【2-1】咆哮
「——伏せろ」
その声に、私は反射的に地面に伏せた。
次の瞬間——頭上を、何かが通り過ぎた。
風圧。そして——
ギャインッ!
魔獣の悲鳴。
顔を上げると——信じられない光景が広がっていた。
黒い影が、魔獣の前に立っていた。
いや、影ではない。人だ。
黒髪を後ろで一つに結んだ、長身の男。黒い鎧を纏い、手には血に濡れた剣を握っている。
魔獣は——その腹を、一撃で切り裂かれていた。
「グルル......ッ」
傷を負いながらも、魔獣は男に向かって跳びかかった。
でも——
男は動じなかった。
むしろ——一歩、前に出た。
剣が閃く。
私の目では、動きを追うことすらできなかった。
ただ——気づいた時には、魔獣は地面に倒れ伏していた。
首から上を、失って。
「......っ」
息を呑む。
圧倒的だった。
魔獣を、たった二撃で。まるで、紙でも切るかのように。
男が、振り返った。
銀灰色の鋭い瞳が、私を射抜くように見つめる。
「......何者だ」
低い声。
怖い、と思った。
でも——同時に、気づいた。
この人が、私を助けてくれたのだ。
「こんな場所を一人で歩く馬鹿がいるとはな」
男の声は、どこまでも無愛想だった。
「す、すみません......道に、迷って......」
「立てるか」
「あ、足を......捻って......」
私が足首を押さえると、男は小さく舌打ちをした。
「使えん」
その言葉に、胸が締め付けられた。
——使えない。
そうだ。私はいつだって、使えない女だ。
でも——
「......お前、何者だ」
男が、再び問いかけてきた。
「名乗れ」
「リーネ......リーネ・フローレンス、です」
「職業は」
「......調香師、です」
その言葉を聞いた瞬間——男の目が、変わった。
鋭かった眼差しに、別の光が宿る。
「調香師だと?」
「は、はい......元、宮廷調香師、です......」
「......」
男は、黙って私を見つめた。
そして——不意に、鼻を動かした。
「......お前の香り。魔獣避けになるな」
「え?」
「身につけている香り袋。自分で調合したものか」
香り袋——
言われて気づいた。追放される前に作った、安眠のための香り袋を、まだ持っていたのだ。
「は、はい......でも、これは魔獣避けではなく——」
「素材の選び方がいい。無意識にそうなったのだろうが、魔獣が嫌う香りになっている」
男は、断言した。
その目は——私の調香を、評価していた。
「お前、行く当てはあるのか」
「......いえ」
「仕事は」
「......ありません」
「そうか」
男は、一拍置いて言った。
「——雇ってやる」
「......え?」
「聞こえなかったか。雇ってやると言った」
「で、でも、私は......」
「お前の調香が使えるかどうかは、これから試す。使えなければ追い出す。それでいいな」
有無を言わさぬ口調だった。
私は——呆然としたまま、目の前の男を見上げた。
「あの......あなたは......」
「ヴァルター・ローゼンハイン」
男は、名乗った。
「黒獅子騎士団の団長だ」
黒獅子騎士団——
馬車の中で聞いた名前が、頭の中で響いた。
「——来い」
ヴァルターと名乗った男は、そう言って背を向けた。
でも、私は動けなかった。
足首が痛む。立ち上がることすら、できない。
「......立てないのか」
振り返ったヴァルターの声に、私は俯いた。
「す、すみません......」
「......仕方ない」
次の瞬間——私の身体が、宙に浮いた。
「っ!?」
抱き上げられていた。
ヴァルターの腕に、横抱きにされている。
「な、何を......!」
「歩けない奴を置いていくわけにはいかん。暴れるな」
低い声で制されて、私は身を固くした。
鎧越しでも伝わる、男の体温。筋肉の硬さ。
心臓が、煩いほどに鳴り始めた。
◇◇◇
森を抜けると、開けた場所に出た。
そこに——一頭の馬が待っていた。
漆黒の毛並み。大きな身体。そして——知性を感じさせる、深い瞳。
「ノクス」
ヴァルターが名を呼ぶと、馬は鼻を鳴らして近づいてきた。
「俺の馬だ。——お前を乗せる」
私を地面に下ろし、ヴァルターは馬に近づいた。
「乗れるか」
「あ、あの......一人で、ですか?」
「いや」
ヴァルターは、ひらりと馬に跨った。
そして——私に、手を差し出した。
「俺の前に乗れ。落ちないように支えてやる」
「え......」
二人乗り?
この人と——?
「早くしろ。夜が深くなる前に城塞に戻りたい」
有無を言わさぬ声に、私は差し出された手を取った。
大きな手。硬い皮の手袋越しでも、その力強さが伝わってくる。
引き上げられるように、馬上に座らされた。
ヴァルターの——前に。




