22. 10月11日 「美良乃」という名の化け物【2】
気が付くと、美良乃は見覚えのある教室に立っていた。黒板の前には机と椅子が整然と並べられ、教室の後ろには鞄を入れるための棚が備え付けられ、掃除具を入れるロッカーもある。少々年季の入った床は窓から差し込んだ夕日で通常よりオレンジっぽく見えた。
(ああ、ここは、わたしが通っていた中学校の教室だ)
確信した瞬間、激しい忌避感に喉が詰まったようになる。中学生活にあまりいい思い出はない。美良乃にとっては黒歴史を封じ込めたパンドラの箱だった
(わたし、夢を見ているんだ)
早く目を覚まさなければ。そう思うのに、足が床に縫いつけられたように動かない。
「ねえ、何か言ったらどうなの?」
鋭い声がして、美良乃は反射的に背後を振り返った。
いつの間にか、教室の後方、ロッカーの前に二十人近い女子生徒が立っていた。同じクラスだった子ばかりで、中には隣のクラスで見た覚えのある子も混じっている。
険しい顔の彼女たちと対面するように独りで立ち竦んでいる女子生徒の背中を見て、美良乃の心臓が大きく跳ねた。背中の真ん中まである黒いストレートヘアに、制服のスカートから覗く脚はすらりと長い。
(あれは……、わたしだ。……やめて、思い出したくない!)
目を背けたいのに、首を動かすことも、瞼を閉じることもできない。
「あんたさあ、田中くんに告られたって本当? 舞が田中くんのこと好きって知ってたよね? 横取りとか酷くない? 無神経にもほどがあるでしょ」
中学の同級生に、田中という男子生徒と舞という女子生徒がいた。
田中とは学校で話す程度の付き合いはあったものの、舞とはクラスが同じというだけしか接点がなく、友達とも呼べないような関係だった。
舞が田中を好きなことは噂で知っていたが、美良乃にはまったく関係のないことのはずだ。けれど美良乃が田中と友達として会話をしたり、田中が美良乃に好意を抱くことが舞を嫉妬させ、彼女の友達が美良乃に対して悪感情を抱くという可能性を、この時の美良乃には想像もできなかったのだ。
「……田中は友達だし、断ったけど。それなのに何で責められないといけないの?」
「いや、そんなこと聞いてないから。舞が田中くんのこと好きって知ってて、何で近づいたのかって訊いてるの」
「そんなこと言われても……。舞の気持ちとわたしが田中が友達であることと、何の関係があるの?」
首を傾げた美良乃に、別の生徒が苛立たし気に吐き捨てた。
「だから、そういうところが無神経だって言ってるの! 普通、友達が好きな相手には近づかないようにするよね?」
幼い頃から、美良乃は女子独特のコミュニケーションが苦手だった。男子と比べ、あまりにも暗黙の了解が多すぎる。
「美良乃ちゃんかわいいね」と言われたら「ありがとう」ではなく、「そんなことないよ、○○ちゃんの方がかわいいよ」と返さないと自惚れていると思われるとか。
友達とテーマパークへ遊びに行っている時に、皆が乗りたがっているアトラクションに興味がないので、ひとりだけ別のアトラクションに乗ると「協調性がない」と反感を買うとか。
休み時間に連れだってトイレに行ったり、お揃いのハンカチを持つことが仲良しの証しなんだとか。
そんな美良乃にとってはどうでもいいようなことが、彼女たち「普通」の女子にとっては非常に重要であるらしい。逸脱した者は大勢で糾弾した挙句、群れからはじき出したくなる程に。それだったら、学校に入学した時に明文化して学級で配布してくれればいいのに。
その点、男子のコミュニケーションの方が美良乃には単純で理解しやすかったので、会話をするのは男子が多くなっていた。だからと言って、休日に一緒に遊んだりするほど彼らと仲が良かったわけではない。
「友達って……。わたしと舞って、友達っていうほど仲良くないよね?」
美良乃の言葉に、女子生徒たちは更にいきりたつ。
「うわ、ひっど!」
「最低!」
本当のことを言っただけなのに、何故彼女たちはこんなに怒っているのだろう。
「っていうか、あんたっていつも男子と一緒にいるじゃん。どんだけ男好きなの。マジクソビッチじゃん!! キモすぎ!!」
そこかしこから賛同する声が上がる。
「自分のこと可愛いと勘違いして、男子侍らせて喜んでるんじゃないの? 自分はあたしたちとは違うってか?」
「侍らせてないし! 普通に話してるだけなんだけど。わたしが女だから、男子と話しちゃいけないっていうわけ? 意味わからない」
「はあ!? そんなこと言ってないじゃん。被害妄想とかウザいんだけど。色目使うなって言ってんの!」
「わたし田中に好きになってくれなんて頼んだことないし、友達以上の態度取ったことなんてないんだけど? 舞が田中を好きだからって学校にいる女子全員が田中と話しちゃいけないって言うの? それこそ何様のつもり? 大体舞だって、好きなら好きって、正々堂々と田中に言えばいいじゃない。何で皆を巻き込んでわたしに八つ当たりするのか、本当に理解できない」
「や、八つ当たりなんて、酷い……」
舞は洟を啜りながら両手で顔を覆って俯いた。
「舞、大丈夫? ほら、泣いちゃったじゃん!」
美良乃に対面していた女子生徒たちはギラギラした目で睨みつけてくる。
間違ったことなど何も言っていないはずなのに、何故彼女たちは自分を親の仇を見るような目で見るのか、自分の発言の何が相手を怒らせたのか理解できないまま、美良乃は投げつけられる悪意にただ呆然とした。
「いい気になんなよ! お前マジ性格悪いわ」
「ふざけんな、土下座して謝れよ!」
そうだそうだと賛同の声があがり、美良乃は自分を取り巻いていた女子生徒たちのうち二人に両肩を押さえつけられた。そのまま力任せに床に跪かせられる。
「ちょっと、やめてよ!」
必死に抵抗すると、三人目が美良乃の背後に立ち、信じられないくらいの強さで頭を押さえつけてくる。
成す術もなく、美良乃は固い床に額を何度も押し付けられた。周囲からドッと歓声が上がる。
無理やり土下座させて満足したのか、三人は美良乃を解放する。
リーダー格の女子生徒が周囲を見渡して声を張り上げた。
「皆、明日から美良乃のことは無視ね」
舞を守るように肩を抱いていた生徒が、ゴミでも見るような目で美良乃を睥睨する。
「あんた、この学校で一番嫌われてるから。あんたのことを好きな人なんて、誰もいないんだからね。今後一切、わたしたちに話しかけないで」
頭から冷水を浴びせられたように血の気が失せた。悲しみと怒りがぐちゃぐちゃに混じり合って、身体の中心から澱のように全身へ広がっていく。
「こいつの顔見てるとムカついてくるわ。皆、もう行こう!」
「本当にね! 行こう行こう!」
「ビッチを断罪できてスッキリした~」
「ねえねえ、帰りにアイス食べていかない? いつもより美味しく感じるって、絶対」
「いいね、賛成~!」
潮が引くようにして女子生徒たちが去っていき、美良乃は独り残された。
静まり返った教室に、どこからか母の声がこだましてくる。
『普通、考えればわかることでしょう?』
美良乃は俯けていた顔をハッと上げる。
『何でそういうキツイ言い方しかできないの?』
『本当に頑固で融通が利かないね。一緒にいると疲れる』
『まだそんなこと覚えてたの? ひがみっぽいわね』
『言われないとわからないの? 空気読めないとか、マジ使えないわ』
負の感情に引きずられるように、それまで家族に言われた数々の言葉が記憶の中から噴き出してきて、汚泥のように鼓膜に纏わりついていった。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




