66. 12月2日【2】女神の試練
美良乃がバスルームから出ると、ルイは暖炉の前でソファに座り、タブレットをいじっていた。美良乃が入浴している間に身なりを整えたようで、頬や手の血も洗い落とされ、簡素な服に着替えていた。
「お風呂ありがとう」
ルイは振り向きざま美良乃を見るなり固まった。目を見開いたまま、手に持っていたタブレットがぽろりと落ちてソファの座面に転がる。
「……ルイ?」
「オウ!!」
彼は右手の甲を額に当ててふらりと後ろへひっくり返った。背中がボスンとソファに沈む。いつぞやも見た気がするが、何度見てもコルセットを締めすぎて気を失う貴族のご令嬢のようだ。
彼は両手で顔を覆い、ブルブル震えながら感嘆を漏らした。
「これが彼シャツ、萌え袖というものか! 凄まじい攻撃力……!!」
「えっと、意味不明なんだけど」
ルイに借りたスウェットの上下はどちらもサイズが大きすぎるので、袖と裾を捲り上げているが、何が彼の心の琴線に触れたのかよくわからない。
ルイは赤い顔のまま立ち上がり、美良乃の手を引いて主寝室を出た。
「疲れているだろう? この客室を使ってくれたまえ」
ルイの寝室から廊下を挟んで向かい側には十二畳ほどの広さの客室があった。全体的に白を基調として纏められており、外へ張り出した窓の上部にはバラを模ったステンドグラスがはめ込まれている。部屋の中央の壁際にはクイーンサイズのベッドが置かれていた。
ルイは美良乃をベッドに座らせると、一旦部屋を出て救急箱を持って戻ってきた。
首の傷に軟膏を塗り、ガーゼを当てて固定する。
「これでよし。……はあぁ、それにしても、君の美しい肌に傷をつけた挙句に血を吸うなんて!! 五回は殺してやらないと気が済まない」
ルイは怒りが収まらない様子で眉を顰める。
「そういえば、あの人は何で牙で首を噛まなかったんだろう。何か道具みたいなものを使ったっぽいんだよね」
ルイは、ああと頷いた。
「彼奴は以前にも人間を襲った前科がある男でね。その際に罰として牙を引っこ抜かれているのだよ。牙を失った吸血鬼のために、鋭い棘がついた金属の指ぬきみたいなものがあるのだが、吸血する際はそれを使用していたのではないかな」
ルイは美良乃の両手を取ると、両方の甲に唇を寄せた。
「もう何も心配いらないよ。安心して、ぐっすりお休み。僕は向かいの主寝室にいるので、何かあったら遠慮せずに言ってほしい」
「わかった。ありがとう」
ルイが部屋のドアを閉めて去って行くと、美良乃は途端に心細くなった。ベッドのナイトテーブルに置かれていたランプを灯し、部屋の照明を落とすとベッドに潜り込む。
普段は真っ暗でないと寝付けないのだが、この夜ばかりは暗闇が怖かった。歴史のある古い家で幽霊でも出そうだというのもあったが、風の音や家鳴りがするたびに、誰かがまた美良乃を襲撃に来たのではないかという不安に駆られて身が竦む。
疲れ果てているせいもあって、そのうちうつらうつらとしたのだが、浅い眠りの中でも誰かが背後から追いかけてくる夢をみて目を覚ます。
バクバクと心臓が跳ねるなか、ナイトテーブルに置いたスマホを手に取ると、時計は午前二時十四分を示していた。まだベッドに入ってから一時間も経っていない。
(どうしよう。怖くて眠れない。ルイの部屋で寝かせてくれないかな)
そう考えて、ダニエルの台詞が頭を過った。
――『ルイちゃま、戦いの後で気が昂ってるだろうけど、美良乃ちゃんに無理させちゃダメよ♡』
「いやいや、まさか」
紳士なルイのことだ、据え膳食わぬは男の恥とばかりに美良乃に襲い掛かってくることはないだろうが、二人きりなのを承知で男の寝室へ行くなど、誘っているようなものではないか。
(背に腹は代えられない。ここは、ルイを信じよう)
美良乃は暫く逡巡した後、意を決してベッドを抜け出した。
そろりとドアを開けると、すでに廊下の照明は落とされていた。向かい側にある主寝室のドアの隙間からは明かりが漏れている。どうやらルイはまだ起きているようだ。
遠慮がちに主寝室のドアをノックすると、慌ただしく駆け寄ってくる音がした。
すぐにドアが開き、緊迫した表情のルイが顔を覗かせる。
「どうしたんだい美良乃!?」
「あの……」
もじもじと言いあぐねていると、ルイはこてりと首を傾げた。
「もしかして、傷が痛むのかい?」
「そうじゃなくてっ……。独りは怖いから、ルイの部屋で寝たらダメ?」
謀らずとも上目遣いに見上げることとなった美良乃に、ルイは小さく息を呑んだ。
「……女神は僕に試練を与えたもうたのか」
「えっ?」
「いや、何でもないよ。さあ、お入り」
「……お邪魔します」
ルイは紺色のシルクのパジャマにローブを羽織っていた。暖炉の前のソファに書類が置かれているところを見るに、どうやらこんな時間まで仕事をしていたらしい。
「ごめん、わたしのせいで、仕事が片付かなかったんじゃない?」
「君が謝ることなどないよ。それに、もうそろそろ寝ようと思っていたんだ」
ルイはキングサイズのベッドへ美良乃を誘った。
「さ、君はベッドを使うといい。僕はソファを使うから」
「えっ、いいよ。わたしの方が背が低いし、わたしがソファを使うから」
「女性にそんな真似はさせられない」
「でも」
ルイは有無を言わさずに美良乃をベッドに押し込むと、上掛けの上から肩をポンポンと優しく叩いてくる。
「僕はもう少し書類を片付けてから寝るよ。おやすみ、僕の女神」
「うん、おやすみ……」
額にそっとキスを落とすと、ルイはソファへ戻った。
暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音と、ルイが書類を捲る静かな音を聴いていると、瞼が重くなってくる。
(ルイのそばにいるだけで、こんなにも安心するなんて)
美良乃は自分でも気付かないうちに、深い眠りについていた。
※クイーンサイズは日本のダブルベッドよりも幅が広いマットレスです。アメリカではごく一般的なサイズで、店頭にも多く並んでいます。キングサイズはクイーンサイズより1ランク大きいものになります。
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