60. 12月1日 カサンドラの襲撃【1】
「きゃ~! 寒い寒い寒い、っていうか痛い!」
母と姉が日本へ帰り、平穏な日常を取り戻してから数日経った。
その夜、バイトを終えた美良乃は老人ホームの従業員用出口で冬のネブラスカ州の洗礼を受けていた。
ネブラスカ州はアメリカの真ん中にあり、夏は東京並みに蒸し暑く、冬はマイナス二十度くらいまで下がる。そこにネブラスカ名物の強風が加わると、体感温度はマイナス三十度近くまで下がるのだから、恐ろしいことこの上ない。
寒波がやってきたせいで、外に立っているだけで全身が震え、歯の根が合わなくなるくらい寒い。いや、寒いを通り越して耳や鼻、手足の指先が痛い。
ネブラスカ州東部の降雪量はあまり多くないが、冬の間は気温が氷点下になる日が多いため、ひとたび雪が積もればなかなか溶けることがない。夕方に家を出るときに降り始めた雪が、以前積もった雪の上に新たな層を作り始めていた。
道路に撒かれた除雪材のおかげか、幸いにも道路は走行可能なようだ。雪が酷くならないうちに家に辿り着かなくては。自宅は畑の真ん中にあるため、途中でハイウェイを外れて農道を通らなくてはならないが、除雪車が巡回しているハイウェイと違い、農道は雪が深く積もってしまえば車を走らせることができなくなる。
足元に気をつけながらも駐車場へ急ぐ。クローイーに借りた車まであと数歩というところで、視界の端に人影が映り、美良乃はそちらへ顔を向けた。
「……ローリー?」
そこに立っていたのは同僚のローリーだった。縦にも横にも大きな四十代後半の白人女性で、ブロンドに染めた短い髪が風に煽られて揺れている。現在の気温はマイナス十三度だというのに、薄紫色のスウェットシャツの上に何も羽織っていない。寒さのせいか鼻が赤くなっていた。
「コートも着ないでどうしたの、ローリー? 旦那さんが迎えに来るまで建物の中にいた方がいいんじゃない?」
それに対する返事はなく、ローリーは虚ろに宙を見つめたまま、ふらふらとこちらへ近づいてくる。その異様な雰囲気に、美良乃の首の後ろの毛が逆立った。
(もしかして、誰かに操られてる……!?)
美良乃の脳裏に、先日モンスターショーで観た吸血鬼の催眠術コンテストの様子が蘇る。
催眠術をかけられた人は、今のローリーのようにぼんやりとした表情だった。
一歩近づかれるたびに一歩後退るのを繰り返し、ついに美良乃の背中が車にぶつかった。
その瞬間、ローリーは勢いよく美良乃に飛び掛かった。かなり強い力でコートの襟元をまさぐる。爪が美良乃の頬や首筋に引っ掛かってチリリとした痛みが走った。
「きゃあっ! な、ちょっ、ローリー!?」
美良乃は両腕で必死に首から上を庇う。ローリーを押し返そうとするが、彼女はびくともしなかった。彼女は何かに憑りつかれたように執拗に美良乃の首元を狙い続ける。
「やめて、ローリー! 正気に戻って!!」
しばらくの攻防の末、ローリーは美良乃が首から下げていた吸血鬼避けのアミュレットを引きちぎり、駐車場の端へ向かって放り投げた。
「あっ……!?」
美良乃は慌ててアミュレットを拾いに行こうとしたが、ローリーに後ろから羽交い締めにされてその場に縫い留められる。
「よくやったねえ」
ねっとりとした声が鼓膜を揺らす。
ハッと顔を上げれば、いつの間に現れたのだろう、目の前に女が立っていた。その双眸は紅く光り輝き、白い肌は駐車場の灯りに照らされ、オレンジ色に染まっている。
美良乃の心臓が恐怖に縮みあがった。
「カサンドラ……!」
「あれまあ、あたしの名前を覚えていてくれるなんざぁ、家畜のくせに可愛いところもあるじゃないか」
カサンドラはシガレットホルダーの端をくわえながら口の端を吊り上げた。
零れ出た真珠色の歯を見て、美良乃は息を呑んだ。二本生えているはずの牙のうち一本が根元から折られたように欠けていたのだ。
美良乃の驚愕に気付いたのか、カサンドラは鼻に皺を寄せた。
「ああそうさ。あのクソ野郎、よくもあたしの牙を……! その代償はお前に払ってもらおうかねぇ」
ふうっとタバコの煙を吐き出して、カサンドラは鼻と鼻がつきそうな距離まで美良乃に顔を近づけた。
「主の咎は愛玩動物の咎だ、そうだろう?」
「なっ……」
くつくつと笑いながら、カサンドラが長くて鋭い爪の生えた手を美良乃の頤に伸ばす。
バチィンッ!!
カサンドラの指が美良乃の肌に触れる直前、静電気でも走ったかのような大きな音が轟き、彼女の手を弾いた。
「ああっ!」
カサンドラは弾かれた右手を左手で覆い、痛みを堪えるように顔を顰めた。忌々しそうに美良乃を睨め付ける。
「ちくしょうっ! 妖精の加護がついているのかい!」
カサンドラが美良乃の背後に目配せすると、背後で美良乃を羽交い締めにしていた手が緩んだ。しかし安堵する間もなく、湿った布が口元に押し付けられる。
「うっ……!?」
甘ったるい匂いに、美良乃は咄嗟に息を止めようとした。が、既に手遅れだったようだ。不意に目の前がぐにゃりと歪み、視界を闇がじわじわと浸食していく。
「流石魔女の睡眠薬だね。原液を嗅がせれば一発だ」
意識を手放す間際、カサンドラがその美しい顔に酷薄そうな笑みを湛えたのが見えた気がした。
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