桐生峻 1.
「それじゃ、お先に失礼します」
バイトを終え、私服に着替えた峻が、奥から出て夜の準備を始めたマスターへ声をかける。マスターはいつも通り手を挙げてそれに答えた。しかし、今日はそれだけでは終わらず、マスターが言葉を発する。
「峻君、今日のあの子……葛城さんといいましたか。どうですか?」
その問いに、峻は一瞬だけ思案した後で答えた。
「問題ないですよ。すごくいい子です。それに一日目で先輩を怒るくらいに真面目ですし」
「そのようですね。あの声、奥まで聞こえていました」
「ははは……申し訳ないです」
口元に笑みを浮かべるマスターへ、峻は苦笑いを返す。
「では、予定通り昼間はあの子に任せます。峻君、君には夜のお手伝いを」
「はい、分かりました」
峻が頷きながら答える。マスターはそれに応じて手を挙げた。
「失礼します」
それを見た峻は、頭を少し下げた後、フォレストから外へ出た。
四月下旬の午後七時前はかなり暗い。峻は、店前の路地で大きく伸びをすると、自室への帰路へと着く。
(今日はなんだかいろいろあったなぁ)
そんなことを思いながら歩く。その『いろいろ』の内容は、ほとんどが放課後に集中していた。
(葛城さん、か)
まず、今日会った少女のことが頭に浮かぶ。見た目通り少し無愛想な、しかし思った以上に言うことは言う真面目な性格の少女だったな、と峻は思った。
特に、先ほどもマスターと話したあの自分自身への一喝は、峻の印象に強く残っていた。
(なんだかおもしろい子だなぁ)
峻はあの場面を思い出し、苦笑した。
(睦もびっくりしてたな)
カウンター席に座っていた従妹も、目を丸くしていた。
峻の思考は、次にその従妹へと移る。
(……睦のやつも元気そうだったな)
峻に会えたことがそれほど嬉しかったのか、子犬のようにじゃれついてくる従妹。高校に入る直前になって、見違えるほどに体は成長したのに、中身はまだまだのようだ。
(抱きつくのだけはやめさせないとなぁ……今のあいつは、いろいろと当たるから)
ここ一年でできた峻の新たな悩み事の解決策を、頭の中で練る。とはいえ、一年間失敗し続けているのだから成果は察することができる。
「さぶっ……!」
その問題への解決策は無駄だと言わんばかりに、まだ冷たさを纏った風が吹き抜ける。それに身を縮めつつ、峻は足を速めた。
その時、峻はズボンのポケットの中で、携帯が震えているのに気づいた。そのパターンから電話の着信だと気づく。
ポケットから携帯を引っ張り出し、液晶を見た。するとそこには、『藤宮董子』と表示されている。
「もしもし?」
通話ボタンを押して、携帯を耳につけると、そこから聞き慣れた声が聞こえてきた。
『もしもし、峻君ですか?』
「俺の携帯にかけて、俺以外の人はそうそう出ないと思うよ?」
『あ、その言い方は峻君ですね』
「言い方で特定するんだ……」
峻が返すと、電話口からくすくすと笑い声がした。峻の頭に、董子の笑顔が鮮明に浮き上がる。
『バイト中かな、と思ったんだけど。繋がってよかった』
「ちょうど終わったとこ。なかなかいいタイミングだよ」
『なんとなく、今なら大丈夫かなって思ったの』
「そっか」
『うん』
どこか誇らしげに董子が言った。もし一緒にいたら、「私もなかなかやるでしょ?」という風な視線を向けてきたに違いないな、と峻は考える。
峻が二年以上も董子と一緒に居て分かったのは、董子もなかなかの自信家だということ。ただし、全方面にではなく、一部のことにのみ自信を覗かせる。たとえば、『親しい人との繋がり』などだ。
自分もその『親しい人』のリスト入りしていることへ、嬉しい気分になりながら峻が尋ねる。
「それで、なにかあったの?」
『あ、うん。峻君、明後日なんだけど講義の後に時間ある?』
「……悪い、明後日はまだ新しい子の教育で早く行くつもりなんだ。だから時間は取れないな」
『そういえば……今日からだったね。どんな子だった?』
「しっかりした子だったよ。ちょっと無愛想な風に見えるけど、いろいろ喋ってみると面白い反応を見せてくれるし。それに店の看板になりそうなくらいに可愛いし……あ」
今日一日の出来事を思い出しつつ、董子の問いに素直に答えた後で、峻は「しまった」という顔をした。
『ふーん』
「あ、いや、董子?」
『可愛いんだねー、その子』
「そのなんだ? 俺は董子の質問に素直に答えただけで……」
『それにいろいろお喋りかー、ふーん』
「あのー……董子さーん?」
『…………』
「……ごめんなさい」
ついに呼びかけても答えてくれなくなった董子へ、峻は電話越しに頭を下げた。
『……ぷっ……ふふふふふ』
「……董子」
すると、電話口から含み笑いが聞こえて、峻はガクッと肩を落とした。
『ふふふ、ごめんなさい。少しいじわるしてみたの。びっくりした?』
「心臓に悪いから止めてください」
『ごめんなさい。もうしません……たぶんね?』
「おいおい……まぁ、いいや。それより明後日の件、ごめんな。急ぎの用なのか?」
『ううん、大丈夫。そういうことなら仕方ないよ。……けど、土曜日は大丈夫だよね?』
「あぁ、そっちは問題なし。マスターに休みもらってるから」
『よかった。峻君のことだから、誕生日も普通にバイトだけど、とか言いそうだもん』
「前から約束してたし、それはないよ。映画館のチケットもばっちり予約済みだし」
『うん、分かった。ありがとう』
明々後日の土曜日。つまり五月一日は、峻の二十回目の誕生日だ。その日は、彼女である董子と祝うことを前々から予定していた。
さらにその日から二十歳になるので、『フォレスト』の夜の部にも入ることができる。だからこそ、新人のバイトを募集していたのだ。
『じゃあ、予定はそういうことで』
「分かった。それじゃ」
『うん。峻君、またね』
「うん」
それからいくつかの会話を終えた後、峻は董子との電話を終了した。耳から携帯を離す。通話の時間がちょうどいい帰宅時間になったらしく、峻の部屋はもう目の前だった。
ただし、それは峻が十八年住んできた一軒家ではない。駅前から少し離れた位置にある築年数の古い二階建てアパートだった。名前を『ハイツ小倉』という。その二階の一番奥、204号室が今の峻の住まいだ。
ここに越してきたのは、高校を卒業し、大学へ入学するまでの休みの間である。その主な理由は『睦が甲城大附属に受かったため』だ。
県外に住んでいた睦が、高校に通うためには、学校の近くに住む必要があった。本来なら睦が一人暮らしをする予定だったのだが……峻が猛烈に反対の末、実家の峻がいた部屋に睦が住み、代わりに峻が家を出る形をとったのだった。
ところどころペンキが剥がれ、錆びついたタラップをカンカンと音を立てながら上がる。そして、自分の部屋の前まで来ると、キーホルダーを取り出してロックを解除する。
ドアを開けて中に入ると、外見とは違って……というわけではなく、外見通り内装も同じく古めかしい雰囲気を出している。
とはいえ、この畳敷き八畳一間が今の峻の部屋であり、彼だけの城だった。
ベッドや本棚といったものは実家に置いてきたために、部屋の家具といえばテレビにノートパソコン、簡単な収納箱といくつかのラックといったもののみだ。
「ふぅ……」
峻は荷物を降ろしながら、息を吐く。そして炊飯器の米が炊けているの確認する。
(飯作るか)
頬をかきながら峻は、冷蔵庫の中身でできそうなものを頭の中で考え始めた。