【1-2】雨の王都
出発までの二日間、私は王都の片隅で過ごした。
安宿に泊まる余裕はもうない。残った金貨は一枚だけ——辺境に着いてから、何かあった時のために取っておかなければ。
だから私は、行く当てもなく街を彷徨った。
初日は晴れていた。公園のベンチに座り、道行く人々を眺めながら、ぼんやりと時間を過ごした。
けれど、二日目——つまり、出発前日の朝から、空模様が怪しくなってきた。
「……降りそうだな」
灰色の雲が低く垂れ込め、空気がじっとりと湿り気を帯びている。
調香師の鼻は、天候の変化にも敏感だ。雨の匂い——土と埃と、少しの苦み——が、かすかに漂っていた。
昼過ぎには、案の定、雨が降り始めた。
最初はぽつぽつと。やがて、本降りに。
私は慌てて軒先に駆け込んだ。近くにあった商店の庇の下で、雨宿りをさせてもらう。
「……っ」
冷たい。濡れた服が身体に張り付いて、芯から冷えていく。
宮廷にいた頃は、雨が降れば侍女が傘を差し出してくれた。暖炉の前で温かい紅茶を飲みながら、雨音を聞くのが好きだった。
なのに今は——
「……何やってるんだろう、私」
思わず、自嘲の笑みが漏れた。
こんなところで、一人で雨に打たれて。惨めだ。情けない。
でも、泣いている場合じゃない。明日は馬車が出る。それまで、何とか持ちこたえなければ。
雨は夕方まで降り続いた。
私はずっと、その軒先に立っていた。何度か店の人に声をかけられたけれど、「すぐに行きます」と言って、やり過ごした。
実際には、行く場所なんてなかったのだけれど。
日が暮れる頃、ようやく雨が止んだ。
私は濡れた身体を引きずるようにして、街を歩き始めた。どこか、眠れる場所を探さなければ。
そして——見つけたのが、小さな教会だった。
◇◇◇
「——失礼します」
教会の扉を押し開けると、中は薄暗かった。
蝋燭の灯りがいくつか揺れている。祭壇には、香りの女神アロマリアの像が飾られていた。
——香りの女神。
思わず、足が止まった。
調香師にとって、アロマリア様は特別な存在だ。私たちの技術は、女神から授かったものとされている。
私は自然と、祭壇の前で膝をついていた。
両手を組み、目を閉じる。
「……女神様」
声は、かすれていた。
「私は——私は、調香師として、間違っていたのでしょうか」
返事はない。当たり前だ。神様が、こんな私の言葉に耳を傾けてくれるはずがない。
「エリオット様のために、一生懸命調香してきました。宮廷のために、役に立とうとしてきました。なのに——」
なのに、「誰でも代わりがきく」と言われた。
私の努力は、何だったのだろう。私の存在は、何だったのだろう。
「……これから、どうすればいいのですか」
問いかけても、女神様は何も答えてくれない。
静寂だけが、教会を満たしていた。
どれくらいそうしていただろう。
ふいに、背後から声がかけられた。
「——お嬢ちゃん」
振り返ると、老齢の神父が立っていた。白い髭を蓄えた、穏やかな顔つきの人だ。
「腹は空いていないかね?」
差し出されたのは、小さなパンと、温かいスープ。
私は——思わず、目を見開いた。
「あ……ありがとう、ございます……」
声が震える。涙が出そうになる。
こんな、見ず知らずの私に、こんなに優しくしてくれる人がいるなんて。
「どこか遠くへ行くのかね?」
神父は、私の隣に腰を下ろした。
「……北へ。辺境へ行きます」
「そうか。大変な道のりだな」
神父は優しく微笑んだ。
「女神の加護があらんことを。——きっと、お前さんを必要としている場所があるはずだ」
必要としている場所。
そんなところが、本当にあるのだろうか。
パンを齧りながら、私はただ北の空を——窓の向こうの、暗い夜空を見つめていた。




