【1-3】最後の選択
教会の軒先で夜を明かした私は、翌朝、出発の準備を整えた。
といっても、準備するものなど何もない。母の形見の香油瓶と、小さな乳鉢。それから、神父様がくれたパンの残り。
それだけが、私の全財産だった。
「——行ってらっしゃい」
見送りに出てきてくれた神父様に、私は深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「なに、困った時はお互い様だ。……辺境は厳しい土地だが、人の心は温かいと聞く。きっと大丈夫だ」
大丈夫。
その言葉が、少しだけ心を軽くしてくれた。
「では——失礼します」
私は教会を後にし、西門の馬車乗り場へと向かった。
◇◇◇
馬車乗り場には、すでに何人かの乗客が集まっていた。
大きな幌馬車。荷台には木箱や袋がぎっしりと積まれ、その隙間に座席が設けられている。
「おう、来たか。乗りな」
御者の男性が、私を手招きした。
荷台に乗り込むと、すでに先客が数人座っていた。
商人風の中年男性。旅慣れた様子の若者。そして——荷物を山ほど抱えた、恰幅のいいおばさん。
「あら、若いお嬢さんね。一人旅?」
おばさんが、明るい声で話しかけてきた。
「は、はい……」
「そう。私は行商でね、もう何度も辺境と王都を行き来してるの。何か困ったことがあったら、遠慮なく言いなさいね」
「あ……ありがとうございます」
思いがけない優しさに、胸が温かくなる。
王都にいた頃、貴族たちはいつも私を「庶子」と蔑んでいた。宮廷の人々は、私の調香を利用するだけで、私自身を見ようとはしなかった。
なのに——こんな、名前も知らない人たちが、当たり前のように優しくしてくれる。
世界は、私が思っていたより、ずっと広いのかもしれない。
「——出発するぞ! しっかり掴まってろ!」
御者の声と同時に、馬車がゆっくりと動き出した。
車輪が石畳の上を転がる音。馬の蹄が地面を蹴る音。
王都の西門をくぐり抜け、北へ向かう街道に出た。
私は幌の隙間から、遠ざかっていく王都を見つめた。
高い塔。白い城壁。煌めく王城——
全てが、どんどん小さくなっていく。
さようなら、王都。
さようなら、私の——かつての居場所。
目頭が熱くなった。でも、涙は流さない。
前を向くんだ。
私は幌の隙間から顔を離し、北の空を見据えた。
辺境へ。
新しい場所へ。
——そこに、私の居場所があることを、信じて。
◇◇◇
馬車の旅は、思った以上に過酷だった。
揺れる荷台。硬い座席。そして、延々と続く単調な景色。
最初の一日は、まだ良かった。王都の郊外には畑が広がり、のどかな農村の風景が続いていた。
けれど、二日目、三日目と進むにつれ、景色は次第に荒れていった。
緑が減り、岩山が増える。空気が乾き、風が冷たくなる。
そして——
「あれが、大森林だ」
四日目の朝、御者が指さした先には、深い緑の帯が地平線まで続いていた。
大森林。王都と辺境の間に横たわる、広大な森林地帯。魔獣が棲むと言われる、危険な場所だ。
「ここからは気を引き締めてくれ。何かあったら、すぐに声を出すんだ」
御者の言葉に、乗客たちの顔が引き締まった。
私も、自然と背筋が伸びた。
——大丈夫。きっと、大丈夫。
自分に言い聞かせながら、私は森の中へと続く道を見つめた。
木々の間から差し込む光が、どこか不気味に揺れていた。




