【2-4】城塞の夜
城塞の中を歩きながら、私は周囲を見渡した。
石畳の道。整然と並ぶ建物。あちこちに灯る篝火。
厳しい土地にあるとは思えないほど、しっかりとした造りだ。
やがて、ヴァルターは一つの建物の前で足を止めた。
石造りの、こぢんまりとした建物。でも、窓は大きくて、日当たりが良さそうだ。
「ここが、お前の工房だ」
「え......?」
工房——?
言われた意味が、すぐには理解できなかった。
「調香師には工房がいるだろう。ここを使え」
私のための、工房——?
信じられなかった。まだ何も証明していないのに。使えるかどうかもわからないのに。
なのに、もう工房を用意してくれている?
「中を見ろ」
ヴァルターに促され、私は工房の扉を開けた。
そして——息を呑んだ。
「これは......」
暗がりの中でも充実しているであろうことが見てとれた。
「辺境にも調香師はいた。去年の魔獣襲撃で死んだがな」
ヴァルターの声は、どこまでも無愛想だった。
「ここの設備は、そいつが使っていたものだ。足りないものがあれば言え」
奥にある扉を指すとくるりと背を向けた。
「隣が、お前の部屋だ。今日は来客用の部屋で休め。明日、誰かに案内させる」
「あの——」
思わず、声をかけていた。
ヴァルターが振り返る。銀灰色の瞳が、私を見つめていた。
「......なぜ、私を雇ってくれるんですか」
わからなかった。本当に、わからなかった。
追放された身。何の後ろ盾もない、ただの女。そんな私を、なぜ——
「お前の香りが使えるからだ」
ヴァルターは、さっきと同じことを言った。
「騎士団は、常に魔獣と戦っている。魔獣避けの香り、傷の治りを早める香り、疲労を回復させる香り——そういったものがあれば、騎士たちの負担は減る」
「......」
「だから、雇うと言った。——使えるなら、だが」
使えるなら。
その言葉に、私は胸を締め付けられた。
——使える。私は、使える人間でいなければ。
ここで役に立てなかったら——また、捨てられる。
「......必ず、お役に立ちます」
私は、深々と頭を下げた。
「必ず、皆さんのお役に立ってみせます」
ヴァルターは——何も言わなかった。
ただ、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、その瞳が揺れたような気がした。
気のせいかもしれない。
でも——
「......早く休め。明日は長くなる」
そう言って、ヴァルターは踵を返した。
その背中が、夜の闇の中に消えていく。
一人残された私は——工房の中で、しばらく立ち尽くしていた。
◇◇◇
この日、私に与えられた部屋は、質素だが清潔だった。
木製のベッド。小さな机と椅子。窓からは、中庭が見える。
王都の私室より狭い。でも——不思議と、居心地が悪くなかった。
ベッドに腰を下ろし、ふと窓の外を見た。
空には、星が瞬いている。
馬上から見た、あの満天の星空。
「......お母さん」
呟きながら、母の形見の香油瓶を取り出した。
「私、ここで——頑張ってみるね」
答えはない。当たり前だ。
でも——不思議と、希望のようなものが、胸の奥で芽生え始めていた。
柔らかなベッドに横になると——知らないうちに、涙が頬を伝っていた。
悲しいからじゃない。
「屋根のある場所で眠れる」という——ただ、それだけの安堵から。
七日間の旅路。雨の王都。一人で彷徨った夜。
そして——森で魔獣に襲われて、死を覚悟した瞬間。
全てが、走馬灯のように蘇ってくる。
でも——今、私は生きている。
屋根のある場所で、柔らかいベッドの上で、眠ることができる。
それだけで——それだけで、十分だった。
私は涙を拭い、目を閉じた。
明日から——新しい生活が始まる。
どうか——どうか、ここが、私の居場所になりますように。




