程度の人生をなんとか歩めている。……そんな経験を得ることが出来たのは、この、どこか閉塞的な田舎の町を出たからでもある。
――嘘吐き、と、もう一度だけ彼女は呟いた。
小学校から中学校への変化は、かなり大きなものだった……様な気がする。細部はもうおぼろげな記憶だが、受験とか、テスト結果とかの意味が小学校から大きく変わった。ただの元気でお調子者が尊ばれる環境から、学力と品行という新たな評価基準も入り、生徒間の力関係も変化した、ような気がする。
俺の場合は、その変化を、どちらかといえば心地よく受け止めていたのを覚えている。
例えば、運動会で活躍する類の連中は、どこででも大声で騒いで廊下をドタバタと駆け回る落ち着きの無い連中と表裏一体であったし、ただ無心にボールを追っていたサッカーにも、ポジションと言う概念が新たに加わり、ただの体力自慢はレギュラーから外れていった。
うん、多分、俺自身は、どちらかといえば、小賢しい系の人間だったかもしれないけれど、文化祭や委員会など、そうした教師とクラスメイトの前で仮面を被り分けられる人間は、それなりに役に立っていたという自負はある。
「アンタってずるいよね」
同じ陸上部で、三年が引退した中二の秋に、そう俺に向かって喧嘩を吹っかけてきたのが、この女――宗像 理恵だった。
「どこが」
と、とぼけて見せれば「そういう部分が」と、返事が返ってくる。
阿吽の呼吸ってヤツかな。
俺は、周囲をだまくらかして、自分に都合の良いように生きている自覚はあったが、それを周囲に悟られるとは思っていなかった。この田舎を抜け出すまでは、道化に徹すると決めていたし。
頭のイイヤツ。
それが、いかにも委員長って感じで、融通がきかなそうな外見の宗像に対する第一印象だった。
三年が抜けた陸上部の部長のお鉢は、クラスも専門も――俺は短距離だけど、宗像はフィールドの高飛びで――あまり面識が無かった宗像に押し付けた。ただ、その反撃として副部長なんて面倒な役職が俺に付いた。
「いいか? 今時、正義の味方なんて流行らない。努力が美徳とされたのはひと世代前だ。無難で慎ましやかに、ライバルの隙をついて一撃必殺。それが、今風の生き方だと思う」
そう嘯く俺を、宗像はいつも物理的に攻撃していた。高飛びの柔軟性のあるバーなんかで。
「実力があるなら、正々堂勝負しろ」
宗像の言い分も解るには解るけど、どうも、なんだか非効率で――事実、宗像も空回ったり、要らない注意による反感を買ったりもしていて、どちらかといえば、不器用な学生生活を送っていた――俺は、宗像の方がどうにも危なっかしく感じていた。
なんとなく、側で見ていてやらなくちゃいけないな、なんて、そんな感覚。
そうそう、宗像に告白したのも、半分は冗談だったような気がする。
クリスマス前に恋人が欲しいなっていう気分の時。三年が抜け、大会も新年度まで無い陸上部で、冬に練習に来ているのが俺と宗像の二人だけで、そして、練習中に宗像から今日が自分の誕生日だってあかされて――。
「悪いな、今知った。プレゼントできるのは、せいぜい誠意と俺自身ぐらいだ」
「なら、それを寄越せ」
即答した宗像を見詰める。
どこか、拗ねたような顔で視線を逸らされた。
「どういう意味だ?」
「だから……そういう意味」
照れ隠しの怒っている顔に、初めて宗像が可愛いと思った。
宗像の両手を掴み、なにかを受け取るように掌を上に向けさせる。
「なに?」
「差し上げます」
「ぐ。……え? ほんとにいいの?」
どう聞き違えたのか、少しだけ不貞腐れた顔をした宗像だったけど、一拍後にはどこか疑う視線を向けられてしまった。日頃の行い? まあ、からかい過ぎてた自覚はある。
今になって思うと、それも愛情表現だったんだけど……な。
「俺も……」
「ん?」
「話が合うって思えたの、お前だけなんだ」
らしくもない恥ずかしいことを言ってしまった気がする。が、宗像の顔の朱は、俺以上だった。
「うん。一応、ありがとう」
「一応なのか」
「うん……行動で示してくれるまでは」
ふん、と、鼻で笑う。宗像は、意外と素直じゃないらしい。
それでも、それでいいと、その時は思っていた。
こんな田舎を二人で出て、もっと広い場所で自由に振舞えるようになるまでは、それでいいと。
いつか来るその日まで、離さないと強気な笑顔に誓った。
恋人になってからも、俺達は特に大きく変化しなかった。いつも通り、適度にふざけあい、適度に真面目に部活でも勉強でも結果を出して――。
俺だけが、すこし遠い高校の進学科に受かった。
宗像は、近くのそれなりに大きくて無難な高校の普通科に推薦で進学していた。両親からの強い勧めで。
反発して、同じ高校に来て欲しかった……という気持ちは口にしなかった。高校なら、まだ大丈夫。宗像は、頭がいい。同じ場所はまだ目指せる。所詮高校の自由なんて大学と比べれば十分の一以下だ。
そう思うことで寂しさを紛らわせていた五月の終わりだった。
同じ高校の人を好きになった、と、宗像に言われ「そうか。じゃあな」の一言で関係を終わらせたのは。
後悔しなかったわけじゃない。
でも、どちらかといえば、これでいいと思っていたような気がする。ショックは、薄かった。
裏切ったのは向こうで、どの道、ついてこれない程度なら、ここに置いていくしかない。自分の為に言ったその言葉が偽らざる本心だったのかも。
別れてしまえば、会う理由も電話する理由も、メールする意味も無い。盆で実家に顔を出した今日、偶然会うまでは記憶からも消えていた。
「爪を隠していたんだよね。アンタは」
と、三十歳の理恵は少し悲しそうに言った。
「無難に、無理せず。なんて言いながら、ちゃっかり進学校に進んで、そのまま関東の大学――むこうの企業へと抜け出したんだから」
あの頃の理恵も、そこまで気付いていたんだと思っていたのは、どうやら俺の思い込みだったらしい。
「羨ましいのか?」
離さないと誓ったのは、この田舎で理恵だけが俺と同じものを見れていたからだ。今もそれが変わらないなら――。
「無理だよ。無難に、無理せず。努力は時代遅れ。それを否定しつつも選んだのは、私の方だもん」
理恵は、左手の薬指の指輪を見せ、達観したような顔で呟く。
そうか、と、俺は答える。
それ以上、もう、俺に言うべき言葉はなかった。
離さないと誓ったのは、嘘じゃなかったのに、俺達は流れていく時間の中で自ら手を離していたんだから……。