26. 10月12日 毒を食らわば心まで【2】
どれくらいそうしていただろうか。数分にも数時間にも感じられたそれは、突如として終わりを迎えた。首筋に押し込まれていた何かが、皮膚を引っ張るようにして抜かれる。直後、再びぬるりと肌を舐め上げられ、美良乃は小さく身震いした。
「もう、大丈夫だよ……」
囁いた声は何かを堪えるように震えている。
ルイは美良乃の肩に額を預けるようにしてもたれかかった。荒い息を整えるように何度も深呼吸をする。彼は額に汗をかいているのか、触れている部分のパジャマの布地がしっとりと湿り気を帯びた。
ぼんやりしていた思考が突然クリアになって、美良乃は目を瞬いた。
「えっ……。ちょっ、ちょっと、大丈夫? もしかして、あなたにも毒が」
美良乃の血液を介してヴァイパー族の毒を摂取してしまったのだ。身体にいい訳がない。
「いいや、僕たち吸血鬼には、どんな毒も、効かないよ」
「そうなんだ? 良かった……」
ホッとしたのも束の間、ルイの口からとんでもない言葉が飛び出した。
「ただ、吸血行為は性欲を刺激す」
「いやあぁ!!」
美良乃は力任せにルイを突き飛ばすと、ベッドから慌てて飛び上がった。
部屋の照明をつけると、ベッドの上で黒髪を乱し、とろんとした目で美良乃を見上げるルイが視界に飛び込んできた。上気した頬といい、潤んだ紅い瞳といい、とんでもない色気を放っている。
(ひいいい! そんな目で見ないで!!)
「あなたまさか、よ、欲情してるんじゃないでしょうね!?」
ルイは困ったように眉尻を下げる。
「恋した、女性の血を吸って、欲情しない、吸血鬼は、いないよ……、はぁ」
美良乃の顔が瞬時に熱くなった。羞恥心が極限に達し、衝動的に叫んでいた。
「バカ!! 変態!! 最低!!」
ハッとして口を押さえても後の祭りだ。口から出してしまった言葉はなかったことにはできない。
――ルイは自分を助けてくれただけなのに。
(ああ、酷いことを言っちゃった。わたしって、どうしてこうなんだろう)
ルイと話していると、いつも感情を乱されて考える前に口を開いてしまう。他の人と話している時ならもう少し冷静に口に出すべきことと、そうでないことを仕分けできるのに。
顔を歪めて俯く。自分が情けなくて、眦に涙が浮かんできたが、唇を噛んで堪える。
「本当に、その通りだね。レディにこんなところを見せてしまって、申し訳ない限りだ」
力なく笑うルイに、罪悪感と自己嫌悪で胸が締め付けられた。
彼の殊勝な態度が自分の至らなさを更に顕著にさせる。大人として負けたような気になって、再びイライラが募る。
「何で……」
「ん? 何だい?」
「何でよ! 何で怒らないの!? わたし、助けてくれたあなたに酷いこと言ったんだよ!? ……自分でも最低だってわかってる。でもあなたといると感情的になってばかりで……」
「美良乃……」
こんなのは子供じみた八つ当たりだ。わかっているのに、止めることができなかった。
美良乃は涙で歪んで見えるルイの顔を睨みつけた。
「なのに、何で怒らないのよ! 怒って、嫌いになればいいでしょ! わたしだって、自分のことが大嫌いなんだから! お前みたいな奴はうんざりだって投げ出せばいいじゃない! 家族だって、クラスメイトだって、皆そうしてきたんだから!」
いきなり激昂した美良乃に、ルイは驚愕したようにポカンと口を開いて彼女を見上げていたが、やがて小さく苦笑してベッドから立ち上がった。照明を受けてキラキラ光る瞳の色はいつの間にかサファイアブルーに戻っていた。
「ふふっ。僕が君の感情を乱せているのだったら、それは光栄なことだね」
意味がわからず、美良乃は眉を寄せる。
彼は壊れものでも扱うように、そっと美良乃の手を取った。咄嗟に振り払おうとしたが、流石は男性と言うべきか、吸血鬼というべきか、美良乃ごときの力ではびくともせず、逆にしっかりと握り込まれてしまった。
「何故怒らないのかって質問だったね。それはね、美しいバラには棘があるからさ。君は繊細で傷つきやすいから、ツンツンした棘で必死に自分を守っているんだろうね。僕はそんな君の棘も含めて、全てが美しいと思っている」
「でも、棘が刺さったら痛いじゃない! 傷だらけで、血だらけになるじゃないの! それでもいいって言うの!?」
美良乃の反論に、ルイは恍惚とした表情を浮かべて天を仰いだ。
「嗚呼! 君に与えられるものならば、どんなものでも僕にとってはご褒美だよ! 君の棘で血だらけになるなんて、考えただけでぞくぞくするよ。君の美しい棘に与えられる痛みはさぞ甘美なのだろうね……」
とんだドM発言に、ぶわっと総毛だつ。
「変態か――!!」
「フフッ。まあ、そうカリカリするものじゃないよ。まだ少し毒の影響が残っているようだね」
ルイは美良乃の膝裏を掬いあげると、ベッドの上に座り、美良乃を自分の膝の上に横向きに座らせた。身を捩って逃れようとしても、がっちりと抱き込まれて身動きがとれない。しばしの攻防の末、折れたのは美良乃の方だった。
ルイは美良乃を自分にもたれさせる。諦めの境地に達して抵抗しないでいると、彼は嬉々として長い黒髪を指に絡めて弄びだした。
「毒を食らわば心までと言うだろう? 同じ毒を食らったよしみで、聴かせてくれないか。どうして君が自分のことを嫌いになってしまったのか」
それを言うなら「毒を食らわば皿まで」ではないだろうか。しかも、いつも通り使い方が間違っている。しかし何となく今は突っ込む気分ではないので、心の内に留めておいた。
素直に話す気になったのは、暴言を吐いてしまったことへの罪滅ぼしなのか。
美良乃は適切な言葉を探しながら、自分の生い立ちと境遇について、ぽつりぽつりと話し出した。
幼い頃から変わった子だと言われてきたこと。
母や姉に理解されずに孤独だったこと。
自分は人を不快にさせる邪悪な人間で、今とは正反対の皆に好かれる人にならなければいけないと感じていること。
「邪悪……? 僕は君と出逢ってまだ日が浅いけれど、君は決して他人に危害を加えたり、誰かを貶めようとするような人ではないというのはわかる。だというのに、君は自分のどういうところが邪悪だと思うのだい?」
「人と面白いと感じるポイントが違うのか、興味深いと思ってした歴史の話が残酷過ぎて、クラスメイトにドン引きされたり」
「ふむ。それは単に感性の違いだと思うけれどね」
「皆が説明されなくても理解できることも、わたしは説明されないとわからないし」
「理解できないとは、具体的にどういうところだい?」
「バイト先の先輩に『適当にやっておいて』って言われたけど、どういう状態が適当なのかわからなかったり、社交辞令で『今度遊びに来てね』って言われたのをそのまま受け取っちゃって、本当に家に遊びに行ったら迷惑そうにされたこともある」
「そうなのだね。他には?」
促され、美良乃は再び思いつくまま吐き出していく
呆れた顔をされたり、奇妙な生き物を見るような目で見られたり、陰口をたたかれたりする度に心がすり減っていったこと。
気心の知れない人とのコミュニケーションがとにかく苦痛で、なるべく他人と距離を置いて生きてきたこと。
話を聴く間、ルイは宥めるように美良乃の髪を指で梳きながら時折頷く。
美良乃が話し終えると、ルイは暫く黙っていたが、「君は常に他人を意識してしまっていて、疲れ切ってしまったんだね」と呟いた。
「他人を?」
ルイは頷く。艶やかな黒髪が彼の首筋を滑って流れる様が妙に艶めかしい。
「こうしたい、ああしたいと自分の意見や意志を基に行動を選択しているではなく、自分の行動に他人がどう反応するかということを重要視している。他人の意見に振り回されている、と言うべきか」
美良乃はハッと息を呑んだ。ルイに指摘されたこの瞬間まで、そのことに気付かなかったからだ。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




