24. 10月11日 「美良乃」という名の化け物【4】
※すみません、今回文字数多めです。
あの苦い思い出の教室が七色の光の粒が混じる銀色の煙にまかれ、徐々に霞んでいく。美良乃は絶望に頽れ、滂沱の涙に頬を濡らしていた。
どれ程そうしていただろうか、近くから聞こえた声に、美良乃は肩を震わせた。
「あーた、何という素敵な悪夢を見ているんざましょ。あら、これは……。あーたヴァイパー族の毒を受けたんざます?」
そろそろと顔を上げると、夢魔のバーバラが上下逆さまの状態で宙に浮いていた。相変わらず可愛らしいピンク色のドレスに身を包んでいるが、不思議なことに紫色の髪の毛に一本の乱れもなく、スカートも捲れていない。夢の中だから重力が存在しないのだろうか。
「バーバラさん……。ヴァイパー族って?」
「毒蛇の獣人でござーます」
蛇という言葉に、スーパーで絡んできた蛇女が脳裏をよぎる。
「……わからないです。昼間のあの人かな。……ヴァイパー族の毒をくらうと、悪夢を見るんですか?」
バーバラは逆さまのまま、何処からか取り出したティーカップで紅茶を啜りだした。カップを持つ手の小指が立っているのが何とも優雅な雰囲気を醸し出している。
「ヴァイパー族の毒にも色々あるざます。弱い毒はその人の心の弱い部分を抉り出すざます。トラウマや猜疑心を刺激したり、攻撃的になったりするざますね」
トラウマと聞いて、納得がいった。多分、昼間の蛇女はヴァイパー族で、スーパーで肩を押された時に毒を仕込まれたのだろう。
「……だからあんな夢を見たんですね」
先ほどの教室での光景を思い出しただけで、またポロリと眦から涙が零れ落ちた。
「生物の精気には感情が色濃く滲み出るものなんざます。あーたの精気は濃厚で美味しゅうござーますわね。絶望と怒り、悲しみに肩まで漬かって良い出汁が出てるざます」
出汁って。人を煮干しみたいに言わないでほしい。
「……わたしの悲しみって、味がするんですか?」
「ええ。今あたくしが飲んでいるお紅茶も、あーたの精気をちっとばかしいただいて淹れたものざます。あたくしたち夢魔は魔に属する一族でござーますからね、あーたの夢のとっても美味しそうな匂いにつられて来たら、この通り、萎れた花みたいなあーたがいたんざます」
バーバラ曰く、夢魔や吸血鬼、鬼人など、人間から糧を得る種族は「魔に属する者」と呼ばれている。その中でも夢魔は人間の嫉妬や嘆きなど負の感情が大好物で、遠くからでも嗅ぎつけて寄ってくるのだそうだ。
人間の間では古から、悪魔は清らかな魂を持つ人間を好むといわれているが、悪魔の一種と考えられていた夢魔の間では、清らかな魂を持つ者の精気は珍味の扱いなのだとか。
「あたくしの一番最初の夫は人間でしてね。清廉潔白な方でしたので、精気の味も淡白というか、素材の味そのものと言うか。とにかくあたくしには少々物足りなかったんざます」
一般的な味覚の夢魔には好まれないが、美食家の夢魔には人気が高いのだという。日本人の感覚で言うと醤油もワサビもついていない寿司を食べているような感覚なのかもしれない。
バーバラはくるりと身体を反転させると、突如として現れたガーデンチェアに腰かけた。
「それで? あーたは何故、こんなに嘆き悲しんでいるんざます?」
「……わたしは、自分のことが嫌いなんです。できることなら、わたし以外の誰かになりたいくらい、本当に嫌い。昔から周りと馴染めなくて」
美良乃は先ほどの記憶をぽつりぽつりとバーバラに話した。バーバラは時折頷きながらも静かに話を聴いている。
美良乃が話を終えると、バーバラはティーポットから紅茶のおかわりを注いだ。
「あらぁ、それは悲しゅうござーましたわねえ。悪意を正面から受け止めてボロボロになってしまったなんて、あーたはとっても真面目なんざますねえ。でもま、あーた今は大人になり遊ばしたんざますから、面倒くさい相手は適当にやり過ごす術を身につけたらよろしゅうござーますわ」
「適当に……」
「あたくしは夢魔ざますから、人間同士のコミュニケーションは完璧には理解できませんけれども、これでも八百年以上人間のそばで生きてますからねぇ。全ての人と仲良くするなんて不可能だってことくらいはわかるざます。無理に仲良くしようとしないで、合わない人とは当たり障りないお付き合いに留めておけばいいのではござーません?」
バーバラは紅茶のおかわりをカップに並々と注いだ。何の種類の茶葉なのかはわからないが、いい匂いが鼻孔をくすぐる。
「でも、わたしは殆どの人とうまくやれないんです。それはわたしの性格が悪いから。人間性が醜いから。だからわたしは変わらないといけないんです」
「あーたの性格がいいか悪いか、それは文化や状況にもよるし、あーたの言動を受け止める人間にもよるんじゃござーませんこと? 人は物事を見たいように見て、都合のいいように解釈するものざますからね」
美良乃は目から鱗が落ちる思いで呆然と立ち尽くした。
これまで、人と諍いがあるごとに、周囲からはお前が悪いのだ、お前が異質なのだと責められてきた。だから美良乃はそっくりそのままそれを信じてきた。自分の人間性に問題があるから相手を怒らせてしまう。原因は自分にあるのだから、自分の全てを造り替えないといけないのではないかと思い込んでいた。
――でも、それが単なる思い込みであったとしたら?
バーバラのように、第三者の目線で見れば、また違った捉え方ができたのかもしれない。
ひっそりと期待が湧き上がるも、美良乃は瞬時にそれを否定した。
――いや、そんなことはない。もしかしたら自分はそこまで悪い人間ではないのではないかなんて、期待するだけ無駄だ。
美良乃の葛藤に気付かないバーバラは、ちびちびと紅茶を啜りながら続ける。
「まあ、先ほどお話くださった件についてあたくしの考えを述べるならば、あれはやっかみでござーましょうね。あーたはお綺麗でいらっしゃいますから。いつの時代にも美女は嫉妬されやすいものざます。あたくしの若い頃はそれで大勢の美女が魔女狩りにあって火あぶりになったんざます。おほほほ!」
「ひ、火あぶり」
「妬み嫉みはあたくしの大好物ざますから、あたくしにとっては嬉しい限りですけれどもねぇ」
嫉妬を隠し味に使うととても美味しいクッキーが焼けるんだという、人間にはまったく必要ないバーバラおばあちゃんの豆知識を披露されても困る。
バーバラは優雅な手つきでティーカップを宙に置くと、金貨のような双眸を三日月形に歪めた。
「それで? あーたはご自分が嫌いだと仰いましたけれど、どう変われば好きになれるとお思いなんざます?」
「……今の自分とは正反対の性格でしょうか。誰とでも楽しく会話できて、初対面の人ともすぐに仲良くなれて、誰からも好かれて、グジグジ考えないで即行動できるような人、かな?」
「お~っほほほほほほ!!」
バーバラは腹を抱えながら大爆笑した。笑い過ぎて涙を流しながらヒイヒイいっている。普段のお淑やかなマダムの雰囲気が台無しだ。
「あーたには、そんな人が理想的に見えるんざますか?」
「……そうですけど」
何だか馬鹿にされたような気分で、美良乃はムッと口を尖らせる。
「んまあ、いかにもお若い人間のお嬢さんの考えそうなことでござーますわねえ」
バーバラはどこからともなくレースの縁取りのついた白いハンカチを取り出し、皺の刻まれた目元を上品に拭った。
「そんなに世間知らずな意見だったでしょうか」
「ええ、そりゃあもうお可愛らしいくらいに! ほほほ!」
むっつりと黙り込んだ美良乃に、バーバラは苦笑する。
「あら嫌だ、誤解しないでくださーまし。あーたのその愚直さはあたくしたち魔に属する者にとっては涎が出るほど魅力的な要素でござーますのよ。ルイちゃまが夢中になるはずざます」
「ぐ、愚直……」
褒められているのか貶されているのか判別し難い台詞に、美良乃はより一層口をへの字に曲げた。
バーバラは気を取り直すように小さく咳払いした。
「人間性なんて、その人とよっぽど深く付き合わなければわかりません。あーたが憧れる『明るくて皆に好かれる人』だって、笑顔の裏では泣いているのかもしれないじゃござーませんか。自分の目の前で笑っているから、この人の人生は全てが上手くいっているはずだと決めつけるのは、とんでもない間違いざます」
浅い付き合いだけでは、その人の本質や人間性を培ってきた環境までは見抜けない。
社交的に見える人も本当は人見知りなんてこともある。引っ込み思案でいては社会で孤立してしまい、仕方なく積極的に人と関わるようになったのかもしれない。逆に本来は陽気だった人が何度も傷つけられるうちに、心を閉ざすことでしか自分を守ることができないと学んだのかもしれない。
「あーたにも覚えがあるんじゃござーませんか?」
確かに、美良乃も他人から向けられる言葉や態度に傷つくのに疲れ、人と関わること自体が億劫になった。
「あたくしは、あーたが腰を抜かすほどの至近距離で人間の実態を観察してきましたけれどもねえ、人が他人に見せている姿など、その人のほんの一面に過ぎないんざます」
バーバラは指折りながらいくつか例を挙げていく。
「普段は温厚そうな方が車を運転している時はスピード狂になり、聞こえないのをいいことに車内で他のドライバーへ罵詈雑言を浴びせているとか、学校では生徒から慕われている教師が閨では恋人に鞭で打たれて興奮しているとか。まあ、こんなのはありきたりでござーますわね」
バーバラがどうやってその教師の性癖を突き止めたのかを想像して、美良乃は薄ら寒さを覚えた。もしや、常日頃から人間の日常生活を盗み見ているのだろうか。
「近所では毎朝礼儀正しく挨拶してくれると評判の男が、実は何人もの女性を強姦しては殺害するシリアルキラーだった。病気がちな子供を献身的に看護していた母親が、他人から慈愛溢れる女だと賞賛されたくて我が子に毒を盛っていた、なんてことも全く珍しくござーませんわ」
「それはかなり特殊な例なんじゃ」
「あら、でもあーたもご存知でいらっしゃるでしょ? 毎日わくわく……ゴホン! 眉を顰めたくなるようなニュースがテレビで流れているじゃあござーませんか」
そう言った直後、バーバラはハッとしたように「今時のお若い方はテレビなんてご覧にならないんでござーましたかしら?」と小首をかしげた。
「まあ、兎にも角にも、どんな性格をしていようが、生きている限り悩みも苦労も尽きないざます。この世の全員と楽しめる話題なんてありませんし、全員に好かれる人なんて存在しないざます。そんな人がいたとしたら、それは対面する全ての人にあわせて何千通りもの人格を演じられる八方美人、ハリウッド大絶賛の名俳優でござーましょうね」
バーバラは何処からともなく取り出したクッキーを頬張った。美良乃にも勧めてくれたが、生憎と心の中がぐちゃぐちゃで何か食べたい気分ではないので、丁重に断った。
「それにあーたが嫌いだと仰った、人を困惑させる言動や内向的な性格だって、しっかり社会の歯車のひとつとして作用してるんざますよ? 皆が皆同じ性格だったら、今頃あたくしたちは全滅しているはずでござーますから」
「……そうなんでしょうか?」
「あーた、考えてごらんなさいな。長い歴史の中で人類もモンスターも、そりゃあ数えきれないくらい色々な危機に瀕してきたわけでござーましょう? 戦争、飢饉、天変地異、少数民族の迫害なんかもござーましたねぇ。そんな状況でも、性格も考え方も異なる人がいたから、それぞれの得意分野を生かして今この瞬間まで延々と子孫を繋いでこれたんでござーます」
「……そうなのかもしれませんけど」
言われていることは理解できるのだが、今この瞬間も自分の性格のせいで苦しんでいる美良乃にはあまりピンとこない。
「でも、わたし、このままじゃいけない気がするんです」
バーバラはティーカップに口をつけたまま、呆れたように目をぐるりと回した。
「んまあ~、あーたも相当頑固なお嬢さんざますわね」
一度思い込んだらそこから抜け出すことができないのだと指摘され、不安と自分に対する嫌悪感が一気に膨れ上がる。
「頑固……」
――ああ、またしても人を不快にしてしまった。
罪悪感と自己嫌悪に心がひび割れる。心臓が胸郭に叩きつけられているのではないかと錯覚するほどに激しく脈動し、息が乱れた。
じっとしていられなくなって美良乃は両手で己を掻き抱き、身体を前後に揺すった。
「ごめ、ごめんなさい、頑固で、嫌な奴で、ごめんなさい」
「あらま、どーしたんざます?」
「わたし、どうしてこうなの、どうしたら」
尋常でない様子の美良乃に、バーバラは金貨のような双眸を眇めた。
「これはいけないざますね。ヴァイパー族の毒が思ったよりまわっているようざます。一刻も早く毒を抜かないとならないざます」
ガーデンチェアから勢いよく立ち上がると、バーバラはドレスのポケットからスマホを取り出した。
「――ああ、ルイちゃまでござーます? あたくしですわ。あーたの女神様が大変なんざます! 今すぐ、彼女の家に行ってくださーまし! 住所は?」
美良乃はバーバラの剣幕に戸惑いつつも、住所を教える。
ルイに美良乃の家を教えると、バーバラは通話を終了し、ガタガタと震えながら立ち尽くす美良乃の肩に両手を置いた。
「目が覚めたら、あーたの家にルイちゃまがおいでになりますから、部屋に入れてあげてくださーませ。ルイちゃまが毒を吸い取ってくれるから、身を任せるんざますよ?」
「そ、それって、血を、吸うって、こ、ことですか……?」
息も絶え絶えに問うと、バーバラは真剣な表情で首肯した。
「今すぐにどうにかしないと、あーたは苦しんで暴れまわり、ご家族に襲い掛かる可能性もあるんざますよ!? 血を吸われるぐらい我慢しなさいな!!」
恐怖と羞恥、困惑が表情に出ていたのだろう。いつになく強いバーバラの口調に身を竦めながらも、美良乃は頷いた。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




