67. 12月2日【3】吊り橋効果の上手な使い方
ルイ視点です。
※すみません、今回文字数多めです。
規則正しい美良乃の呼吸音が聞こえてきて、ルイはフッと頬を緩ませた。
(怯えていたようだが、どうやら眠ったようだ。良かった)
誘拐された挙句に暴力を振るわれたのだ。それに超高速で動いていたとはいえ、ルイとカサンドラの対決も目撃している。争いとは無縁の生活を送っていた彼女の心の傷になっても何ら不思議ではない。
書類の整理にひと段落をつけて、暖炉の火の始末をする。ブランケットと枕を持ち込んでソファに身体を横たえた。
意識しているわけではないのに、数時間前の戦闘シーンが脳裏に蘇ってくる様はさながら映画のようだ。美良乃を客室に案内した後に入浴して多少は落ち着いたとはいえ、やはり気が昂っているのだろうか。疲れているはずなのに目がさえてしまう。
同じ空間に美良乃が無防備に横たわっているという事実もまた、眠りが訪れない一因となっている。
暗がりの中、ルイは寝返りを打って天井を見上げた。
(それにしても、カサンドラは本当にしつこい女だった)
カサンドラが人間を襲撃するのは、ルイが知っているだけでも二回目だ。一回目は自警団が設立される前だったため前科はつけられていないが、今回の事件を裁く際に確実に考慮に入れられる。
複数回人間を襲った吸血鬼の末路は悲惨なものだ。両方の牙を抜かれた上、他の動物――美良乃が聞いたら発狂しそうだが、魔女の大好きなカエルあたり――に姿を変えられて放逐される。刑罰で科す魔女の呪は強力で、一生元の姿に戻ることは叶わない。
(実に愚かだね。他の州で大人しくしていれば、吸血鬼の姿だけは保っていられたものを)
ルイは小さな嗤いを漏らした。
――大切な女性を二人も巻き込んだ罰にしては、あまりにも軽いけれど。
世が世であれば、ルイ直々に息の根を止めてやりたいところだが、生憎と時代がそれを許さない。モンスターは人間と波風を立てずに共存していなかければならないのだ。
ルイはふと、昔の恋人の顔を思い浮かべた。
空のように青く澄んだ瞳、緩やかなウェーブを描く濃い金色の髪。彼女の姿や匂いは昨日のことのように鮮明に思い出せるのに、人の記憶とは声から失われていくという説の通り、今はもう、名前を呼んでくれた甘い声も、楽しそうに笑った声も思い出の中に埋もれてしまった。
(最後にビルギッタを見たのは、もう八十年近く前のことだったか)
人間とは儚い生き物だ。当時二十代半ばだったビルギッタは、既にこの世を去っているか、生きていたとしても百歳以上になっている。彼女はルイと別れてから隣のアイオワ州に居を移し、後に人間の男と結婚したと人伝に聞いた。それ以降のことはわからないけれど、彼女の人生が穏やかで、幸せに満ちたものであったことを願う。
そう考えて、ルイは口の端を歪めた。
(他の男と幸せになっていたらいいだって? ハッ、美良乃に出逢ってしまった現在の僕にはない発想だな)
かつての恋人との別れはそれなりに辛いものがあったが、去り行く恋人の背を見送っても正気を保っていられる程度の想いだったのだと、今ならわかる。
ルイはベッドで安らかに眠っている美良乃に視線をやった。人間と違って夜目が利く吸血鬼には、暗がりの中でもその安心しきった姿を捉えることができる。それが自分を信頼し心を許してくれている証だと思うと、愛しさが溢れて胸がキュッと締め付けられた。
自分のせいで大切な人を危険な目に遭わせてしまったというのに、かつての恋人のように彼女を手放してやろうとは微塵も思えないのだ。美良乃がいない人生を想像しようとしただけで血が沸騰し、気が狂いそうになる。
美味そうだから愛おしい。愛おしいからこそ、その首筋に牙を突き立てて、香しい生き血を啜りたいという欲に抗えない。愛情が増せば増すほど、渇きと執着が強くなっていく。
苦しめる可能性があっても諦められない。美良乃を手放すくらいなら、あの甘美な血の最後の一滴までも飲み干し、自分の血肉とした上で共に滅ぶ方を選ぶと断言できる。
己の悍ましさに自嘲の笑みを浮かべる。
諦めるくらいならいっそ誰の手にも渡らないように殺してしまいたいだなんて、我ながら狂っていると思う。こんな時、ルイはつくづく自分が人間とはかけ離れた生き物であることを自覚する。魔に属する者の性は本当に厄介だ。執着したが最後、血の一滴、髪の一本までも独占したいと渇望する。
(こんな獣に目をつけられた不運を嘆いてくれて構わないよ、美良乃。その嘆きすら、僕の心を甘く蕩けさせるだろう)
カサンドラのしたことには業腹だし、美良乃が怖い思いをしたことに心を痛めているのも本当だが、実は棚ぼた式に美良乃を堕とすチャンスが訪れたことに歓喜してもいた。
人間は恐怖や不安を感じている時に、そばにいる者に恋愛感情を抱きやすくなるらしい。ストレスによる心臓の高鳴りを恋故と錯覚する、所謂吊り橋効果というやつだ。
美良乃がカサンドラの手でトラウマ級の恐怖体験をした今、それを利用しない手立てはない。美良乃はあの納屋でルイに対する恋情を吐露してくれた。既に効果が出ているのは明らかだ。
所詮ルイは吸血鬼。人ならざる者だ。おとぎ話に出てくる白馬に乗った王子様のように正面から愛を囁き、堂々と美良乃を口説き落とすべきだなどという正義感は最初から備わっていない。この飢えにも似た感情がきれいごとで片付けられるようなものではないことは、魔に属する者であるルイが一番よくわかっている。
卑怯だ姑息だと謗られようとも、このまま弱っている彼女の心に付け入って恋人としての立場を確固たるものにしてやる。
――女性は一度身体を繋げると相手に情が湧くというが、潔癖な美良乃は流石にそこまですると取り返しのつかないことになるだろうか。
美良乃が頭の中を覗いたら一目散に逃げ出すだろうことを悶々と考え込んでいると、ふと耳がすすり泣く声を拾って、ルイは現実に意識を引き戻された。
「やめて……。い、や……たすけ……ル、ルイ!」
上体を起こしてベッドを見やると、美良乃がうなされていた。固く閉じられた瞼からは滂沱の涙が溢れ、柔らかそうな頬を滑って枕を濡らしている。
(早速キター! チャンス到来!)
ルイはほくそ笑みながらソファから勢いよく立ち上がる。
ベッドに駆け寄ると床に膝をつき、いかにも心配していますよといった表情を取り繕うと、そっと美良乃の頭を撫でてやった。
「僕はここにいるよ、美良乃」
汗でしっとりと湿ったまろい額に口づけると、眉間に刻まれていた深い皺が薄くなる。
子供をあやすようにポンポンと肩を叩いてやると、美良乃がうっすらと目を開けた。
「――ん、ルイ?」
「ああ、僕だよ。ルイだ」
「……わたし、夢を……?」
「かわいそうに、うなされていたね。怖い夢でもみたのだろう」
ルイはベッド脇のランプを点灯した。美良乃は眩しそうに顔を顰めたが、何度か瞬きを繰り返すと目が慣れたのか、視線をルイに向けた。
涙で濡れた頬を指で拭ってやると、彼女は気持ちよさそうに目を細めた。
「僕がいる。何も心配いらないよ」
美良乃はじっとルイの顔を凝視していたが、みるみるうちに両目が涙で溢れてしまう。彼女は感極まったようにルイの首に腕を回して自分の方へ引き寄せた。
ルイは誘われるまま美良乃の首筋に顔を埋める。彼女の発する花の蜜のような甘い匂いと肌から伝わる体温に、身体の奥に火がともったように熱くなった。
湧き上がる吸血欲を必死に押しとどめながら、彼は美良乃の背中に腕を差し入れると柔らかな身体を掻き抱いた。首筋に、頬に、何度もキスを落とす。
「すまない、美良乃」
「え?」
「ちょっと、我慢の限界だ」
美良乃は訳がわからないといった様子で首を傾げる。
そんな様子に悶えそうになりながらも、ルイは噛みつくように彼女の甘い唇を貪った。薄く開いた唇の隙間から舌をねじ込み、戸惑うように縮こまっている舌を優しく撫で、吸い上げる。彼女の細い肩がビクリと跳ねたが、気付かないふりを装った。
深い口づけを繰り返しているうちに羞恥が限界に達したのか、美良乃はルイの両肩を押し返した。
「ちょっ……、お手柔らかにって、言ったのにっ……!」
茹蛸のように真っ赤になりながらも、美良乃はルイを睨め付けた。身体に灯った熱が一気に膨れ上がり、下半身に血が集まってくる。
「はぁ……。そんなに可愛い反応をされると、僕の『ルイ伯爵』を抑えることができなくなるのだけれど」
「何の話なの……」
「君のことが愛おしくてたまらないという話だよ」
ルイは床についていた両膝のうち、片方を立てて跪き、美良乃の右手を取って恭しく指先に口づけた。
「今夜君を失いかけて、改めて実感した。――美良乃、僕は君を愛している」
美良乃は小さく息を呑み、ベッドの上で上半身を起こしてルイに向き直った。
「ルイ、聞いて欲しいんだけど」
彼女は暫く何かを考えるように指で上掛けを摘まんで弄んでいたが、やがて決心したように顔を上げた。
「あのね。わたし、ルイとこのままデートし続けていいのかなって、悩んでいたの」
突然始まった独白に、ルイはショックで息を呑んだ。察していたことだったが、こうもハッキリと告げられるときついものがある。
モンスターショーを観に行った日から、美良乃が何か思い悩んでいるのには気付いていた。しかし美良乃の家族が訪米したことやカサンドラの襲撃もあって、深く追求できずにいた。――いや、どさくさに紛れて有耶無耶にしたと言うべきか。
「ルイはいつも女の人に囲まれているし、出会いも多いから、いつかわたしのことなんて飽きちゃうんじゃないかって思った。短期間しか続かない関係なら時間の無駄だし、何も始めない方がいいんじゃないかって」
「美良乃、それは」
ルイは縋るように美良乃の手を両手で握った。
美良乃は自嘲するように笑う。
「それにね。カサンドラがわたしのことを『堕としやすそう』って言った時に、ああ、わたしって吸血鬼にとってはチョロい女なのかなってショックだった」
「そんなことはない!」
美良乃はルイの言葉を遮るように首を振った。
「そう思ってしまうのは、結局ルイを信じられないというより、自分の価値を信じられないってことなんだって。アリアにそう諭されたし、わたしもその通りだと思う。
せっかくバーバラさんとルイが前向きになるためのアドバイスをくれたのに、心のどこかで否定し続けていたんだと思う。だからあの日、ルイに飽きられたらどうしようって怖くなった。傷つく前に逃げてしまいたくなったの」
美良乃は空いている方の手をルイの手に重ねる。
「でも、ルイは逃げ出したわたしを責めずに待っていてくれた。今日も必死になって助けに来てくれた」
「美良乃……」
「ルイには色々してもらってばかりで、わたしは何も返してあげられていないのが申し訳ない。だからこそ、わたしはルイを大事にしたいし、誠実でありたい。何か行き違いがあったらお互いが納得できるように話し合いたい。もう逃げたくないの」
美良乃は力強い視線を送ってくる。彼女はどうしようもなく不器用だが、どこまでも真っ直ぐで誠実だ。こうして己と向き合い、前に進もうとする姿に胸が震える。
(ああ……、美良乃のこういうところが本当に好きだな……)
後から後から気持ちがこみ上げてきて、溢れてしまいそう。
「さっきも納屋で伝えたけど、わたしもルイが好きだよ。……本当は、胸を張って自分が好きって言えるようになってからルイに気持ちを伝えるつもりだったんだけど、あの時は気持ちが溢れてポロっと言っちゃった」
照れくさそうに目を逸らす姿が可愛すぎる。ルイは今にも飛び掛かりそうになる自分を必死に抑えた。ゴクリと唾を嚥下する。
「美良乃。僕以外にデートしている相手はいるかい?」
突然の話題転換に戸惑ったのか、美良乃は一瞬ポカンとしたが、すぐさま首を横に振った。
「わたしは何人も同時進行できるほど器用でも、社交的でもないよ」
「ふふっ。そうか。――僕も、君以外に会っている人はいない」
「そうなんだ……?」
ほんのりと嬉しそうな美良乃に、ルイは確信する。
――あと一息で、完全に堕とせる。
ルイは逸る心を落ち着かせようと唇を舐めて湿らせた。
「君さえよければ、僕はこの関係をもう一歩先へ進めたいと思っているんだ」
美良乃は眼球が転げ落ちるのではないかというくらい、大きく目を見開いた。
その瞬間。彼女のオーラのピンク色の部分に鮮やかな赤が滲み、更なるグラデーションが加わる。
――ああ、何て美しい。
それは、より一層深まった恋の色。
ルイは歓喜に打ち震えた。美良乃をそっと腕の中に抱きしめる。
「愛している、美良乃。――君を独占する権利を僕に与えてくれないか?」
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