私の香りは、もう誰にも届かない
宮廷の大広間は、今宵も華やかな光に満ちていた。
天井から吊り下げられた黄金の燭台が、幾百もの蝋燭の灯りで空間を照らし出す。壁際には色とりどりの花が活けられ、甘い香りが漂っている——けれど、調香師である私の鼻は、その香りの奥に潜む腐敗の気配を嗅ぎ取っていた。
見栄と虚栄。嫉妬と侮蔑。この宮廷に満ちているのは、花の香りなどではない。
「——リーネ・フローレンス」
私の名を呼んだのは、婚約者——いえ、かつての婚約者と言うべきでしょう——エリオット・セルヴィア。
金糸のような髪を優美に流し、宝石のような碧眼を細める彼は、誰もが認める王国随一の美男子だ。宮廷魔導師の筆頭にして、セルヴィア侯爵家の嫡男。輝かしい経歴、申し分のない家柄、そして人を惹きつける美貌。
私が、どれほど彼に焦がれていたか。
彼の役に立ちたいと、どれほど願っていたか。
けれど今、彼の唇から紡がれる言葉は、私の心を容赦なく切り裂いていく。
「——よって、本日をもって、リーネ・フローレンスとの婚約を破棄する」
大広間にどよめきが走った。
貴族たちのざわめき。ひそひそ話。嘲笑。
——ああ、また聞こえる。あの言葉が。
『やはりね』
『庶子のくせに宮廷調香師だなんて』
『身の程知らずもいいところ』
私は——震える手で、胸元に縋りつくように触れた。
そこには、母の形見の小さな香油瓶がある。いつも肌身離さず持ち歩いている、私の唯一の宝物。
どうか、どうか落ち着いて。
私は調香師。香りを操る者。どんな時でも冷静に——
「君の調香なんて」
エリオットの声が、私の思考を断ち切った。
「——誰でも代わりがきく」
その瞬間。
世界から、全ての音が消えた。
代わりがきく。
誰でも。
私じゃなくても。
「っ——」
足から力が抜けていく。視界が歪む。天井の燭台の灯りが、涙で滲んで揺れた。
——違う。
違う、違う、違う。
私は、私の調香は——
「リーネ」
気づけば、エリオットが目の前に立っていた。彼の瞳に、かつて私に向けられていた穏やかな光はもうない。あるのは、用済みの道具を見るような、冷ややかな視線だけ。
「セレスティア殿下のご意向でね」
殿下。
その言葉に、私は反射的に視線を巡らせた。
大広間の上座——そこには、プラチナブロンドの髪を優雅に結い上げた女性が座っていた。第二王女、セレスティア・ヴェルディア殿下。王位継承権を持つ、王国の至宝。
彼女の紫水晶のような瞳が、私を見下ろしている。
冷たい。どこまでも冷たい眼差しだった。
「——加えて」
エリオットの声が続く。私を現実に引き戻す、残酷な刃のように。
「宮廷調香師の地位も、本日付で剥奪される。君には、いくつかの重大な規律違反の疑いがかけられている」
「え——」
規律違反?
何のことだかわからない。私は、私は何も——
「調香素材の横領。王家秘伝の香油製法の漏洩。そして——」
エリオットは一拍置いて、残酷な言葉を放った。
「——王族への毒物混入未遂」
ざわめきが、悲鳴のような叫びに変わった。
貴族たちが私から距離を取る。まるで私が穢れた存在であるかのように。
違う。
私はそんなことしていない。
私は——
「お、お待ちください! 私はそのような——」
声を上げようとした瞬間、近衛騎士たちに両腕を掴まれた。
「っ——!」
抵抗しようともがいた拍子に、腰に下げていた調香道具入れの紐が切れた。
かしゃん、と乾いた音を立てて、中身が床に散らばる。
小瓶。乳鉢。調合用の匙。乾燥させた花弁。——私の調香師としての全て。
「あ——」
手を伸ばそうとするけれど、騎士たちに押さえつけられて動けない。
床に転がった小瓶が、一つ、また一つと踏み砕かれていく。
貴族たちの靴の下で。
私の、私の調香が——
「リーネ・フローレンス」
エリオットの声が、最後通告のように響いた。
「本日中に王城を去れ。二度と宮廷に近づくことは許されない」
追放——。
その言葉が、ようやく私の中に染み込んでいく。
ああ、そうか。
私は、捨てられたのだ。
五歳で母を亡くし、伯爵家では「汚らわしい庶子」と蔑まれた。十二歳で調香の才能を見出され、宮廷調香師見習いとなった時、ようやく自分の居場所を見つけたと思った。
誰かの役に立てる。必要とされる。それだけが私の存在意義だった。
なのに——
なのに、「誰でも代わりがきく」。
結局、私はどこにも必要とされていなかった。
「——連れて行け」
エリオットの命令に従い、騎士たちが私を引きずっていく。
大広間を出る直前、私は振り返った。
華やかな灯り。豪奢なドレス。冷ややかな視線。
そして——床に散らばったままの、私の調香道具たち。
誰も、拾い上げようとする者はいない。
ああ——
私の香りは、もう誰にも届かない。
視界が涙で滲む中、私は最後に一つだけ、はっきりと見た。
大広間の奥、柱の影に佇む一人の男性。
黒髪をきっちりと撫でつけ、切れ長の灰青色の瞳を持つ、長身の人影。
——ギルバート。
かつて、フローレンス伯爵家で執事を務めていた人。幼い頃から、誰も私を顧みない屋敷で、唯一私を「お嬢様」と呼んでくれた人。
彼が、なぜここに?
問いかける暇もなく、私は大広間から引きずり出された。
重い扉が閉まる音が、まるで私の人生に下された終止符のように響いた。
◇◇◇
王城の裏門から放り出されたのは、もう陽が傾き始めた頃だった。
私の手元には、最低限の衣服と——奇跡的に残っていた、母の形見の香油瓶だけ。
あとは、何もない。
金貨も、身分証も、調香師としての免状も——全て取り上げられた。
文字通り、着の身着のまま。
茜色に染まる空を見上げて、私は呆然と立ち尽くした。
——これから、どうすればいいのだろう。
帰る場所はない。フローレンス伯爵家には、元より私の居場所などなかった。
頼れる人もいない。宮廷で築いた人間関係は、全て「宮廷調香師」という肩書きあってのもの。肩書きを失った今、誰が庶子崩れの私に手を差し伸べるだろうか。
空っぽだ。
私には、何もない。
「——お嬢様」
ふいに、背後から声がかけられた。
聞き慣れた、落ち着いた低音。
振り返ると——そこに、ギルバートが立っていた。
「ギルバート……さん……?」
どう呼んだらいいか決めあぐね、とっさに敬称を付ける。ここで「さん」を付けるのは、おかしなことではないはずだ。
けれど彼は、僅かに目を伏せた。
「——私がもうお嬢様と呼ぶことは、もう許されませんね」
「え?」
「私は先ほど、伯爵家に辞表を提出して参りました」
驚いて目を見開く私に、ギルバートは静かに続けた。
「お嬢様——いえ、リーネ殿。あなたがどこへ行かれようと、私は……」
彼の言葉が、途中で止まった。
切れ長の瞳が、僅かに揺れている。いつも完璧な執事であり続けた彼の、珍しい動揺。
けれど——私は首を横に振った。
「ギルバートさん。あなたまで、私に付き合う必要はありません」
「リーネ殿」
「私は——私は、追放されたんです。規律違反者として。そんな私に関わったら、あなたまで……」
声が震える。涙が溢れそうになる。でも、ここで泣いてはいけない。彼の前で、これ以上惨めな姿を晒してはいけない。
「……お嬢様」
ギルバートの私の呼び方が揺らいでいる。
彼の手袋をはめた手が、そっと私の頬に触れる——かと思った瞬間、その手は途中で止まった。
「……申し訳ございません。出過ぎた真似を」
彼は一歩下がり、深く頭を下げた。
「ただ、一つだけお伝えしたいことがございます」
「……何ですか?」
「——辺境に、向かわれませ」
辺境。
その言葉に、私は眉を顰めた。
「ローゼンハイン辺境伯領です。北の最果て、氷結山脈の麓。魔獣がはびこる危険な土地ではありますが……」
ギルバートは顔を上げ、真っ直ぐに私を見た。
「あの地には、お嬢様の力を必要とする者たちがおります」
「私の……力?」
「調香の力です。あの地の騎士団は、魔獣との戦いに明け暮れております。お嬢様の香魔法は、必ずや彼らの助けとなるでしょう」
私の、香魔法が——?
「誰でも代わりがきく」。
エリオットの言葉が、脳裏をよぎる。
「……私なんかの調香が、誰かの役に立つでしょうか」
自嘲気味に呟くと、ギルバートの瞳に、一瞬だけ鋭い光が宿った。
「お嬢様」
彼の声が、僅かに強くなった。
「あなたの調香は——あなたにしか作れないものです。それを、どうか忘れないでください」
私にしか、作れない——?
その言葉の意味を問いかけようとした時、彼はすでに踵を返していた。
「……私は、先に参ります。いつか——いつか必ず、またお目にかかれることを願っております」
去っていく背中が、夕暮れの光の中で次第に小さくなっていく。
最後に振り返ることもなく、彼は人混みの中に消えていった。
一人残された私は、手の中の香油瓶をぎゅっと握りしめた。
辺境。
ローゼンハイン辺境伯領。
王都から遠く離れた、誰も私を知らない場所。
「……行ってみよう」
呟いた声は、自分でも驚くほど静かだった。
どうせ、ここには何もない。失うものも、もう何もない。
だったら——せめて、誰かの役に立てる場所へ。
私は涙を拭い、北の空を見上げた。
茜色の空の向こうに、氷結山脈の白い峰が霞んで見える——ような気がした。
そこに、私の居場所は、あるのだろうか。
まだ、わからない。
けれど——
立ち止まっていても、何も変わらない。
私は一歩を踏み出した。
王都の喧騒を背に、まだ見ぬ辺境の地へ向かって。




