61. 12月1日 カサンドラの襲撃【2】
※暴力、流血シーンが出てきますので、苦手な方はご注意ください。
獣の咆哮が聞こえる。
――いや、もしかすると、風のうねる音だろうか。
美良乃は霞がかった頭で、ぼんやりとそんなことを考えた。
「……の……が!」
誰かの金切声が聞こえた気がするが、くぐもっていて聞き取りづらい。まるで水中にいるようだと美良乃は思った。
「うわっ……いつ……た……!」
徐々に意識が浮上していくにつれ、曖昧模糊としていた音が段々と意味を成していく。
「クソッ、そっちに行ったよ! やっちまいな!」
「この野郎、もう我慢ならねえ!!」
鼓膜を揺する怒声に、美良乃は酷く重い瞼を持ち上げた。
ぼんやりとしている視界に、何かが忙しなく動き回っているのが映った。
(誰……? 誰か、いるの……?)
緩慢に瞬きを繰り返すと、目の前で繰り広げられている状況が見えてきた。
そこは薄暗い納屋のようだった。牛などの家畜を隔離しておくための納屋だ。床がなく、地面が剥き出しで、四角い柱が何本か並んで天井を支えている。
驚いて身動ぎしようとしたが、何かに固定されているように動けない。身体を見下ろすと地面に座らされた恰好で、身体を縄で柱に括りつけられているようだった。
(これは、一体……。何が起こったんだっけ?)
必死に記憶を探って、美良乃は自分がカサンドラに何かを嗅がされたことを思い出した。
ハッと顔を上げると、納屋の中央に取り付けられた照明の下、何かが動き回っているのが目に入ったが、光量が乏しくてよく見えない。
目を凝らすと、それは大きな獣だった。美良乃に背を向けながら宙に噛みついたり、前脚を振り払ったりしている。ドカッ、バキッという鈍い音が立て続けに何回も聞こえた。
「グオオオオゥ!!」
「クソッ!」
どうやら攻撃を受けているようだ。獣は押されているようで、段々と美良乃の方へ後退り、やがて美良乃の目の前で足を踏ん張るようにして止まった。
「くたばりやがれ!!」
「ギャオン!!」
耳を聾するビュンっという音と、その度に襲い掛かる風圧に美良乃は身を竦めた。まるで駅のホームで快速列車が目の前を通過した時のようだ。どうやら男と女の吸血鬼が目見も止まらぬ速さで移動しながら獣に攻撃をしているようで、獣がそれを防ぐたびに二人は投げ飛ばされ、納屋のあちこちに叩きつけられているようだ。
何かが壊れる音や固いものに衝突するような音が聞こえ、それに合わせて砂埃が舞ったり、木片が飛んでくる。目に入っては堪らない。美良乃は反射的にギュッと目を瞑って顔を背けた。
「忌々しい妖精の下僕が! 消えな!!」
カサンドラの憤怒に満ちた声がした。彼女は瞬きする間に獣の前に姿を現すと右腕を振り払う。鞭がしなるような音と共に、獣が美良乃の横へ吹き飛ばされた。
「ギャウン!!」
背中から地面に叩きつけられた獣が悲鳴を上げる。灯りの下に露わになった顔に、美良乃は小さく息を呑んだ。
「リンクス!?」
それはフェルナンドから借りて二の腕に滞在してもらっているはずのオオヤマネコのリンクスだった。どういうわけか、今は紙に書いたような二次元ではなく、本物の生き物のように見える。違うのは大きさくらいだろうか。実際のオオヤマネコよりも数倍体躯が大きいように見える。
リンクスは口から泡を吐きながら苦しそうに身を捩り、次の瞬間には気を失ったように全身を弛緩させた。キラキラと輝く粉が舞い上がった直後、リンクスの姿が煙のように掻き消えてしまった。
「リンクス!?」
辺りを見渡してもリンクスはどこにも見えない。
(やだっ、もしかして……死んじゃったの!?)
思わず潤んだ視界の端に地面に伏した人影が映って、美良乃はハッとそちらを振り向いた。
「ローリー!?」
バイト先の駐車場でカサンドラに操られていたローリーが横向きに倒れている。薄暗くてよく見えないが、首筋が濡れているのか、照明の明かりを反射して淡く輝いた。
吸血鬼、首、濡れている、という三つのキーワードからはじき出されるものはひとつ。
――ローリーは気を失うまで血を吸われたのだ。
冷水を浴びせられたように全身から血の気が引いていく。
「ローリー、ローリー!? やだっ、ねえ、起きて!」
いくら声をかけても、彼女はピクリとも動かない。もしかしたら既にこと切れているのではと震えあがったところで、目の前に黒い影が飛び込んできた。
喉に鈍い痛みと圧迫感を感じたと思った時には、残忍な笑みを浮かべた男に喉を掴まれ、背後の柱に押し付けられていた。
「へへっ。やっと邪魔者が消えたぜ。これで美味い血にありつけるってもんだ。ババアでも男よりマシだが、やはり若い女の血は格別だからな」
それでは、この男がローリーの血を吸ったのだろう。
彫りが深いせいで眉下が影になってしまっているため、男のはっきりとした顔立ちまでは判別できない。紅い瞳だけが彼の存在を主張するように炯々と光っていた。
――『吸血鬼の瞳が紅い時は、決して目を合わせてはいけないよ』
ルイの言葉が脳裏に蘇り、美良乃は咄嗟に俯いて視線を逸らした。心臓が早鐘を打ち、耳の奥でドクドクと潮騒が響く。
「なあ、喰っていいだろ、カサンドラ?」
「せいぜい干乾びさせないようにしな。簡単に殺しちゃ面白くないからねぇ」
納屋の入口の方からカサンドラの声が聞こえる。タバコに火をつけたのか、シュボッという音がして、たばこの煙の独特な香りが漂ってきた。
美良乃の喉を圧迫している男の手に力が入る。指に太い針でも装着しているのか、首筋に鋭い痛みが走った。
「痛っ……!!」
異物が皮膚を破って肉に食い込む感覚がした。裂けた皮膚から溢れ出た温かいものが肌を滑り落ちていく。
男は身を屈めた。柔らかいものが首に触れ、ジュッと血を吸い上げられた。あまりの嫌悪感に肌が粟立つ。
美良乃は吐き気を堪えて身を捩った。
(ルイ……! 助けて、ルイ……!!)
以前ルイに血を吸われた時はこんな不快な思いはしなかった。それなのに、相手が違うだけでこうも吸血行為を受け入れがたく感じるとは。
絶叫したくなるのを唇をきつく噛み締めて耐えていると、耳元で男が血を嚥下する音が聞こえた。
「うへへへ、こりゃうめぇ! 恐怖が滲んだオーラといい、最高にそそるねぇ」
男は恍惚とした顔で唇を拭うと、下卑た笑みを浮かべて美良乃を見下ろす。
「殺すだけじゃもったいねえ。意識があるうちにかわいがってやるよ。泣き叫ぶ女の声を聴きながらヤるのは堪んねえからなぁ」
男の意味することを察して、美良乃の背に怖気が走る。
「やっ……!」
美良乃は両足で地面を蹴って何とか逃げようともがくが、身体に何重にも巻かれた縄のせいで1ミリも動くことができない。
そんな美良乃の努力を嘲笑うように、男は美良乃の長い髪を片手に巻き付けて力任せに引っ張り上げた。頭皮に激痛が走り、未だ出血している首が斜め上に逸らされて脳天を貫くような痛みが突き抜ける。
「きゃああっ!!」
「おいおい、つまんねえなぁ、もっと泣き叫んでくれよ、お嬢ちゃん」
「お愉しみが終わったら、それをあたしに返しな。身体の端から徐々に切り刻んでやるんだ。ぼろ雑巾みたいになったそれを見た時の伯爵がどんな顔をするか楽しみだねえ」
フフと愉し気に笑うカサンドラの声が耳朶を打った時だった。
ドカーンと音がしたと思うと、納屋の戸が内側に吹き飛んだ。戸を失った納屋に凍えるような空気が流れ込んでくる。
「何だ!?」
カサンドラと男が一斉に振り返る。美良乃もズクズクと痛みを訴える首に耐えながらも視線を巡らせた。
納屋の外は漆黒の闇が広がっている。その中に二つの紅い光が浮かんでいた。
誰かが息を呑む音がした。次の瞬間、美良乃の髪を掴んでいた男が視界から消えた。次いでくぐもった男の呻き声と何かが壁にぶつかるような音がする。
呆然とする美良乃の頭上に影が差した。冷たい風にのって甘さの中に森林のような爽やかさがある匂いがした。
(――あ……。この、匂いは)
思考が答えを導き出す前に、視界に整い過ぎて人形めいた顔が飛び込んできた。
「美良乃!」
「ル、イ?」
「遅くなってすまない」
ルイは安堵したように頬を緩めたが、美良乃の首筋に気付くなり今にも泣き出しそうな顔になった。
「――ああ、何てことだ!」
言うが早いか、ルイの顔が美良乃の首筋に埋められる。熱く湿ったものが下から上に肌を這った。
止血をしてくれたのだと理解した時には、既にルイの姿は消えていた。
「ちくしょうっ! 放しな!!」
金切声に、美良乃は目線を上げた。
納屋の入り口付近でルイと思われる背の高い男がカサンドラの首を片手で掴んで持ち上げていた。
「――お前、死ぬ覚悟はできているのだろうね?」
普段の陽気なルイからは考えられない地を這うような低い声に、背筋を冷たいものが流れた。外から入り込んだ冷気のせいもあり、身体の中心から細かい震えが全身に広がっていく。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




