39. 11月5日 迷子の子猫ちゃん【1】
美良乃が暮らす祖父母の家は農業と牧場を営んでいる。庭と牛を放牧しているエリアは繋がっているため、その敷地は広大だ。庭の北側には先日森の賢者が出没した防風林が、南には収穫が終わったトウモロコシ畑が地平線まで広がっている。
予定が何もない日、美良乃は朝食を終えてから庭に出てベンチに座り、コーヒーを飲みながら何もない地平線をただぼんやり眺めることにしている。
「ううっ、寒っ!」
気温五度の中、障害物のない平野を吹き抜ける風は冷たい。美良乃は着ていた上着の襟を掻き合わせた。忙しなかった東京の生活を考えると、庭先で季節の移ろいを感じながらのんびりするこの時間がとても贅沢なものに思えてくる。
コーヒーを飲み終えると、歌を歌いながら敷地を散歩する。どれだけ大声で歌っても誰にも迷惑がかからないので気楽だ。ひとりカラオケし放題なのである。
日本にいた頃は、趣味とストレス発散を兼ねてたまにひとりでカラオケに行っていたが、ニッカ―周辺には日本のようなカラオケボックスがなく、バーでDJに自分の歌いたい曲をリクエストし、客全員の前で歌うスタイルとなる。美良乃には極めてハードルが高い娯楽となっているため、渡米して以来カラオケには行っていない。
美良乃が揚々と歌いながら近づくと、庭と牧場の境目で水を飲んでいた牛たちが迷惑そうな顔をして遠ざかっていく。もしかすると彼らだけは美良乃の歌声に辟易しているのかもしれないが、文句を言われないので良しとする。
牛からの胡乱気な視線を甘んじて受け止めていると、敷地の入口の方から車のタイヤが砂利道を進んでくる音がした。誰かが訪問してきたのだろうか。
砂利道を下って来たのは、いかにも高級そうな黒いスポーツカーだった。サンフランシスコやロサンゼルスでハイウェイをかっ飛ばしていそうな車は、牧歌的な景観の中にあるとやたらと浮いて見える。
「あれって、ルイの車?」
美良乃は自分の身体を見下ろす。くたびれたスウェットパンツにクローイーが農作業をする時に羽織っている上着、おまけにスッピンである。どう考えてもデートしている相手に見せていい状態ではない。
「もう! 何でこういう時に限って来るの!?」
スマホを確認してみると、いつの間にかルイから近所に来たから、顔を見ていきたいというメッセージが入っていた。どうやら大声で歌っていたせいで受信音に気が付かなかったようだ。
ルイが車から降りてくる直前に、美良乃は急いで上着のフードを目深に被った。
「やあ、僕の女神!!」
爽やかな笑顔を振りまきながら降りてきたルイは、黒いコートに細身のデニムパンツと、誰に見られても恥ずかしくない装いだ。ずるい。
彼は美良乃を引き寄せて軽いハグをすると、蕩けるような笑顔を浮かべた。
「今日も君は美しいね。食べてしまいたいくらいだ」
「ありがとう……」
正直、こんな恰好の時に褒められてもちっとも嬉しくないのだが、反論することでもないのでスルーしておく。
「近くに用事があったの?」
「仕事の関係で隣町まで行くのだが、そこのハイウェイを通りがかったものでね」
言いながら、ルイは顎で祖父母の畑の西側にあるハイウェイを示した。
「それじゃあ、あまり時間がないのかな? コーヒーでも飲む?」
「では、いただこうかな。ところで、君はとても歌が上手いのだね」
「えっ!? 聞こえてたの!? 結構な距離があったと思うんだけど?」
「僕は耳がいいからね。君の家の林の近くまで来たら透き通るような美声が聞こえてきたので、てっきり林の中に天使でもいるのかと思ったよ」
「天使って」
大げさな賛辞に、美良乃はいたたまれなくなって視線を彷徨わせた。
「うう……。そうだ! コーヒー! 家の中で飲む?」
「もし良かったら庭を案内してくれるかい?」
「じゃあ、コーヒーを持ってくるね」
美良乃は熱くなった頬を両手で隠しながら家に引っ込んだ。コーヒーメーカーのスイッチを入れ、来客用のマグカップを食器棚から引っ張り出す。コーヒーが淹れ終わるまでバスルームで最低限の身だしなみを整えた。
庭に戻り、ルイと共にコーヒーを飲みながら歩く。生憎とすでに寒い時期なので、夏に見られたような色彩豊かな花々は枯れてしまっていて、何とも物悲しい。
「おや?」
ルイは庭の西端にある物置付近で足を止めた。
「どうしたの?」
「あそこに尻尾があるのだよ」
ルイが指差した先にはトラックが数台入るような大きなガレージがある。中には代々チャドの家に伝わる農具や故障したトラックなどが放置されているのだが、その中の一台、1950年代にチャドの父親が購入したというターコイズブルーのトラックの下に、何やら赤茶色のふさふさしたものが見える。
「猫かな?」
目を凝らしてみると、それはサイベリアンやノルウェージャンフォレストキャットのような長毛種の猫の尻尾に似ていた。二人がゆっくり歩み寄り、トラックまであと数歩という距離まで近づいた時、それは怯えたようにビクリと震えた。
「ヒッ!!」
人間の子供のような甲高い悲鳴が聞こえたかと思うと、尻尾は勢いよく奥の方へと引き込まれた。
「えっ? 子供がいるの?」
祖父母の家には美良乃たち三人以外は住んでおらず、今日はルイ以外、誰も訊ねて来ていないはずだ。美良乃は慌てて地面に膝をついてトラックの下を覗き込む。
トラックの中央付近、ちょうど美良乃の手が届かないような位置に、キラリと光るものが二つある。どうやら人間の子供ではなく、猫のようだ。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




