葛城楓2.
「ありがとうございました」
カランという音を鳴らして店から出ていくお客さんの背中に、楓は頭を下げた。そしてそのお客さんが飲んだコーヒーカップをカウンターから持ち上げる。
「お疲れ様」
カウンターの内側からマスターが労いの言葉を掛けてくれた。バイトが始まって約一時間経つが、その間ずっとこの老主人は楓を一人にすることなく表に立ってくれていた。それは、先ほどのお客さん曰く、「明日は槍が降る」くらいのことらしい。
「葛城さんは本当に覚えが早いですね。二日目でほとんどやるべきことができています」
「ありがとうございます」
マスターからの賛辞で、楓の頬は少し赤くなる。昨日、峻に褒められた時も嬉しかったが、店の主人から改めて言われると、嬉しさも増すというものだった。
「これなら安心ですね。昼間の仕事も任せられる」
マスターはにっこり微笑みながらコーヒーカップを差し出した。その中に注がれたコーヒーからはとてもいい匂いがしている。
「手に持っているカップを洗ったら、これを飲んでゆっくりしてください。次のお客様が来るまでは休んでいても構いませんよ」
「あ、ありがとうございます」
「どうぞ。それと申し訳ないですが、少しの間私は奥にいます」
「分かりました」
楓がそう返事をすると、マスターは、お客様が来られたら呼んでくださいと言い残してカウンターの奥の部屋へと入っていった。
楓は手に持ったコーヒーカップを手早く洗うと、カウンター席に移動してマスターの入れてくれたコーヒーを飲んだ。
「ふぅ」
角砂糖一つ、ミルクを多めに、それが楓のコーヒーの飲み方だ。楓はコーヒーの香りを堪能しつつ、正面の棚を見上げる。棚にはところ狭しと洋酒のビンが並べてある。その多くは琥珀色をしていて綺麗だった。その一つひとつラベルが違うのだが、楓には具体的にどういう違いがあるのか分からなかった。
(ビールとチューハイくらいちがうのかな?)
昔、父と母に唇を湿らす程度に飲ませてもらった時の記憶を思い出す。楓としては甘いチューハイの方が好みだった。ビールは苦いということしか覚えていない。
(後で先輩に聞いてみようかな)
そう思ってはみたものの、先輩も明日から夜の部に入るということを思い出してあきらめた。
またコーヒーを一口飲む。飲みながら――床の掃き掃除をしようかな。と次の行動を思案した時だった。
カランと音がして扉が開いた。
「あ、いらっしゃいま――」
来客を歓迎しようとした楓だったが、その言葉は途切れてしまう。入店してきた女性があまりにも美しかったからだ。
スラリとしたスタイルを長い足が一層際立たせる。整った面立ち、流れるような黒髪、どれをとってもまったく非の打ちどころがない。印象だけで職業を当てろと言われれば、間違いなく芸能人かモデルだろう。
そんな同性の楓から見ても魅力満天なその女性は、楓の姿を見て少し驚いた表情を見せた。そしてキョロキョロと店内を見渡す。なにか探し物かなと思ったが、このお世辞にも広くない店内でずっと仕事をしていたのだからなにかあれば気づくはずだ。
「あ、あの……」
扉の前に立ち一向に座ろうとしない女性に楓は声をかけた。女性が楓の方へと視線を向ける。黒い瞳に見つめられ、楓は内心ドキドキしてしまう。
「こんにちは」
「……はい?」
その女性の第一声が楓にとっては予想外のものだったため、適切な返しができない。数秒かかって挨拶をされたことに気づいて、楓は慌てて挨拶を返した。
「あ、こ、こんにちは」
慌てる楓の様子を見て、女性はくすくすと笑った。綺麗な女性は笑い方も上品だなと楓は他人事のようなことを思った。
「こんにちは。あの聞いてもいい?」
「は、はい」
「あなたはここのバイトさん?」
「そうですけど……」
「そう、いつから?」
「一昨日からです……えっとあの」
質問の意図が読み取れず、楓は女性を訝しげに見た。その視線に気づいて女性は微笑む。
「ごめんね。いきなり来て変な質問して。よく考えたらすごく怪しいやつね、私」
「えっと……」
「ごめんなさい。あの、ここに峻――桐生君が働いてたとはずなんだけど……もしかして辞めたとか?」
女性は少し深刻そうな表情で聞いてきた。ただその内容自体は、今までで一番答えやすいものだった。そして同時にこの女性がさっき店内に視線を走らせていた理由も分かった。
「いえ、先輩は用事で遅れています。……先輩のお知り合いの方ですか?」
そう聞いてから、今の質問は先に聞いておくべきだったかもと少し後悔した。
「センパイねー」
女性は楓の瞳を覗き込みながらそう呟いた。それがなぜか少し癪に障った。むっとして楓は言う。
「そうです。一昨日から先輩にいろいろと教えてもらってます。――コップの拭き方とか、床の吐き方とか」
「そうなんだ。あいつ変に真面目だから気をつけてね」
自分なりの言い方で峻との関係を表してみたはずだったが、それをサラリと流される。
「でも、あいつが喋ってる時は怒ってあげてね。夢中になると手が止まるから」
(この人……)
楓の頭に一昨日のコップを拭いていた時のことが浮かぶ。目の前の女性はまるで見ていたことのように峻の行動を指摘した。
(すごく先輩のことを知ってる)
二人の関係を痛烈に分からされたようで、楓はなにか言い返すことができなかった。
「……また逃げられたか」
女性の呟きが聞こえて、楓がうつむきかけていた顔を上げると、女性はとても悲しそうな表情をしていた。しかしそれも一瞬のことで、
「帰るわ。お邪魔してごめんなさい」
「え、あ、はい」
「お願い。私が来たことは桐生君には言わないで」
両手を合わせて女性はお願いする。
「分かりました」
「ありがとう。えっと……葛城さん?」
胸のネームプレートを見て女性が言う。
「はい。葛城楓です」
「そう、よろしくね葛城さん。私は愛沢奈亜っていいます」
「愛沢奈亜、さん」
「うん」
奈亜は笑顔を見せるとくるっと身を翻す。
「じゃ、またね」
そしてそう言うと、来た時と同じくカランと音を立てながら扉から出ていった。腰まである黒髪が揺れるのが、やけに網膜に焼けついた。