62. 12月1日 カサンドラの襲撃【3】
※暴力、流血シーンが出てきますので、苦手な方はご注意ください。
「くっそったれが!! あの雌豚ごとお前を地獄に送ってやる!!」
カサンドラが無茶苦茶に両手を振り回した。鋭い爪がルイの上着を引き裂く。
「雌豚だって……?」
薄明りの中、ルイの紅い双眸が眇められた。
カサンドラの首を掴む手に力が入ったのか、メキメキと嫌な音がする。
「ぐえぇっ……!」
カサンドラが空気を求めて頤を上げる。己を喉を締め付けるルイの手の甲を幾度も引っ掻いた。
――その時。
「ああん! んもうっ、ルイちゃまったら、アタシたちを置いて先に行っちゃダメって言ったじゃないのぉ!!」
張りつめた空気を霧散させるような声がして、納屋の入り口に二つの大きな人影が現れた。ウインドチャイムのような涼やかな音色が響き渡り、きらきらと金の粒子が混じる光の玉がいくつも宙に浮かんで、薄暗かった納屋が明るくなる。
そこにいたのはダニエルとフェルナンドだった。背中に妖精の翅を顕現させたフェルナンドは、美良乃を見つけると駆け寄ってくる。
「美良乃ちゃんは任せたわよぉ、フェルナンド。さて、と」
ダニエルは拳を鳴らしながら、納屋の隅で気を失っていた男の吸血鬼の方へゆったりと歩を進めた。
「人間に手を出すような悪い子は、紙にかわっておしおきよっ!」
どこかで聞いたような決め台詞と共に男に飛び掛かると、あっという間に拘束してしまった。彼は男を縛り上げると、「一度ペーパームーンごっこしてみたかったのよねえ☆」と満足気に胸を反らした。
呆気に取られている美良乃の前にフェルナンドがやって来た。彼は普段より俊敏な動作でしゃがみこむと、美良乃を柱に縛りつけていた縄を切ってくれた。
「大丈夫か?」
「ちょっと首が痛かったけど、ルイが血を止めてくれたし、もう大丈夫……。それより、ローリーが」
美良乃の視線の先と辿ったフェルナンドは、倒れているローリーに駆け寄った。
「まだ脈はある。しかし、身体が冷え切って体温が下がっているのが問題だな……」
彼は翅を震わせ、横たわるローリーに鱗粉を巻き散らす。手早く彼女の首の応急処置を終えて美良乃の元へ戻ってきた。
「ローリーは大丈夫?」
「応急処置はした。妖精の魔法で身体を温めているから、すぐに良くなるはずだ」
「良かった……」
美良乃はホッと安堵の息を吐く。
「ごめんなさい、フェルナンド」
「ん? 何に対して謝ってんだ?」
「あのね、リンクスが、わたしを護って……、き、消えちゃって……ううっ」
美良乃は苦しそうに身を捩っていたリンクスを思い出して眦に涙を浮かべた。
洟を啜った美良乃に、フェルナンドは感情の伺えない声で「ああ」と呟いた。
「気にするな。魔力が尽きてタトゥーに戻っただけだ」
「し、死んじゃったわけじゃない……?」
フェルナンドはフッと口角を上げた。
「言ってみれば、あいつは単なる絵だからな。攻撃されたら魔力は削られるが、死ぬことはない」
――ああ、良かった。
美良乃の全身から力が抜けていく。膝に額を押し当てて、長い長い息を吐いた。
「リンクスに何かあったら、どうしようって思ってた。本当に、よかっ、た」
フェルナンドはフッと小さく笑い、コートの内ポケットからガーゼと消毒液を取り出した。
「ルイが止血したようだが、念のため応急処置をするぞ」
「うん……、ありがとう」
消毒液を染み込ませたガーゼがひやりと冷たいが、ルイの唾液に麻酔作用があったせいか、痛みはない。美良乃は大人しくフェルナンドに身をまかせた。
「この野郎っ!!」
フェルナンドの肩越しにカサンドラがルイに向かって足を蹴り上げたのが見えた。それを機に、ルイとカサンドラの姿が掻き消える。二人とも超高速で動いているようで時折絹を裂くような悲鳴と殴打音がする。
「な、何が起きてるの?」
「カサンドラとルイが取っ組み合いになってる。――そろそろダニエルが止めないとまずいかもしれ」
フェルナンドが言い終えないうちに、部屋の中央の柱にカサンドラが叩きつけられ、ベキベキと柱が折れた。カサンドラはそのまま地面に転がり落ちる。身体のあちこちから出血し、唇からも血が一筋滴り落ちていた。
柱が折れた衝撃で、天井から細かい埃や干し草の屑が降ってきた。
ルイは超高速でカサンドラに追いつくなり、彼女の鳩尾を力任せに踏みつけた。肋骨が折れたのか、ボキッとも、ゴキッともとれる鈍い音が鼓膜に届き、美良乃は思わず身を竦ませた。
「ああっ!!」
苦悶に顔を歪ませるカサンドラを、ルイは表情の抜け落ちた顔で見下ろす。フェルナンドの魔法の光に照らされ、作り物めいた美貌がやけに蠱惑的に見えた。陶器のように白い頬には返り血なのか、赤黒いしぶきが飛んでいた。
ルイは手に持っていた何かを無感動に放り投げた。指先も血で濡れている。彼はそのまま上体を屈め、煌々とした紅い瞳でカサンドラの顔を覗き込んだ。
「牙を二本とも失うのはどんな気分だい?」
「クソッ! ふざけんじゃないよ! あたしがあんたみたいなのに負けるわけが」
「ふふっ、無様だね、カサンドラ。地を這う姿がお前にはお似合いだよ」
ルイはニタリと口の両端を吊り上げ、カサンドラを踏みつけたまま、踵でグリグリと抉った。
「がぁっ……!」
「ふふふ……」
血を吐き苦痛に顔を顰めるカサンドラに、ルイは酷薄な笑みを深める。
いたぶるのを愉しんでいるかのような様子に、美良乃は戦慄した。まるでシャチが獲物を弄んでいるようだと思った。
――『吸血鬼っていうのは捕食者なだけあって、本来は残忍な性質なんだよ』
少し前にフェルナンドに言われたのは、こういうことだったのだと、美良乃はその時初めて理解した。
美良乃は震える手でギュッとコートの胸元を握りしめる。
(ルイ、まるで知らない人みたい……)
――怖い。
全身を血潮が駆け巡り、段々と呼吸が荒くなって、目の前が白く煙った。
「はいはい、二人ともそこまでよっ!」
ダニエルが子供を叱るような声音で二人の脇に立つ。注意を集めるように指を鳴らした。本当は両手を叩きたかったのだろうが、生憎と片手には先ほど拘束した男の吸血鬼の首根っこを捕まえているため、できなかったようだ。
「チッ……、邪魔をしないでくれるかな、ダニエル」
ルイは普段の彼からは考えられないくらい行儀悪く舌打ちし、カサンドラを覗き込んだままの姿勢で淡々と言う。
「邪魔してるのよぉ! それ以上は過剰防衛になるから、自警団の団長としては許可できないわ。拘束して、自警団の規則に則って処分しましょ」
「しかしこの女はこともあろうに僕の最愛の人を雌豚などと呼びくさったのだよ断じて許すことができないね腸を引きずり出して縄跳びでもしてやらないと気が済まないのだよ君にだってわかるだろう」
「めちゃくちゃ早口だし、おまけにひと息で言うから怖いわぁ。落ち着いてちょうだい」
「僕は至って冷静だとも」
「美良乃ちゃんが怯えているわよ」
ルイはハッとしたように上半身を起こすと、美良乃を振り返った。
「美良乃っ!」
「とにかく、カサンドラを縛り上げましょ。フェルナンド、ルイちゃまと交代してくれる?」
「ああ」
フェルナンドはひとつ頷くと立ち上がった。ダニエルがカサンドラに猿轡を噛ませ、三人がかりで捕縛すると、ルイは一瞬で美良乃の前に現れて膝をつく。
「僕としたことが、ごめんよ」
美良乃は食い入るようにルイの顔を見つめた。紅い殺気に塗れていた彼の瞳は普段のサファイアブルーに戻っている。
(あ、いつものルイだ……)
美良乃は小さく安堵の息を吐いた。緊張が解けると無性に彼に縋りつきたい衝動に駆られる。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




