葛城楓 3.
「……どうぞ、アイスレモンティーです」
楓がお盆に乗せたグラスを手に取る。今まで生きてきた中で、楓から誰かに給仕をしたことなんてなかった。これが人生で初めてだ。そう考えると、グラスを持つ手が微かに震えた。それがグラスに伝わり、中のレモンティーが波をうっている。
(……もう、ちょっと)
そんな楓の頑張りが届いたのか、レモンティーの波はグラスの縁ぎりぎりのところでなんとか留まってくれた。
そしてコトッという音と共に、グラスがカウンターへと置かれる。時間にしたら数秒のことのはずなのに、楓が感じた時間はその数倍はあっただろう。自身の両肩にずしりと疲労感がした。たった一回でこんなにも疲れていて大丈夫なのだろうか、と楓は自分が心配になった。
「ありがとー!」
給仕側が精神的ダメージを受けているなど微塵も思っていない様子で、アイスレモンティーを注文した睦が明るく言う。
どちらかというと、睦の方がカウンターの中に立って接客すべきだと楓は思った。楓自身より明らかに適役に感じられたからだ。
(……でも、この服は少し合いそうにないわね)
そんなことを思いながら、楓はもう一度自分の服装を確認する。楓の着ているベストやカッターシャツは、元が男性用の服だからかあまり生地に余裕がない。楓のようなよく言えばスレンダー、悪く言えば起伏の少ない体型なら大丈夫だろう。だが、睦のような胸にしっかりとした二つの膨らみがある女子が着るとなると、少々きついかもしれなかった。
(なぜか悔しいのだけれど……)
自分でいろいろ考えておいて、自分で精神的ダメージを重ねていては意味がないことに気づいて、楓はこの話題をさらに突き詰めて思案することはやめにした。
「はい、オッケー。そんな感じです」
そこで横から声がかかった。声の主は、楓から少し離れて一連の動きを見守っていた峻からだ。自分と同じく白いカッターシャツとその上にベストを着た峻の姿は、男性の容姿にそこまで興味がなく、観察眼は素人レベルであろう楓から見ても悔しいがカッコよく思った。ただ、なぜ『悔しい』のかは楓には分からなかったが。
「さて、じゃあとりあえず余った時間はこのグラスでも磨いてもらえますか? 俺も一緒にやりますから」
「はい」
峻が次の指示を楓に伝える。どうやら他のお客さんが来るまでの間、グラスを磨くようだ。これも楓の経験上初めてのことだ。
「はい、じゃあこのグラスをお願いします」
峻から手渡されたグラスは、一見すると汚れていないように見えた。しかしここは喫茶店で、手渡してきた相手はこのバイトを長年やっているのだ。たぶん自分には気づかない汚れがあるのだろうと思い、楓はグラス磨きに取りかかった。
まずは縁を入念に磨いていく。ドリンクを飲む際、人が口をつける部分なので、なおのこと入念に磨く必要があるのではないか、と楓は考えた。
「ねぇ、峻兄」
「んー?」
「大学はどう?」
「どうって、普通だよ」
隣に立って同じようにグラスを磨いている峻と睦が話始めた。バイト中にお喋りをしていいものなのか、楓は疑問に感じた。が、よく考えればここはマナーが徹底された高級レストランなどではないことに気づく。
(こういう場所は逆にお客さんと気さくに話す場所なのかも……)
楓はそう考えると、ますます自分には向いていないんじゃないかと心配になった。
「普通って……もっと具体的にないの?」
「具体的じゃない質問に、具体的に答える必要はないと思うけど?」
「うぅー……意地悪……」
峻の切り替えしを聞いて、楓は内心でうまいな、と思った。だがそれと同時に確かに意地悪だ、と睦にもある程度の共感は示した。
楓がちらりと睦を見ると、睦は頬を膨らませて峻を睨んでいた。だが一方の峻は素知らぬふりをしてグラスを磨いている。
(あれ……?)
そこで楓はあることに気づいた。
(グラスの縁はさっきから磨いていたような……)
楓が気づいたのは、峻のグラスを磨く位置が変化していないというところだ。楓ですら今はグラスの縁を終え、グラスの外側を上から磨いているところである。楓より経験があるはずの峻が自分より磨くのが遅いのは信じられなかった。
(ということは……もう次のグラスを磨いているってこと?)
それが楓の導き出した結論だ。
(いつの間に……桐生さんと話しながらなのにすごく速い)
負けてられない。そう感じた楓はより真剣にグラス磨きを行う。グラスの外側を念入りに、そしてグラスを落とさないように丁寧に磨いていく。
「じゃあさー、大学のことはいいから峻兄が次はいつ帰ってくるのか教えてよ」
「さっきも言っただろ? そのうち帰る」
「もぉ! それ具体的じゃないよ? 私、今は具体的に質問したのにぃ」
「じゃあそうだな。お前が今度の中間テストで赤点なくしたら帰ってやるよ」
「ぐ、具体的すぎるよ……それは……」
グラスの外側を磨き終えた楓は、今度は内側へと移る。グラスの内側では指の動きが制限されてしまうため、さらに時間がかかってしまいそうだった。
楓はまたチラリと峻の手元を見た。またグラスの縁を磨いている。三個目のグラスに取りかかった証拠だ。
「くっ……」
楓は悔しげな顔でグラスに視線を戻すと、磨く作業へと意識を集中させる。そんな楓の耳に相変わらず二人の会話は届いていた。
「ねぇ、峻兄」
「ん?」
「そんなこと言わずに帰ってきてよ。……奈亜姉も寂しがってるよ?」
楓の視線の端で、峻の手の動きがピタッと止まったのが分かった。だが、その手の動きはすぐに再開される。
「嘘つけ。あいつもいろいろと忙しくしてるはずだろ?」
「それはそうだけど……でも――」
「悪い、睦。……本当は課題のレポートとかで立て込んでてさ。それが理由で帰れないだけなんだ。それがすんだら一回顔出すようにするよ」
「うん……」
睦が寂しそうに顔を少し伏せた。そんな睦の様子と耳に入ってくる二人の会話に、楓も少し興味が湧いてしまう。
(なんだろう? この二人はなんの話をしているんだろう?)
楓の頭に疑問が浮かぶ。だが楓の心の中だけの疑問に答えてくれる人はいない。かといってその疑問を口に出して聞けるほど楓は積極的ではないし、目の前の二人とも親しくない。結局、疑問は宙に浮かぶだけだった。
そうこうしているうちに、グラス磨きは終盤になる。あとはグラスの底を磨くのみだ。人がドリンクを飲むのに一番関係ない場所だ。
(けど、そういう場所だからこそなおのこと綺麗にするべきなのかも)
楓はそう思い、グラスの底を丹念にふき取る。グラスを目の上にかざし、店内の照明を当てて曇りがないか、汚れがないかを確認する。
楓が見たところそういった類のものはない。完全に汚れをふき取れたはずだ。
(よし、やった)
心の中で密かにガッツポーズをする。沸き起こった達成感が心地よかった。毎日学校に行き、勉強し、帰る。それだけの日々を過ごす中で、忘れてしまっていたその感覚に楓はしばし浸る。
(バイトしてよかった)
今日、この『フォレスト』に来て初めてそう思えた。それは楓が自分の意志だけで決めたことで、初めての成果を上げた瞬間でもあった。
それを自覚すると、自然と頬が緩む。楓の表情には小さく微笑みが浮かんでいた。
「楓さん、グラスをすごく丁寧に磨くんだね」
「え……?」
楓に対して喋る睦の声がして、楓は我に返った。
グラスをかざして満足そうに微笑む楓をいつの間にか峻と睦の二人が眺めていた。峻は、可笑しいものでも見たという表情。睦は、称賛の言葉どおり、尊敬した眼差しを楓に向けていた。
「え、あ……」
楓の顔がぼっと赤くなる。そしてグラスを掲げたまま固まった。
「楓さん、さっきから一個のグラスを念入りに磨いてるなーって思ってたの。すごく丁寧なんだね。今も満足そうにしてたし! グラスを磨いたりするの好きなの?」
「い、いや、私は……その……」
褒められているのは間違いない。しかし睦は、最後の笑みを見て、楓をグラス磨きの達人かなにかと勘違いしているようだ。
(ていうか、なに? グラス磨きの達人って!)
楓は自分で思いついた称号に自分でツッコんでいた。
「それくらい峻兄もしっかり磨いたら? さっきから全然進んでないじゃん」
「……え?」
さらにそこへ、驚愕の事実が明かされた。
(さっきから……進んでない……?)
睦の言葉を胸のうちで反復した。その言葉の為す意味を一から考える。だが一から考えたところで答えは一緒だ。楓は自分のとんでもない勘違いに気づく。
「先輩……もしかしてそれ、一個目ですか?」
楓は峻に向かって聞いた。さっきまでの微笑みはどこへやら、元から鋭い目つきがさらに鋭くなっている。
「あ、すまん。実は話に夢中になって……」
峻が頭を掻いて言う。にへらと笑った顔を見た瞬間、楓はいろいろと限界を向かえた。
「ちゃんと仕事してください!」
峻に向かっていった一言は、楓の声量の最大値を更新したと思われた。