葛城楓 4.
(今何時だろう?)
楓がふとそう思い、丁寧に磨いていたテーブルから顔を上げた時、壁にかかった時計の針は、ちょうど午後六時を指していた。カウンターに座っていた睦も少し前に帰ってしまい、店内にお客の姿はない。
時計を見ている楓に気づいたのだろう。棚の整理を行っていた峻も同じように時計を見た。そして、スッとカウンターの奥の部屋へと消えていく。
楓が、どうしたんだろうと思う間に、峻は再び奥の部屋から帰ってくると、カウンターを通り、楓の前までやってきた。
楓の表情が自然と険しくなる。少し前のコップ磨きで、新人の楓の方から、ベテランの峻を一喝してしまった事件によって、二人の空気は微妙に悪かった。といっても、峻が楓の態度に腹を立てたとか、そういうことではない。ただ互いに、簡単に声がかけづらい状況になってしまっただけだ。――その一因として、すぐに固くなってしまう自分の表情筋のせいをある。と楓も自覚はしていた。
「あのー葛城さん……?」
「……なんですか?」
また、第二の原因として、この微妙にドスの利いた喋り方にも問題があることも楓は分かっていた。
「えーと、まだ怒ってる?」
そして、峻の方もその雰囲気を気にしているようで、少し気まずそうに聞いてきた。
「……怒ってないですよ」
「ホント?」
「ホントです! で、用件はなんですか?」
きつい言い方だ。こういう言い方しかできないことが、人間関係に悪影響を及ぼしていることも分かっていながら、楓は峻へ問いかける。
逆に峻の方が、気を悪くしてしまうのではないか? そんな不安に駆られたが、楓の言葉を聞いた峻は微笑みを見せた。
「いや、怒ってないならいいんだ。コップ磨きの件は俺が悪かったわけだし、それで葛城さんが気分を害したままなのは困るなって思ってただけだから。――あ、用件は、もう六時になったし、とりあえず今日はここまでにしようかってこと」
「ここまで?」
「そっ、今日はバイト終了で」
峻からあっさりと告げられた言葉。しかし、その言葉は楓にとっては大切なことで、人生初のバイトが成功したことを意味した。
「は、はい!」
それを実感すると、気持ちが高鳴り、少し声が上ずる。そんな楓の心情は分からないだろうが、峻はにこやかに笑ったまま、
「お疲れ様」
と労いを口にしてくれた。それがまた、楓の心をくすぐる。
(……嬉しい)
素直にそう思った。しかし、それを峻に悟られるのがなんとなく嫌で、少し赤くなった顔を伏せた。
「それじゃ、着替えて上がってくれたらいいよ。明日は祝日だし、ゆっくり休んで」
「えっ?」
だが、次いで発せられた峻の言葉に楓は伏せていた顔を上げた。
「明日、来なくていいんですか?」
「うん、明日は俺が一日ここにいるし、大丈夫。葛城さんは、明後日の放課後にまた来てください」
「はい……」
楓の声色に少し落胆の色が混じる。当然明日もバイトはあるものだと思っていた。元々予定があったわけではないが、今から予定を作るのも難しい。
(明日、どうしよっかな)
ぽかりと空いた脳内のカレンダーを見て、楓は顔をしかめた。
着替えをすまして、楓が店内へと戻る。学生服の方が布面積は少ないはずなのに、自分がほっとしているのに気づき、楓は可笑しな気分になる。
店内へ戻ると、峻は床の掃き掃除を行っていた。そして楓が戻ってきたのに気づき、箒を持った手の動きを止めた。
「お、出てきたか」
「はい、先輩はまだやるんですか?」
「うん、店は夜の部があるからね。それの準備はしないと」
「……夜の部もお客さん少ないんですか?」
楓は少し失礼かと思ったが、気になったので聞いてみた。昼間は結局睦のほかには三人しかお客さんは来なかったからだ。
「いや、夜はたくさん来るよ。この店の本来の姿はバーだから」
「え?」
「棚見てみ?」
峻にそう言われて、楓はカウンターの陳列棚を見てみる。バイト中はあまり意識していなかったので分からなかったが、その棚に並べられているのはほとんどが洋酒だということに気づいた。
「だったら、夜の方がバイトいるんじゃないですか? ……もしかして先輩が夜も?」
峻が頷く。
「でも、今日は入らないけどね。明後日にもう一度君と一緒に昼に入って、夜に入るのは五月の二日からだな」
「明後日は一緒なんですね……」
「うん、君は覚え速いし、あと一回やれば昼の仕事は引き継げる。そしたら俺は夜の方に入るよ」
「……ありがとうございます」
何気なしに褒められ、楓も不意を突かれる。そのため、ぼそっと返事をするのが精一杯だった。
「じゃあ、また明後日よろしくお願いします」
「はい、分かりました」
そう返しながら楓は峻の顔を見つめる。
(また、か……)
楓はその会話がなんとなく嬉しく感じた。自分との繋がりを感じさせてくれたからだ。
(こんな風に誰かと会話をするのは、いつ以来かな……)
そんなことを考えつつ、楓は踵を返した。
店の出入り口のドアを押し開け、外に出る。街は夕暮れ時だ。
チリンと鈴を鳴らしながら、ドアが閉まっていく。楓が振り返ると、その閉まっていくドアの向こうで、こっちを見ていた峻と目が合った。峻はまた笑顔を浮かべると、楓に向かって軽く手を振った。
それにどう答えあぐねている間に、ドアが閉まり、峻の姿が視界から消えた。
「あ……」
少し名残惜しそうに楓が呟く。そして、そのまましばらくドアを見つめていた楓だったが、クスッと口元を綻ばせた後、駅の方へ向けて足を動かし始めた。
なにか大きなことが変わったわけではない。だが、停滞しきっていたものが少しだけ動いたような、そんな感覚を楓は感じていた。
それが、バイト初日に葛城楓が得た、なによりの成果だった。