【1-5】辺境の大地
七日目。ついに、馬車は目的地に到着した。
「——ローゼンハイン辺境伯領だ!」
御者の声に、乗客たちが顔を上げた。
私も幌の隙間から外を覗き込む。
そして——息を呑んだ。
荒涼とした大地。灰色の岩山。そして——遠くに聳える、白い山脈。
氷結山脈だ。
空気が変わった。乾いていて、冷たい。でも、不思議と嫌な感じはしない。
むしろ——清々しい。
「ここからは空気が違うでしょう?」
おばさんが、私の横に立った。
「辺境の空気は魔素が濃いの。身体にはいいらしいわよ」
魔素が濃い——
言われてみれば、確かに何かが違う。調香師として培った感覚が、この土地の特別さを感じ取っていた。
「......香りがする」
思わず呟いていた。
土の香り。風に乗って漂う、野草の香り。そして——何か、甘いような、清涼感のある香り。
「ここには......たくさんの香りがある」
私の調香師としての本能が、この土地の可能性を感じ取っていた。
◇◇◇
馬車は街道沿いの停留所で止まった。
「ここから領都ノルデンまでは、まだ少しあるよ」
御者が乗客たちに告げた。
「街道を真っ直ぐ行けば、日が暮れる前には着けるはずだ」
乗客たちが次々と馬車を降りていく。私も、おばさんに続いて地面に足を下ろした。
辺境の大地を、初めて踏みしめる。
「お嬢さん、気をつけてね」
おばさんが、私に声をかけた。
「ありがとうございました。道中、色々教えていただいて......」
「なに、困った時はお互い様よ。——ああ、そうだ」
おばさんは、ふと何かを思い出したように言った。
「街道をずっと行くのもいいけど、あそこの森を抜けると近道になるの。地元の人はみんな使ってる道よ」
森——
指差された方向を見ると、確かに街道の脇に森が広がっていた。
「でも、初めての人には分かりにくいかもしれないわね。目印は、大きな岩よ。それを右に曲がって、ずっと真っ直ぐ——」
おばさんは丁寧に道順を教えてくれた。
「ありがとうございます」
「気をつけてね。——ああ、でも日が暮れる前に抜けるのよ。夜の森は危ないから」
そう言って、おばさんは別の方向へ歩いていった。
私は——少し迷った後、森への道を選んだ。
街道を行けば安全だろう。でも、早く着きたかった。
この土地で、一刻も早く新しい生活を始めたかった。
森の入り口に立ち、深呼吸をする。
木々の香りが、肺を満たした。
「......行こう」
私は、森の中へと足を踏み入れた。
◇◇◇
最初のうちは、順調だった。
おばさんの言った通り、大きな岩があった。それを右に曲がり、真っ直ぐ進む。
木漏れ日が差し込む森の中は、思っていたより明るかった。
でも——
「......おかしいな」
どれくらい歩いただろう。一刻ほどは経ったはずだ。
なのに、森を抜ける気配がない。
むしろ——木々が、だんだん深くなっている気がする。
「道を......間違えた?」
焦りが、胸の奥で芽生え始めた。
来た道を戻ろうとして——気づいた。
どちらから来たのか、わからない。
周囲を見回しても、同じような木々が並んでいるだけだ。目印になるものが、何もない。
そして——空を見上げると、木々の隙間から見える空が、茜色に染まり始めていた。
日が、暮れようとしている。
「......落ち着いて」
自分に言い聞かせる。
大丈夫。どこかに出口はあるはずだ。どちらかに歩けば、いつか森は終わる。
私は、最も開けていそうな方向を選んで、歩き始めた。
でも——歩けば歩くほど、森は深くなっていく。
日はどんどん傾き、木々の間に影が伸びていく。
そして——
「......っ」
遠くから、何かの鳴き声が聞こえた。
低い、唸るような声。
——獣の声だ。
私の足が、止まった。
魔獣。
辺境には、魔獣が出る。馬車の中で、何度も聞いた話だ。
「嘘......」
声が震える。
鳴き声が、また聞こえた。
さっきより——近い。
私は、走り出した。
どこへ行けばいいのかわからない。でも、止まっていられなかった。
木の根に足を取られそうになりながら、必死で走る。
背後から、何かが追いかけてくる気配。
「誰か......!」
叫んでも、森の中に声が吸い込まれていくだけだ。
誰もいない。誰も助けてくれない。
——私は、また一人だ。
その時、足が何かに引っかかった。
「きゃっ——!」
地面に倒れ込む。
起き上がろうとして——足首に、鋭い痛みが走った。
「っ......!」
捻った。足首を、捻ってしまった。
立ち上がれない。動けない。
そして——
茂みが、揺れた。
赤い目が、闇の中で光っている。
魔獣だ。
狼のような姿。でも、普通の狼より遥かに大きい。肩口まで、私の腰ほどもある。
牙を剥き出しにして、低く唸っている。
——終わりだ。
そう思った。
私は、こんなところで死ぬのだ。
誰にも知られず、誰にも惜しまれず。
「誰でも代わりがきく」——その言葉通りに。
魔獣が、後ろ足に力を込めた。
跳びかかろうとしている。
私は——目を閉じた。
その時——
「——伏せろ」
低い声が、闇を切り裂いた。




