幸せいっぱいのベビーシャワー【1】
ダニエル視点です。
ニッカ―郡モンスター自警団の団長であるダニエルの朝は早い。
午前五時。彼は恋人であるアリアがぐっすりと眠っているベッドから起き上がり、丁寧に髭を剃る。
「ん~、何で男って髭が生えるのかしらぁ。アタシは全身つるつるでいたいから、必要ないのに」
以前、美良乃が日本では脱毛サロンに通って髭や体毛を処理している男性もいて、決して珍しくないことだと聞いた。アメリカにもそんな便利なサービスがあればいいのだが、生憎ここでは髭や体毛は男らしさの象徴として好まれているため、あってもあまり流行らないだろう。
ブチフチと文句を言いつつシャワーを浴び、着替えが済んだら朝食だ。目玉焼きとベーコン、トーストを食べ、コーヒーを一杯飲むのが日課である。
食後はきっちりと歯を磨き、まだ眠っている愛しの魔女にキスをする。
アリアはコートニーと一軒家で暮らしていたが、彼女が恋人である烏天狗の落武者と同棲を始めたのをきっかけにルームメイトを解消し、半年前からダニエルの家で一緒に暮らしている。昨年大学を卒業した彼女は地元の薬局で薬剤師として働いている。
いつもであればアリアは寝ぼけ眼を擦りながらも玄関で見送ってくれるのだが、この日は少々様子が違っていた。
「アリアちゃん、じゃあ行ってくるわね。良い一日を♡ 愛してるわ」
「ん~……ダニエル、もう行く時間?」
アリアは気だるげに呻くと上体を起こす。何だか顔色が悪い。ここ数日、吐き気がしたり熱っぽかったり、頭が割れるように痛んだりと不調が続いているせいだろう。
「起き上がらないでいいのよ、アリアちゃん。辛いようだったら、今日は仕事を休んだらどうかしら?」
「ん~……、ちょっと様子を見るわ。いってらっしゃい、ダニエル」
「行ってきます♡」
柔らかい唇にそっとキスをした時だった。
「んっ!!」
アリアは鼻に皺を寄せて顔を背け、右手で口を覆った。
「えっ? どうし」
「は、吐く……!!」
言いながら、アリアはベッドから這い出るとバスルームに飛び込んだ。扉の向こうで激しくえずいている。
ダニエルは愕然と立ち尽くした。
「いやだ……!! アタシの息、臭かったのかしら!?」
自分の掌にハーッと息を吹きかけて嗅いでみるが、実に爽やかなペパーミントの歯磨き粉の香りがするだけ。
息でないなら、加齢臭だろうか。何せダニエルがこの世に生を受けてから数百年経過している。鬼人でいえばまだまだ若いが、人間だったらオッサンやじいさんを通り越してとっくに白骨になっている年齢だ。酸化した皮脂が臭ってもおかしくはない。
「アリアちゃん、大丈夫!?」
ドア越しに声をかけると、「大丈夫だから、もう仕事に行って……」と弱々しい返答があった。
「具合の悪いアリアちゃんを置いて行けないわよ!」
数十秒後、バスルームのドアが少しだけ開き、血の気の失せたアリアが顔を覗かせた。
「いいの。大丈夫だから行って」
「でも」
「……歯磨き粉の匂いがキツイの」
「えっ??」
「だから、もう行って」
「わ、わかったわ……。何かあったら直ぐに電話してね」
彼女の懇願するような眼差しに、ダニエルはすごすごと家を出た。
自警団のオフィスに着いてからも、何だか気分が落ち込んで仕事が手に着かない。コーヒーを書類にぶちまけてしまったり、目の前に立っていた雪男のラジャンに気付かずぶつかり、転倒した拍子に床ドンしてしまったり。危うくラジャンが新しい世界への扉を開いてしまいそうになった。
そうこうしていると、昼過ぎにスマホからメッセージの受信音がして、ダニエルは文字通り跳び上がった。二メートル近い大男が室内で跳ぶと頭が天井を突き破りそうになって危ないということを、この日彼は初めて知った。
急いでメッセージを確認すると――。
『今日は残業しないで帰って来れる? あたしたち、話し合う必要があるわ』
「ひっ!!」
ダニエルは「話し合う必要がある」というフレーズに震えあがった。恋人がこれを言う時は、大抵の場合別れ話が待っているからだ。
「アタシが……、アタシの歯磨き粉が臭かったから……!!」
スマホをデスクの上に伏せ、がっくりと項垂れていると、徐にドアをノックする音がした。
「やあダニエル! 今日も全世界の賞賛を集める美貌の貴公子、ルイがやって来たよ!!」
勢いよくドアを開け放って入室してきたのは、1インチの隙もないくらいに完璧に身なりを整えたルイだった。彼は6フィートアンダーを経営する実業家でもあるため、自警団に来る時間は日によってまちまちだ。
彼の自信満々のドヤ顔を見た瞬間、ダニエルの涙腺が決壊した。
「ル、ルイちゃまぁ……!!」
「おや、どうしたんだい、ダニエル?」
そんなダニエルに、ルイが形のいい眉毛を上げた。
「ルイちゃま。アタシ、アリアちゃんに嫌われたかもしれないわ……!!」
「アリア嬢に?」
ダニエルは悲壮な面持ちで今朝の出来事をルイに話した。彼は一通り話を聴いた後、何か思い当たることでもあったのか、斜め上に視線を走らせ、大きく頷いた。
「ルイちゃま、今ので何かピンときたのね!?」
「そうだが、これは僕の口から言うべきことではないからね。なに、君が心配しているようなことは起こらないだろうと、ルイ・ド・クルール・サンティアゴ伯爵が予言しよう!」
ダニエルはルイの両肩をがっしりと掴んで揺すぶる。
「いいから! 言ってちょうだい! 今すぐ!!」
吸血鬼は身体能力が極めて高く力も強いが、鬼人には到底及ばない。鬼人は肉体による戦闘に特化した種族で、殴り合いだけなら全種族最強と謳われる竜人とも互角に戦えるほどだ。
ルイは鬼人の握力に少し顔を顰めたものの、するりと身を捻ってダニエルから距離を取った。
「まあまあ。残りの仕事は僕が片付けておくから、今日は早く帰りたまえよ!」
バチコーン!とウィンクをかますと、ルイはダニエルを団長室から追い出した。
自警団を早退したダニエルは、途中でスーパーに寄ってピンクのカーネーションとカスミソウの花束を購入した。どちらも花言葉が「感謝」や「謝罪」の花だ。
「ただいまあ……」
そろそろと家に入ると、アリアがリビングで待ち構えていた。どうやら今日は仕事を休んだらしい。まだ少し顔色が悪いが、朝よりは大分マシになったようだ。
「おかえりなさい、ダニエル」
アリアは真剣な面持ちでソファから立ち上がる。ダニエルは慌てて駆け寄り、彼女をそっとソファに押し戻した。
「具合が悪いんでしょう? 座ったままでいいのよ」
「そう? ありがとう」
ダニエルはアリアの前に跪く。買ってきた花束を差し出すと、アリアは身を固くした。ヒクリと小鼻を動かしてから、ようやく力を抜いてそれを受け取る。
「どうしたの、これ?」
「今朝はアリアちゃんに嫌な思いをさせちゃったでしょう? それのお詫びに……」
「別にダニエルのせいじゃないのに。そんなところにいないで、ここに座って?」
促されるままアリアの隣に座ったダニエルは、ごくりと唾を飲み込む。緊張で口がからからに乾き、舌が口蓋に貼りつきそうだった。
「あの、それで、話って何かしら?」
意を決して訊ねると、アリアは腰を浮かせ、コーヒーテーブルに置いてあった小さな箱を持ち上げた。大きさからしてネックレスでも入っているのだろうか。ダニエルは最愛の恋人が動作に滲ませるヒントをひとつも見逃すまいとして、彼女を凝視した。
「この箱を開けてみてくれる?」
差し出された箱を受け取る手が震える。
(アタシ、本当にアリアちゃんのことを心から愛しているんだわ。失うかもしれないって考えただけで体が硬直しちゃうくらいに)
錆びついたブリキのように動きの鈍い指を、気力だけで動かして箱を開ける。
そこにあったのは、ピンク色のキャップがついた白くて細長い板のようなものだった。長さはダニエルの掌から少しはみ出るくらいだろうか。真ん中あたりに小さな窓が二つ並んでいて、その両方にピンク色の一本線が描かれている。
目の前の光景を眼球が受け取り、視神経を通して脳に届けるまでの間が数十分に感じた。
「これって……」
ダニエルは呆然と恋人を見つめる。
アリアは悪戯が成功した子供みたいに口の端を吊り上げた。
「ふふっ、あたしたち、パパとママになるみたい」
脳みそが情報処理を怠っているのだろうか。ダニエルがその言葉と小窓に出ている二本の線が意味することを理解できずにいると、アリアはじれったそうに肩を小突いてきた。
「もうっ! 赤ちゃんができたのよ。嬉しくないの!?」
「赤ちゃん、アタシとアリアちゃんの、赤ちゃん……!!」
圧倒的な歓喜に胸が満たされ、ブワリと涙がせり上がってくる。ダニエルは勢いよくアリアを抱きしめ、「グエッ」という呻きに我に返って力を緩めた。
「ありがとう、アリアちゃん! アタシがお父さんになれる日がくるなんて……!!」
ボロボロと泣きながらアリアの頭に頬を擦りつける。彼女は宥めるようにダニエルの背中を摩ってくれた。
「ダニエルなら素敵なパパになれるわ。幸せな家族になりましょうね」
「ええっ、アタシ、誓うわ! 命を賭けてアリアちゃんと赤ちゃんを守ってみせる! 愛しているわ!」
「あたしも、愛しているわ」
二人は何度も口づけを繰り返した。熱い息の合間にアリアが「しばらくの間、激しいエッチはお預けね」と残念そうにつぶやいたのが聞こえ、思わず笑ってしまった。
すみません、急に思いついた番外編なので、1日1話の更新になります。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




