55. 11月20日 憂鬱な再会【3】
「とにかく、あなたたちの発言は、あまりにも美良乃に対して失礼で不愉快極まりないわ。こんなに真面目で素敵な子に育ってくれたことを誇りに思うべきよ!」
鬱々と考え込んでいると、クローイーがきつい口調で母と姉を嗜めているのが聞こえた。
「まあそれは、ねえ、美奈?」
「もう~! おばあちゃんたら、こんな軽口にムキにならないで。大げさなんだから」
母と姉はちらりとお互いを見やりながら、引き攣った笑顔で返事をした。
クローイーは「もう美良乃を悪く言うのはやめてちょうだいね」とキッパリと言い切り、美良乃に向かってパチンと片目を瞑る。途端に美良乃の目が熱くなった。
――ここには自分を厭わず受け入れて愛してくれる人がいる。
美良乃は水を打ったように静まり返るテーブルを見渡した。
姉は伏し目がちになりながら、親の仇でも成敗しているようにフォークでグラーシュをつついているし、母は涼しい顔で黙々と食事を続けている。
ニッカ―で暮らすようになって周囲の環境ががらりと変わり、友人にも恵まれた。祖父母も美良乃の人格を否定することはない。どんな時でも温かく見守ってくれるし、生活面でも精神面でも惜しみなくサポートしてくれる。
言葉や態度から自分への愛情を感じられる環境にいると心も安定するのか、ニッカ―に来て以来、他人との衝突が目に見えて減った。
理由のひとつに、アメリカ人は日本人と比べてストレートに物事を言うので、美良乃が意見をはっきりと口にしてしまっても、それを失礼だとか思いやりがないと受け止める人が少ないというのもあるだろう。美良乃には自己主張の強い文化が水があっていたのかもしれない。
美良乃は今一度、母と姉をじっと観察した。
――この人たちは、ここまで自分が気にするに値する人間なんだろうか。
「美良乃? どうしたの、お腹いっぱい?」
心配そうなクローイーの声に我に返る。美良乃は慌ててフォークを動かした。
「ううん、ちょっと疲れちゃっただけ。グラーシュ美味しいよ、おばあちゃん!」
夕食後、母と姉はニッカ―のスーパーまで買い物に行きたいということで、美良乃は渋々車を出した。
ハイウェイを走っている間、助手席に座っていた母が困ったような口調でぼやいた。
「それにしても、アメリカ人て本当に身内をべた褒めするのね。日本人にはあまり馴染みがない文化で、異常に感じるくらいよね。クローイーの口調だと、何だかわたしと美奈が美良乃に意地悪してるみたいじゃない、ねえ?」
後部座席で睡魔と戦っていた姉がフンと鼻を鳴らす。
「おばあちゃんにしたら、どんなに不出来な子でも身内だから可愛いんじゃない? それにしても、足下めちゃくちゃ寒いんだけど、本当に暖房効いてるの?」
「エンジンかけたばかりだから、すぐには暖かくならないよ」
「マジで? ポンコツなんじゃないの、この車」
姉は憮然と吐き捨てて黙り込んだ。
スーパーに到着すると、三人は入口で体格のいい男性の買い物客とすれ違った。
「おや、美良乃じゃないか?」
声をかけられて振り返ると、美良乃がバイトしている介護付き老人ホームに、よく母親の見舞いにくる顔見知りだった。
「あ、ニック。こんばんは」
「こんばんは。今夜は冷えるね。雪が降りそうだ」
「ね、本当にお互いに暖かくして過ごしましょう。じゃあ良い夜を!」
「ああ、君もね」
軽く挨拶を交わしてから入店するなり、隣にいた姉が背後で遠ざかっていくニックに侮蔑の視線を向けて日本語で吐き捨てた。
「すっごいデブ! あの二の腕見た!?わたしのウエストくらいあったよ!」
美良乃はギョッとして目を剥く。母もニックをちらりと見やって、「本当ね! あんなに太って恥ずかしくないのかしら」と同意する。
美良乃は不快感に眉を顰めた。
(心の中に留めておけばいいことを、どうしてこの人たちは口に出したんだろう?)
子供の頃、美良乃は思ったことをストレートに口に出してしまうことでトラブルになることが多かったが、成長するにつれて口に出すべきこととそうでないことがあることを学んだ。そして、最も口に出すべきでない話題のひとつが人の容姿に関することだ。
あれだけ散々美良乃の失態を論ってきたにもかかわらず、母と姉は相手が日本語を理解していないことをいいことに、大声で彼の容姿を貶した。
(ちょっと待って! おばあちゃんたちは人を見た目のことで悪く言ったりしないから忘れていたけど、クリステンセン家では世間話と同じくらい頻繁に人の悪口が飛び交っていた)
そう思い出した瞬間、ゾッと背筋が粟立った。
育ちとは恐ろしいもので、骨の髄までしみ込んでいることが多い。今では子供の頃に比べて言動を制御できていると思っていても、知らず知らずのうちに美良乃も辛辣な言葉を吐いて人を貶めている可能性はないだろうか。
(うわあ、だとしたら嫌すぎる! わたし、お母さんやお姉ちゃんみたいになりたくない!)
美良乃が戦々恐々と己を省みている間にも、姉は仏頂面でスーパーを歩き回りながら、「七色のクリームでデコレーションされたカップケーキなんて、食べたいと思うやつの神経が信じられない」とか、「チョコレート入れないと牛乳飲めないとか、何なの? だから太るんだよね」と、よく思いつくなあと感心してしまうくらい、次から次へと文句を並べたてた。
(お姉ちゃんて文句から生まれてきた、文句の女神とかなのかな。一緒にいると疲れる。早く日本に帰らないかな)
かつて自分はこんな環境でどうやって正気を保っていたのかと疑問に思った。
日本で一緒に住んでいた時は、美良乃にとって母と姉は恐ろしくて、逆らうことのできない強大な力を持った絶対的な支配者だった。二人の放つ言葉こそが世界の真理であり、二人の評価が世界の総意であるかのように感じていた。
しかし一旦そこから離れて自分の中で凝り固まっていた視野ををリセットすると、かつていた世界が異様に映る。
姉は劣等感に苛まれているのか、全てのものにケチをつけ、人を貶めないと安心できないようだ。
そんな娘に対して何の疑問もいだかないところを見るに、母も何かが欠けているのだろう。
(ああ、何だか馬鹿みたい。二人も全然、「普通」じゃなかったんだ)
美良乃はスーパーの卵コーナーを眺めながら、自嘲に口元を歪めた。
自分のことを「普通」ではないと散々バカにしていた母と姉は、完璧どころか美良乃より優れていたわけでもなかった。目糞鼻糞を笑うとはこのことだ。
(わたしはもう、この人たちからの評価に怯える必要はないんだ)
人間などひと捻りで殺してしまえるモンスターと違い、母も姉も腕力もなければ特殊能力があるわけでもない。心無い言葉を投げかけることはできても、美良乃に危害を加えることもできないような非力な人間に過ぎない。
(わたしはもう、二人の意見に囚われなくていいんだ)
身体を縛り付けていた重い鎖がするりと解けたような気がして、美良乃は人知れず口元を緩めた。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




