57. 11月23日 サンクスギビング【2】
(もしかして、お母さんが子供を突き放すようなことを言ったり、気まぐれに愛情表現をするのも、子供のころに育った家庭の影響なのかもしれない)
祖父母が母たちに取っていた態度しか知らないからこそ、無意識のうちに同じ態度を姉や美良乃に取っていたのだとしたら。
美良乃は鈍器で後頭部を殴られたかのような強い衝撃を受けた。
――ああ、これは負の連鎖なのだ。子供とどう接していいかわからない人が親になり、自分が育った家庭と同じような家庭を築いていく。
怖いな、と思う。
不安定な愛情で育った自分は、いつか自分の子供にも同じように不安定な愛情しか注ぐことしかできないのではないか。
ましてや母はシングルマザーだった。父から養育費は受け取っていたが、それは到底夫と共働きで得られる収入の足元にも及ばないような少額だったはずだ。当時は今と違って国際結婚もあまり一般的でなく、離婚することは恥ずかしいことだという風潮も残っていただろう。
(――お母さんは、そんなストレスとプレッシャーの中で、たった独りでお姉ちゃんとわたしを育てたんだな)
母が自分たちに見せていた冷淡な態度は、決して褒められたものではないし、今も美良乃の心の中に大きな傷となって残っている。しかし、大人になったからこそ、母が理想とかけ離れた現実に困惑し、追いつめられていたであろうことも理解できてしまう。
不幸なことに、母自身も安心して親に甘えられない環境で育ってしまい、自分が子供に対する態度が冷たく、無神経な言葉を投げつけていることに無自覚だった。自分の不適切な言動によって娘たちが心に傷を負い、愛情に飢えた状態は大人になってからも娘たちの精神に悪影響を及ぼしてしまうのだと気付けなかったのだ。
母の世代では、そんなことはどこの家庭にでも起こり得ることだったし、誰も気にしない些細な事だったのかもしれない。
だからといって、母の生い立ちにも同情すべき点があったのだから仕方ないと割り切れるかと言ったら、それは難しい。美良乃が受けた心の傷はなかったことにはならないし、今も尚、美良乃は邪険にされる度辛く悲しい思いをしているのだから。
――母に自分の本心を打ち明けたら、少しは変わってくれるだろうか。
美良乃は湧き上がる感情に載せて、震える声で絞り出した。
「……お母さんは、わたしたちをどう扱っていいのかわからなかったのかもしれない。それでも、わたしはお母さんにありのままの自分を受け入れて欲しかったよ。少しくらい人と違くてもいい、って肯定してほしかった」
しかし、母は遠くを見ながらフンと鼻を鳴らして言い放つ。
「もう、あなたって本当に僻みっぽいわよねぇ」
呆れたような声音が、美良乃の中に残っていたほんの僅かな希望を打ち砕いた。
「あなたが人と違うのは事実じゃない。あなたが普通の子供と違うせいで学校の先生から呼び出されたりしたのよ? 少なからずわたしは迷惑を被ったんだから、何が人と違うのかを指摘するべきでしょう? それともなに? 改善しないといけないところも全部肯定して、いい子ね、あなたには何も悪いところなんてないのよって育てるのが正解だって言うの? それが今の教育方針か何か知らないけれど、それをあなたが生まれてから二十年以上経った今、わたしに押し付けられてもね……」
「そうじゃないよ」
「じゃあ何だっていうのよ。あなたって本当に鬱陶しいわね。小さい時からそうやって被害者ぶって」
苦い顔をした美良乃には目もくれず、母は何かに憑りつかれでもしたかのように、ペラペラと口を動かし続ける。
「大体さあ、あなた知ってる? 理想的な子育てって、たかだか十年でがらっと変わるのよ。昔なんて母乳は赤ちゃんの発達によくないから、必ず粉ミルクで育てなさいって教えられたのに、粉ミルクで育った子供が親になる頃には母乳じゃないとダメだって正反対のことを言われるの。それなのに、わたしが親失格みたいに言わないでよ」
――ああ、この人には、どんな言葉も響かない。
諦観の境地に立って、美良乃は地平線を見つめた。
この人は、ただ美良乃の気持ちを受け止めることすらできないのだ。自分は間違っていないと証明することに躍起になって、娘がどんなことを感じていたのかには興味がない。
好意も敵意も両極端ではあるが、共通点がある。それは対象への激しい感情であり、一種の興味を持っているということ。
(そっか。お母さんはわたしが嫌いだったわけじゃない。そもそも興味がなかったんだね)
美良乃は自嘲に顔を歪めた。
「別に、責めているわけじゃない。ただ、あなたはそんな風に感じていたのねって、受け止めてほしかっただけ」
美良乃は、口から出かかった「もういい、お母さんに期待したわたしが馬鹿だった」という言葉を呑み込んだ。期待した反応をしてくれないからといって相手を責めて突き放すのはあまりに大人げない。自分は二人とは違うのだと胸を張って言えるような人間になりたかった。
地平線に視線を定めたまま淡々と発する美良乃に、母はうんざりと溜息を吐いた。
「またそうやって拗ねるんだから」
「そうだね。でも、気付いていた? お母さんやお姉ちゃんも人のこと言えないよ」
「え?」
美良乃が反論してくるとは思わなかったのだろう。視界の端で母がこちらを振り向いた。しかし、美良乃は母を見ない。見てなんかやらない。
「お母さんとお姉ちゃんも、わたしと同じくらい面倒くさくて質が悪い、って言ってるの」
美良乃の言葉に少しでも反省の意を見せてくれたなら、二人とやり直してみようと思えたかもしれない。だが、母は美良乃が差し伸べた心の手を叩き落としたのだ。
――それが全ての答えだった。
美良乃は母との間に溝を掘るべく、言葉のシャベルを突き立てた。
「お母さんとお姉ちゃんはさ、そのままで生きていけばいいよ。二人で周囲を悪く言い合って、自分たちを慰め続ければいい」
できる限り鋭く、重く。
もう二度と、互いが触れ合うことがない距離を作るように。
「弱い自分と向き合うのは怖いもんね? よくわかるよ。わたしもそうだったから」
「ちょ、ちょっと!?」
「――でもわたしはもう、そこへは戻らない」
「ちょっと、さっきから何!? それが家族に向かって言う言葉!?」
動揺からか、怒りからか、上擦った母の声が可笑しかった。
美良乃は口元に弧を描きながら、振り返る。
母は美良乃の表情にハッと息を呑んだ。
「知ってた、お母さん? 家族ってね、優しくて温かい気持ちでお互いを支えあえる人たちを指す言葉なんだよ。だから、わたしとお母さんは家族じゃないよ。……ううん、家族だったことなんか、これまで一度もなかったんじゃないかな?」
「あなた、どういうつもり?」
「もうお母さんとお姉ちゃんのサンドバッグになるつもりはないってこと」
「サンドバッグって、」
「――先に帰りたくなったら言って。車出すから」
訝し気な母を遮って、美良乃は腰を上げた。
すっきりした気分で、あれほどまでに執着していた母に背を向けて歩き出す。
言い逃げしたような形にはなってしまったが、あの母相手に怯まず、言いたいことをズバリと言えた自分が誇らしかった。
あの人たちといると孤独だった。家庭にも職場にも居場所がなく、辛い、苦しい、死んでしまいたいと思ってアメリカに逃げてきてからも、二人を意識の中から追い出すことができなかった。家族に受け入れらることに執着していたのは、そうすることで自分を拒絶する世界からも認められるはずだと思い込んでいたからだろう。
だが美良乃はもう、母親の愛がないと生きていけないような幼い子供ではないし、姉は劣等感から脱却するために、美良乃を自分より下に留めておきたいだけの小心者であるということに気付いてしまった。
母や姉に限らず、美良乃はこれまで、相手が投げてくる嫌悪感を愚直に正面から受け止めてしまっていた。奴らの目的は美良乃を傷つけることなのだから、美良乃がやっていたことは、投げつけられたナイフを素手で受け止めるようなものだ。傷だらけにならないはずがない。
美良乃が傷つくのを見てほくそ笑んでいるような人間の相手など、してやる道理も義理もない。
(不愉快な相手なら切り捨てていいんだ。それが例え家族であっても)
夫婦が性格の不一致で離婚に至るように、肉親であっても性格の不一致が原因で離れていく例はいくらでも存在する。親だから、一緒に育った姉妹だからといって、必ず理想的な関係が築けるわけではない。
真摯に耳を傾けるべきなのは、心から美良乃のことを思ってくれる人たちからの忠告だったのだ。幸運にも、今は間違った方向を向ていた自分を導いてくれた友人もいるし、これから先をどう生きるのか温かく見守ってくれる祖父母もいる。そして何より――。
――『君はひとりではない。君には僕がいるのだと、覚えておいてほしい』
ルイに言われた言葉が、鮮やかに耳の奥に蘇る。
その意味を今初めて理解した。目の奥が熱くなって、胸の奥から全身にかけて甘やかな震えが走る。
(今、無性にルイの声が聴きたい。――会いたくて、堪らない)
誰かを恋しいと思うことは、時に胸が切なく締め付けられて泣きたくなるのだと、美良乃はその時初めて気が付いた。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




