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海猫

作者: 月野魚


※一部不適切な表現があるかと思いますが、演出上使用させて頂きました。以下の単語です。


・看護婦ではなく、看護師という表現が正しいですが、今回あえて看護婦という言葉を使用しております。侮蔑や差別の意図はございません、ご容赦下さい。



 誰もが思うことだ。

 それほど、陳腐で率直で安っぽい望みなのだ。彼の望みなど、そんな、当たり前のことなのだ。


 そう絶えず頭に巡らせ、少女は夕暮れの光の中に落ちた自分の影を追った。波打つ蒼海を眺め眺め、防波堤の側を行く彼女のセーラー服を、潮風が時折ふわりと揺らした。気まぐれに吹く潮風を感じながら、淡い紅色に色づいた浜茄子に誘われるように少女は歩を速めた。


 天穹に浮かぶ太陽に背を向け、切り取られた自分の影を少女は曖昧な色をした瞳で見つめた。強い光に落ちた、空虚なその影を。

 少女は海に臨む小さな真白の建物に吸い寄せられるように近づき、ガラス戸に手をかけた。ぼんやりと目を開き、ガラス戸に映る自分の姿を認めた。


 夕日に混じる静寂が妙に心地よく、体へと溶けてゆく。

 少女は受付の看護婦に頭を下げ、その微笑みを目の端にやり、歩く速度を速めた。

 少女が冷たい床に脚を下ろす度、靴音が高く響いた。そして、その無機質な音は最奥の部屋の前で止んだ。


「望月青年」


 少女の声は、その部屋のたった一人の人物に向かって投げかけられ、少しだけふわりと響いた。少女の声を受け取って顔を向けた彼はベッドに身体を沈み込ませ、微笑んだ。広がる青い影の中でも分かるほど口角を上げ、彼女をやわらかく見つめていた。濃く満ちる影が病床に臥する彼の顔を鋭利に形作り、青く光った。


 北向きのこの病室には日が差さず、大きな窓一面を染める青い海から波音が囁き続けていた。


 沈黙を守る青年に少女は眉をひそめた。ゆっくりと歩み寄ると、窓を背にしてベッドの側にあった椅子に腰を下ろした。 少女は言葉を探しながら青年の目をちらと見た。すると、彼女の口から言葉が出るのを促すように、青年は不思議そうに首を傾げた。


「元気?」


 少女はそう問いかけたが、青年は口を開くことなく、ただ頷いた。そして、彼女の顔から目を逸らすと、また一層深くベッドに身体を沈ませた。


 青年の両手の指だけが何かを掴みたがっているかのように動き、濃青に染まっていた。


 おそろしく静寂に満ちた空間が居心地悪く感じられて、少女は意味もなく、昨日飾ったばかりの花に目を向けた。花瓶に活けられた名も知らぬ白い花が潮風に揺れていた。


「ねえ」


 不意に響いた青年の声に、少女の体が過剰に反応した。なあに、と少女は声をかけたが、青年は顔を上げることなく、まだ、その病的な白い手で空気に触れ続けている。


 それでも少女は待った。閉ざされた口が開かれるのを。その口から言葉が発せられるのを。

 それが何の不安もなく出来たのは、青年が紡ぐ言葉を知っているからだった。


「ねぇ、生まれ変わるなら、何になりたい?」


 窓の向こうで悠々と波打つ蒼海と同じく、淡い卵色のカーテンも穏やかに山と谷を繰り返す。そうして少女も、ひどく慣れた思いを頭に巡らせた。


「望月青年は何になりたい?」


 質問を質問で返す。そうすれば、彼は淀みなく来世を紡ぎ始める。


 その間に、少女は抱き慣れた思いをまたその手に抱き締めるのだった――誰もが思うことなのだ。次に生まれるなら何がいいかなど、誰もが一度は思う。彼が特別なわけではない。毎日のように来世に思いを馳せる彼が、特別なわけではない――そう、何度も言い聞かせるように。


「君は何になりたい、少女A?」


 青年の言葉に呼び戻されて、少女は戸惑いを隠せずにいた。

 笑みを浮かべてさらりと言う青年の言葉に、少女は困ったように眉をしかめて、笑顔を取り繕った。彼と視線が合う前に少女はうつむいて、青く鈍重な光を放つ革靴に目を落とした。


「じゃ、私、もう行くね」


 青年の目をはっきり見ることなく立ち上がり、少女は早足で病室の出口へ向かった。

 少しだけそこで立ち止まって、青年の方を振り向いてみた。そして、怯えたような、さびしさを滲ませた目で青年と一瞬目線を交え、崩れることのない彼の笑顔に力無く手を振った。


 廊下に、靴音が響いた。




  *  *  *




 少女は病室を出て、左手首で刻々と時を告げる時計の針を目で追った。病院の程近くにあるバス停に目を向け、丁度停車したバスにぼんやりとした目のまま乗り込んだ。

 夕暮れの光に伸びるのは、座席の影のみ。微笑んだ運転手と目線を交え、窓際の最前列の席に迷うことなく座った。


 車窓に切り取られた世界は、彼女の目には今日も何の変哲もなく流れていく。厳しい冬と麗らかな春が過ぎたこの北の地に、人々に恵みを与える海原とこの地を遍く包む蒼穹が、初夏の訪れを今年も穏やかに告げていた。


 衰退への道を辿り、荒廃の色に染まり始めたこの港町で、人々は今日を安穏と過ごしていた。


 空に紺色が混じり始め、海岸線に並ぶ家々の灯が海上に揺れながら浮かんでいる様を見てとれるようになったころ、少女はちらりと左手首に目をやった。そして、また焦点の合わない少女の目が、切り取られた世界へと動いた。


 帰宅すると、台所からふわりとお味噌汁の香りが漂ってきた。

 少女はその香りのする方へと行き目に入った人物に、ただいま、と言った。


「今日は帰るの早いね、父さん」


 疲れているのか、少し猫背になった父親が、ゆるゆるとお味噌汁の鍋をかき混ぜていた。

 きっちりしたワイシャツとネクタイに赤いチェックのエプロンという組み合わせが何だか滑稽で、少女は口角を少し上げて、父の隣に立った。手を洗い、包丁を握ると、不機嫌そうな声が飛んできた。


「今日はもう、いいから。休んでなさい」

「いいよ。いつもやってることだし、なんか、逆に、やらないと落ち着かないし」


 そう言いながら、少女はほうれん草の根を切り落とした。

 父は何も言わず、黙ってお味噌汁の鍋に少し味噌を足した。


 ほうれん草の和え物と、焼き魚、お味噌汁、それに白いご飯。

 模範的で、どこか機械的な匂いが漂ってくる夕食は、少し温かみに欠ける。しかし、それも仕方ないかと少女は思った。


「病院、今日も行っていたのか」

「うん」


 魚の身をほぐしながら、父が少女にそう問いかけた。少しずつ漂う沈黙を破ってくれるのは、馬鹿みたいに間の抜けたお笑い番組だった。


 何か言いたげな父から目を逸らし、少女はテレビの方を向いた。自分の目を見られないように、そこにある感情を悟られないように、少女は発光するテレビをじっと見つめていた。


「どうだった」

「何が」


 父の問いかけに、わざと冷たく返した。お味噌汁はすっかり冷えて、喉元を通り過ぎるあの安堵感を感じられない。

 父は一度手を止めて、少女の顔を覗き込むようにして言った。


「……お兄ちゃんの、具合」


 少女は、自分が口の中の物を飲み下す音がいやに大きく聞こえたような気がした。何も言わずにそのまま咀嚼を繰り返していると、父の視線を感じた。


 困惑気味に顔のしわを一層深く刻んだ父を見て、少女はゆっくりと箸を置いて、目を伏せたまま小さく呟いた。


「別に、いつもと同じだよ」


 テレビの音が部屋に響いて、その裏側を薄く沈黙が覆った。


 父はただ、そうか、とだけ言って席を立った。少女も父が流し台に立った頃、席を立った。食器はそのままにして、不気味な静寂を疎み、自分の部屋へと逃れた。


 ドアが乾いた音を立てて閉まった。




  *  *  *




 仕方のないことだと思った。

 温かみのない食事も、不気味な静寂も、全て仕方のないことだと思った。

 両親が離婚し、自分はそれを受け入れた。その日から、この家に足りない何かを補おうとすることは出来ない、また、無意味なことだと、少女は思った。


 ひとたび世界を受け入れると、穏やかに凪いだ海のように心に静けさが広がる。それが心地よく感じてしまうほどこの日常に慣れた自分は、果たして正しいのだろうかと、真上から光を受けてきらめく海面の眩しさに目を細めた。


 少女はまた今日も、浜茄子が揺れる防波堤のそばを、一人きりで歩いていた。

 図書館に行こうかとバスに乗り込み、ふと、通り道である青年のいる病院に寄って行こうかと思い立ったのだった。


 潮風が、セーラー服と海面と浜茄子を撫でて通り過ぎる。休日であるにも関わらず、人気の無い港町。彼女はこの静かな町が好きだった。誰もいない世界。不安と優越の混じった、不思議な感覚を感じられた。


 ふと、素知らぬ顔で咲いている浜茄子に手を伸ばしてみた。爽やかな風に揺れ、強く、しかし寂しげに佇む、花。そのやわらかな花弁に触れ、思いがけず感じた冷たさに、漆黒の瞳を陰らせた。


 待合室は今日も静寂が保たれ、必然的に受付の看護婦の視線が自分の方へ向けられているのを感じた。いつもと同じ微笑みに軽く礼をして、少女は冷たい床に足を下ろした。


 奥へ行けば行くほど、院内は空寂に沈む。

 昨日の夜、二人きりの食卓で感じたそれとは違い、体に溶けていくように心地よい。空寂を身にまといながら、少女は扉が開け放たれたままの最奥の部屋に入った。


「望月青年」


 穏やかな声で少女が呼ぶと、寄せては返す波音と同じく、青年は閑々と少女の方を振り向いた。彼は首を傾げて、じっと少女の目を見据えた。


「今日はさ、ちょっと早く来てみた。お休みだし」


 にい、と歯を出して少女が笑って見せると、納得した様子で青年は頷き、つられたように笑った。少女はベッドの側の椅子に腰かけ、絶えず囁く波音を聞いた。そして、その中に混じる声に気づいて、思わず外を見た。


 蒼穹に響く、声――。


「にゃあ」


 少女が驚いて青年の方を振り向くと、彼は得意そうな顔でもう一度、にゃあ、と言った。


「海猫だよ。あの、鳴き声」


 ずっとないてるんだ。


 宝石が幾千も散りばめられているかのようにきらめく海面を、青年は静かに見つめて言った。窓一面に広がる景色は明るい真昼の太陽の光に包まれて、真っ白に霞が立ち込めているようだった。


 少女は、波音に導かれ、遠い、遠いあの日のことを脳裏に巡らせた。



 家族四人で今の家に住んでいた頃の記憶だった。

 父母は目を合わせることもなく、ただ自分の身支度を整えていた。彼らの顔は真っ白な光で切り取られて、その記憶全体も、ぼんやりと光の中に埋もれていた。すると、呆然と廊下に立っている少女の耳に、彼の声が響く。

 いつまでも繰り返されて、あの日の思い出を、そっと今に返す。

 この続きを拒むように。


「ねえ」


 呼び戻された少女の体が少し跳ねた。少女は青年の声に答えて、ゆっくりと青年と目を合わせた。すると、青年が少女の足元を指差して、


「それ、なに?」


 彼の問いに、少女は自分の足元に目を落とした。彼の指し示す方向にあったのは、少女の鞄だった。椅子に座ったまま、それを抱きかかえるように膝の上に置くと、少女は鞄を開けながら青年に言った。


「図書館にね、勉強しに行こうと思って」


 少女は青年と目線を交え、取り出した国語の問題集を広げて見せた。

 すると、少女は何かを思い出したのか、あ、と呟いて青年に向かって言った。


「あのさ、これ、よく分かんないとこがあってさ、」


 少女はページを繰っては指を差して、青年に助言を求めた。青年はいつものように笑みを浮かべ、時折頷き、少女の問いに一つ一つ答えていった。

 潮風が波音と海猫の声を乗せて、彼らを優しく撫でた。海原はただ大きく波打ち、眩い太陽の光を幾千もの星屑のように砕いて、彼らのもとへはね返した。


「望月さん」


 突如、穏やかな時間が流れていた病室に涼やかな声が響いて、少女と青年は思わず病室の入り口に目を向けた。


 すらりとした、冷静そうな看護婦がこちらに歩み寄ってきた。少女は立ち上がって、軽く礼をし、そのまま窓辺に背を預けた。青年と看護婦が何やら話しているのを眺めて、ちらと左手首に目をやった。

 そして、看護婦が部屋から出て扉が閉まる音がしてからしばらくして、少女が鞄を手に取った。


「じゃあ、もう、帰るね」


 少女が去り際に小さく手を振ると、青年は笑みを浮かべて、病室を出ていく少女をずっと見ていた。その視線を感じながら、少女は病室を出た。扉が閉まる音に虚しさを感じて溜息をつくと、響いた涼風のような声に少女の体が跳ねた。


「望月さんの妹さん?」


 声の主を探して少女が辺りに目をやると、先程の看護婦がこちらを見ていた。

 彼女の纏う冷淡な雰囲気に一瞬怯んだが、少女は彼女の目を盗み見ながら、頷いた。すると、看護師の感じが幾分かやわらかくなり、少女は看護婦に促されて待合室の長椅子に腰かけた。その後に続いて看護婦が少女の隣に座って、話し始めた。


「今日は、調子が良さそうだったでしょう、お兄さん」


 調子が良い、と言ってもいいのだろうか、あの状態は。確かに普段よりずっと落ち着いて見えたが……。少女が答えにくそうにしていると、看護婦が苦笑混じりに言った。


「最近はね、ずっと外を見ていたわ」

「そと、ですか……」

「そう。外、というよりは、あれかしらね」

「あれ、って?」


 自分を見つめる看護婦の視線に、少し穏やかなものを見つけて、少女はおずおずと口を開いた。


「海猫よ」


 看護婦は、仄かに笑って、優しく言った。

 少女は、穏やかに過ぎた先程の時間を思って、待合室から見える空を見つめた。


 看護婦は、時間をとってごめんなさい、と少女に頭を下げた。慌てて少女が礼をすると、看護婦は笑みを浮かべた。そして、少女が立ち去ろうとすると、再び看護婦が彼女を呼び止めた。


「少し、聞いてもいい?」

「何でしょうか」

「あなたたちは、何か遊びでもしているの?」


 看護婦の問いに、少女の瞳が点になる。

 その様子を見てか看護婦は微笑しながら、


「いやね、どうしてお互いをあんな風に呼び合っているかなと思って」


 好奇心を露わにせずそう言った彼女は、公園で遊ぶ親子や兄弟を見つけた時のような瞳をしていた。看護婦の言葉に、少女は寂しげに微笑んだ。


「どうしてでしょうね」


 看護婦の表情が少しかたまった気がした。もとからそういう風だった、少女は強くそう思った。

 少女は礼をして、廊下に靴音を高く響かせた。悲しげな青い影を負う背中に、看護婦は開きかけた口を閉じた。


 海猫が、遠くで鳴くのが聞こえた。

 


 深い青をたたえた海の側を、少女はまたひとりきりで歩いた。

 青年に教えてもらった言葉たちが、魔法のように頭を巡っていた。少しだけの優しい時間を思い出すと、それに引きずられて違う記憶が蘇ってきた。さっきも病室で思い出しかけた、昔。


 確か、母と兄が家を出た日だった。その日、家族が二人と二人に分かれて、同時に、兄が入院した日。

 誰も目を合わせない、合わせられなくなった頃だった。


 少女の名を呼んだ声を、伸びた手を、哀しげに揺れた兄の顔を、白い光の中に見つけた時、遠くで、高く声が響いた。


 にゃあ。


 海猫の声に少女は、はっと目を丸くして、空を仰ぎ見た。病室で流れた時間がふと浮かんで、少女は眉根を寄せた。ただ、バス停までひた走った。




 青年の担当である看護婦は「看護婦Aさん」と青年に呼ばれていた。ちなみに、受付の看護婦は「看護婦Bさん」である。


 冷静な目で青年を見ている内に、看護婦Aは、青年とあの少女の関係について考えるようになった。


 青年の精神や記憶を蝕む病は、幼い頃から彼の生きる様々なところに亀裂を生じ、家族の離別が、彼の今までが崩れたことを示していた。


 青年との会話から推し量れるのはその程度で、青年と少女、彼らが互いにどんな思いでいるのかは決して知り得ないのだった。


 海上を船が通り過ぎ、波を泡立てて白線を引いてゆく。その上を滑空する海猫の声に呼ばれたかのように、看護婦Aは足を止めて、かすかに届く声に耳を澄ませた。


 立ち止まった所は、偶然にも青年の部屋の前だった。そのまま通り過ぎようとしたが、扉の向こうの何かざわついた空気を感じ、彼女はそっと扉を開けた。


「望月さん?」


 看護婦はベッドに目をやった。しかし、そこに青年の姿が無いことに気付き、部屋を見渡した。

 潮風にはためくカーテンが一箇所だけ丸い影になっているのを見つけて、看護婦はその影に歩み寄った。


「何してるんですか」


 優しく問いかけると、青年は驚いたような顔でこちらを見た。片足を窓にかけたその姿に看護婦は一瞬反応したが、すぐに青年の方に顔を戻した。


 逆に、青年はそのまま顔を伏せた。飛び降りそうな彼の体をそっと支え、看護婦は青年の目線を追った。青年はそれに気付いたのか、窓際から冷たい床に足を下ろすと、微笑を浮かべ、


「外、見てただけだよ」


 看護婦はそれに納得したように笑ってみせると、カーテンを開ける振りをして、先程青年が見ていた何かを探そうと外へ目を向けた。

 ごく自然に目をやると、黄色い嘴をこちらに向けた白い鳥の、木の実のような目に見つめられていた。


「看護婦Aさん」


 青年に呼ばれ、顔には平静さを貼り付けて振り向いた。青年の両手の指が、何かそこだけ別の生き物のように空気をつかんだりはなしたりしていた。


「よく、同じ夢を見るんだ。真っ白な光の中から、僕が誰かを呼ぶ。でも、誰も答えてくれない」

「……変な夢ね」


 看護婦はそう平然と通したが、無意識のうちに自分の顔が歪むのが分かった。

 流れた沈黙を、波音が払ってゆく。看護婦が平然としたいつもの調子で話題を振ろうとしたが、青年の言葉に遮られた。


「ねえ」


 沈黙が再び訪れた。

 何かを孕んだ、体を刺す静寂が部屋を満たしていった。


「生まれ変わったら、何になりたい?」


 開け放った窓の向こうで、羽音が大きく響いた。


 看護婦は海の方へ遠ざかってゆく白と灰の点を見つめた。


「僕は、海猫がいいな」


 青年の瞳に、白と灰の点――海猫が映っていた。




  * * *




 海は何も知らない、そんな様子で光をはじいて、深い青の中に全てを隠す。

 世界で何が起ころうと、ただ、悠々と波打つ。


「夢を見たんだ。今日も同じ夢だった」


 人間は不便だと、病室から海を眺めながら少女は思った。

 どうしてこうも嫌な感情ばかりが外に出ていくのだろう。

 うまく感情を取り繕うことが出来たのなら、全てを内側に丸めて飄々としていられたなら。


 少女は、青年の言葉にまた一つ溜息をついた。この数日で何度も繰り返し聞いた話に、自分の顔は心底疎ましいという表情になっているのだろうと思いながら。


「看護婦さんから聞いたし、青年からも聞いたよ。何度も」


 青年に背を向け、広がる蒼海を眺めたまま少女は言った。青年の顔を見ると、昔の夢の続きを思い出してしまう。そんな気がして、逸らしてしまう、目。


「そう、あの『誰か』は答えてくれない」


 刹那、少女は、自分の胸がちくりと針で刺されたような痛みが走るのを感じた。小さく、鋭い痛み。


 それを少しでも和らげたかった。


「最近海猫ばっかり見てるらしいね、青年」


 うん。

 青年が少し笑っているのを背中で感じた。

 そのことに安堵し、振り返った。青年の微笑みと向き合う。


「海猫になりたい、とか」

「……看護婦さんから聞いたんだね」


 青年が、にっと歯を見せて笑った。少女も同じように、悪戯っぽく笑い返した。

 病室に濃く青が落ちてきて、夕闇が迫るのを少しずつ告げていた。


 青く染まるシーツに目を落とし、青年が口を開いた。


「夢の話、なんだけど」

「うん」


 自分の罪を責められ、裁かれる、そんな覚悟をもって青年の言葉を待つ。

 青年は手を開いたり閉じたりしながら、口を開きかけて、やめた。


「やっぱいいや」

「そう」


 少女は自分が安心していることに気付いて、自分の浅ましさを恥じた。

 青年に胸の内を伝えようとしたが、青年はそんな少女の様子に気付かず、


「最近、海猫になりたいと思ったんだ」

「……うん、さっき、聞いたね」


 普段の青年との会話に戻って、少女は身構えた体がやわらかく形を変えたような気がした。ほんのり笑みも浮かぶ。


「どうして、海猫になりたいの?」


 人間は? もう一度人間に生まれたいと思わないの?


 そう、ごく自然に言葉が滑り出した。

 青年は、少女に純粋な笑顔を向けて、静かに言った。


「人間は、嘘つきだから」


 胸がずぐりと重みを増すのを感じた。

 深く深く、沈む。

 強く強く、掴まれる。


 深い青に世界の全てが影を成して、何もかもを見えなくする。

 静謐を満たされてぼやけた脳内は、思考を奪われた。


 少女は、鈍く光るアルミの窓枠から手を放した。


「じゃ、もう、帰るね」


 冷たい床に靴音が響いた。



 夕暮れの静けさに包まれた病院を出ると、急に声をかけられた。


「望月さん」

「……はい」

「……あの、」

「ひとつ、聞いてもいいでしょうか」


 看護婦の声を遮る。先程の会話を聞かれていたのかもしれない、ならば、きっと投げかけられる言葉は慰めか質問か、だろう。

 嫌な子だな、そう自嘲した笑みは看護婦には寂しげなものに映ったのか、どうしたらいいのか困惑しているようだった。

 笑みを更に上塗りして、潮風に髪をなびかせる少女は、静かに言葉を紡ぐ。


「母は」

「……え?」


 看護婦が聞き返す。

 少女は、絞り出すように言った。


「母は、一度でも、ここに来たことがありますか」




  *  *  *




「……ここまで、お願いします」


 タクシーの運転手に小さなメモを渡して、少女はシートに体を預けた。運転手が、今日は天気が悪いねぇと言ったが、愛想もなく適当な返事をする。運転手はセーラー服の少女をミラー越しにちらと見て、一雨きそうだね、と言った。少女の物憂げな瞳に返答を求めることはなかった。


 冷たい窓に頬を寄せるようにして景色を眺める。厚く覆われた灰色の雲が、ゆるりと、流れ出した。

 がたごとと頭が揺れて窓に当たるので、少女は仕方なくシートに座り直した。窓を開ける。湿気を帯び、雨のにおいを含んだ風が顔にふきつけてきた。


 ああ、もう終わるのだな。


 初夏の終わり、暗鬱とした午後。

 はるか高く空を舞う海猫が、やけにうるさかった。





「母の住所を、教えて頂けないでしょうか」


 少女の言葉に看護婦は押し黙った。彼女の瞳には迷いが見えたが、少し待っててと少女に言った。一度ナースステーションの方へ消え、しばらくしてまた姿を見せた。

 そして小さなメモをくれた。知ってはいるが、行ったことのない地名が書かれていた。


「……ありがとう」

「誰にも言わないでね。内緒よ」


 意外にも冷徹な響きを含んでいないその言葉に、看護婦の顔を見つめた。そして、少女はぽつぽつと語り始めた。

 メモの代価にしようと自分は考えているのかもしれない、そう思いながらも、この人に、言っておきたい、そう感じた。



 兄は頭の良い人だった。

 何でも知っていて、時々難しい言葉で少女を励ましたり、諭したり。分からないことがあれば何だって聞いた。辞書を引けば分かるようなことでも、自分で調べれば済むことでも、兄に聞いた。優しい人だった。それと、少し、不器用な人だった。


 父は普通の人だった。

子どものことを考えながらも仕事に打ち込む、そんな人だった。ただ、どこかしらで、男は黙って家庭に金を入れていればいいというような考えを持っていたようにも思う。父に対するイメージは全て、兄からの受け売りだが。


 母は最低な人だった。

 離婚の原因は彼女にあったし、今の兄をつくったのも彼女だ。最低な女だと、つくづく思う。自分の有害さには無自覚で、ついには逃げるようにして出ていった。兄の入院先だけを告げて。



「母に、会っておきたいと思いまして」


 目を伏せたまま言う。

 待合室の長椅子に腰掛け、足をぷらぷらさせながら少女は続ける。


「連絡先も分からないようでは、不便ですし。何かあったときに、困ると、思います」


 揺らした足に冷たい風が絡みつく。

 看護婦が静かにこちらを見るその視線を、絶えず感じる。そこに哀れみが混じっているのかも知れないという恐れを拭えずにいた少女は、依然として目を伏せる。


「私も、長らく会っていませんので……母に。恥ずかしながら、住所も、分からなくて」


 そこで初めて少女は顔を上げた。

 心配そうに看護婦がこちらを見ていた。

 その静かで優しそうな瞳に微笑むと、少女は立ち上がって彼女に一礼した。


「すみません……あなたに頼むようなことじゃないのに……。本当に、ありがとうございます」

 

 看護婦は首を横に振った。


 黒く歪む胸を押さえて、少女は笑みを貼り付けた。

 良かった。本当に、良かった。






 メモの通りにたどり着いた場所は、古くもなく新しくもなく、汚いとも綺麗とも言えないマンションだった。妙にしんと静まり返っていて、少女は小さい頃、無人のマンションで遊んだことを思い出した。その時は、兄もいた。


 丁寧に書かれた文字を目で追う。

 急いで書いたはずなのに、とても読み取りやすかった。彼女――看護婦さんの心配そうな目を思い出した。同時に、そこにいる兄のことも。

 それを振り切るように歩き出す。

 マンションの三階、奥から二番目。


 コンクリートの階段が四方八方から音を跳ね返す。弾むような音に酔いそうになった。



「……あら」


 疲れた目をした女が少女を迎えた。黒いワンピースのストラップが右肩から垂れている。それが扇情的だと思えないのは、この女が母親という生き物だからだろうか、それとも――ぱさついた茶髪を見て、少女は唇を噛む。そして、口角を上げた。


「ごはん、つくろうか? 久しぶりに、一緒に食べない?」


 食材が入ったビニール袋を突き出して、女の前に示した。

 女は一瞬びっくりしたようだったが、にやにやとした笑みを見せると、室内へ少女を促した。



「いつも作ってるんだ、そうやって」


 お世辞にも片付いているとは言えない部屋。

 ダイニングテーブルを少し片付けて、少しスペースを作ると女はそこに頬杖をついて少女に問いかけた。

 キッチンはあまり使われていないようで、室内とは違って綺麗だった。


「まぁ、ね」

「ふーん……上手だねぇ」


 乾いた声、しかし語尾は不自然に伸びて、甘ったるい少女のような台詞を吐いた。

 こみ上げるものを抑えるように、室内には包丁がまな板を叩く音だけが響く。規則的に続く音。狂いそうなほど、正確に。


「あの子のとこ、お見舞いに行ってくれてるんだって?」

「……まぁ」

「そっかぁ、あんたたち、仲良しだったもんねぇ」


 少女は手を止めた。

 シンクを照らす光がじじっ……という音を立てて揺らいだ。女が、電球かえなきゃねぇと言っているような気がした。

 右手に力を込める。

 包丁を逆手に持ち替えながら、少女は静かに口を開いた。


「ねぇ、ちょっとでも、病院に来られない? あは、忙しいのは分かってるんだけどさぁ……」


 女は少女の背中を見つめながら溜息をついた。蛇口をひねる左手しか、その目には映っていない。

 流れる水を弄ぶ細い指をぼんやりを見つめていた。


「そうねぇ。もうちょっと、落ち着いたらねぇ」


 少女の左手が止まった。

 蛇口をひねる。

 水が、止まる。


 女は腕を組み直して、椅子に深々と座り直し、少女の様子を見ていた。あくびをしようとした彼女は、くるりとこちらを向いた少女の形相に息を飲み、その目はかっと見開かれた。


「……ねぇ、」


 椅子ごと女を押し倒し、転げ落ちた彼女の顔に包丁を近付けた。

 かちかちと、噛み合わない歯を鳴らして、女がこちらを見ている。その容貌――醜く年を取ったその顔に走る皺を目で追いながら少女は、あぁ、こんな顔してたっけ、と脳裏に巡らせていた。


「……お金欲しかっただけでしょ。だから、お兄ちゃんをとったんだ。そうでしょ」


 後ろに置いてあった青いゴミ袋にしがみつくようにして女は泳ぐように手をかいていた。目線はこちらに向けたまま。

 冷えた心が静寂をつくってくれる。

 気持ちいい。

 奇声を上げる女の顔ぎりぎりに包丁を突き立てた。ゴミ袋に刺さったそれを引き抜くと、どろりと内容物が流れ出した。それは濃い緑をしていた。


「……ねぇ、きこえてる?」


 また包丁を突き立てる。

 同じところに、何度も、何度も、何度も――。


 その度に悲鳴が上がる。

 どろどろと、緑色の何かが溢れ出る。ぶしゅぶしゅと音を立て、泡立ったそこから腐臭がした。


 その遊びに飽きたように少女は不意に手を止めた。

 困惑で瞳を泳がせる女を見下ろしながら、右手を、勢い良く振り下ろした。


「きえてよ」


 刃は音も立てずに沈んで、切り口からは泡立った液体が溢れた。




  *  *  *




 雲間から顔を出した夕日が、雨の匂いを消していく。その空気を吸いながら、少女は空を仰いだ。

 海猫が飛んでいた。

 ガラス戸に手をかける。そこに映った姿に目を向けることもなく、少女はひんやりとした待合室に体を滑り込ませた。

 受付の看護婦が微笑んだ気がしたが、それを目の端に追いやる。


 廊下の突き当たり。

 今日も日は差さない。


「望月青年」


 青く影を落とす病室に、少女は声をかけた。

 青年が、こちらに目を向ける。その微笑に安堵して、一歩、踏み出した。

 冷たい響きを持って、靴音が病室に響いた。


「今日は遅かったね」

「……うん」

「今日は、雨だったよ」

「…………うん」

「でもね、さっきから晴れたんだ」

「……あのね、…………あの、ね――」


 少女は俯いた。

 唇を強く噛む。血の味が、口に広がった。

 まだ雨の匂いが混じる風がカーテンを翻し、少女の腕を撫でた。


 大きく、息を吸う。


「失敗しちゃった」


 青年は平生と変わらぬ瞳で少女を見ていた。

 指の動きを止め、じっと少女が話し出すのを待っていた。

 少女の頬に、青く影が落ちる。そこに流れる涙もまた、透明な青だった。


「母さんをね、大嫌いな、あの女をね――酷い目にあわせてやろうと思ったんだけどね、私ね、出来なかった」


 搾り出すような声だった。

 カーテンがまた風に翻って、ばさばさと音を立てて少女と青年の視界を遮った。隠されて、また現れて、そうしてかすかに覗く青年の顔を探しながら、言葉を探した。

 頬に、青い雫が伝って落ちた。


「ねぇ、にいさ……」

「だいじょうぶだよ」


 風が止んだ。

 生き物のように彼らを遮っていたカーテンも、力を失って窓の外の世界へ吸い込まれていく。


 青年の顔が見えた。


「人間は、嘘つきだから」


 彼は、優しく笑ってそう言った。


 にゃあ。


 窓の外に目を遣る。

 木の実のようなくりくりした瞳が、こちらを見ていた。





「望月さん……!」


 声に呼ばれるまま振り返る。

 長い髪を振り乱して、看護婦がこちらへ走ってくるのが見えた。

 少女は立ち止まって、彼女を待つ。


 少女に近づいてきて、彼女は息を整えながらそれでも何か言わなくてはという瞳でこちらを見ていた。


「……あのっ、お母様とは、……連絡、つきましたっ……?」


 切れ切れにそう問う声が優しかった。

 少女は目を閉じる、ほんの一瞬。そして、頷いた。だいじょうぶです、ありがとう。

 押し付けた言葉に看護婦は悲しげな表情を見せ、まだ何か言い淀んでいた。


「あの……お兄さんのこと、だけど……」

「ええ」


 彼女が言葉を続ける前に、少女が唇を開いた。

 震える声を、その心中を、全てをひた隠しにしながら。


 幼い声が、少女の唇から細く紡がれた。


「兄がどんな風になっても、私は、兄の妹です。……だけど、兄にとって、私は……」


 海猫が旋回し、太陽を横切って時折光を遮った。

 ちかちかと光が届いたり届かなかったりして、少女の表情を読めなくした。


「私は、少女Aですから」


 困ったように笑う。

 本当にどうしていいか分からない時、そうするしかないのだな。

 冷えきった頭の隅で、少女は独り呟いた。


 海猫が鳴く空を仰ぎ見ながら、いつもの帰り道を歩く。

 海は凪いで、潮風も穏やかに吹いていた。


 体中を巡るこの感情は、決して骨肉にはならない。自分を支えてはくれない。

 ただ、自分を腐らせてゆくだけだ。


 早く捨ててしまおう。

 再び空を仰ぎ見て、少女はそこにぽつりと浮かぶ白い点を見つけた。


 ああ――。


 徐々に近付くそれを目で追い、やわらかく、ないた。


「にゃあ」


 涙が一筋溢れた。


 それに応えるようにして鳴いた海猫の声を、少女はどこか遠くに感じていた。








 終


 あらすじがあらすじになっていないのは気にしないで下さい。


 中学生か高校生の時に書いたと思われるものに色々付け足して、直していくうちに予想以上に長くなってしまいました。



 もしもここまで読んで頂けたのなら幸いです。

 あなたの貴重なお時間を割いて頂き、心から嬉しく思います。


 あなたにとって意味のある物語であったのなら、作者冥利に尽きます。



 ご意見、ご感想などあればどうぞ遠慮なく。

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― 新着の感想 ―
[一言] 文章の表現が柔らかく、時々現れる不吉な翳りをより一層引き立てているように感じられました。作中で出てくるの色のほとんどが青や黒であるところも統一感があってよかったと思います。とてもおもしろかっ…
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