父と子
父と子
こちらに着いて三日目、移動疲れと前の日に一日中あらゆるところを動き回っていたツケが来たのか、体調がおかしくなった。
その日から気温が急激に下がり冷え込んだのだが、それ以上に服を何枚重ね着しても、布団にくるまっていても、震えが止まらない。そういえば数日前まで頭痛がしていたし、喉も乾燥しているようだ。鼻水も多少出ている。お腹の調子もよくない。
熱を測ってみた。自宅には水銀計しかなかったが、目盛りは三十七度五分を指していた。
平熱が三十六度台後半で、三十七度前半になるときもたまにあるが、ここまで熱があるのはちょっとおかしい、と思い、少し大きめの病院しか空いていない日だったため、そこまで連れていってもらった。すべては翌日のためだ。
受付を済ませ、内科の待合室で待つ。問診票と体温計を渡され、再度熱を測ることとなった。数字は変わっていなかった。
こちらへ来る数日前、看護科が設置されている高校の戴帽式の記事をインターネット上で読んでいた。どの高校も看護科の学生の募集を停止する、という記事に多少の寂しさを感じていた。ちょうどその病院にもどこかの高校からであろう、看護実習生が各科に配置されていた。
夕方に近い時間、診察待ちの外来患者がいない科に配属されていた実習生はどこかへ行っているのであろう指導ナースの帰りを待ちわびていた。
その様子を見ながら、母と私は話していた。
「お父さんも実習とか大変だったんかな。後輩たちはピアノが弾けないと単位が取れないって必死で練習してたみたいだし」
「どうにかこうにかだったんじゃないかなぁ。でも、やっぱりピアノが弾けないからって子どもたちにはバカにされていたみたいよ。だから知り合いに相談して校種を変えたみたいだし。かなり頑張って勉強してたよ。」
初耳だった。衝撃に近かった。
今はもう定年を遥かに過ぎた私の父は、大学を出てすぐは小学校の教師をしていた。しかし、あるときから高校の教師になったのだ。そのいきさつなど、一切これまで知らなかった。
自分がバカにされたから、自分の娘たちにはピアノを弾けるようになってほしかったのかもしれない。しかし、姉二人だけで、私には強要しなかった。姉は二人とも教師にならなかったからだろうか。
私も小学校の教員免許は所持していない。当然、ピアノも弾けない。しかし、毎日ニュースを見、新聞を読んで育ってきたため、高校の教員免許のみではあるが父親と同じ社会科(現在は地理歴史科・公民科)を取得する道を選び、大学院まで進むこととなった。
私は父とうまく折り合いが合わず、喧嘩も度々していた。特に大学を出る頃には激しくなり、悩みの種の一つでもあった。
しかし、父親の影響を受けてこの資格を得たことに変わりはない。
今回母からこの話を聞いたことで、人知れず父も苦労を重ねていたのだな、と思い、少しだけ敬意を抱いた。
ちなみに診察の結果は喉から来る熱ということで抗生物質と喉の腫れを抑える薬、解熱剤を処方され、熱はその日のうちにほぼ平熱に落ち着いた。