20. 10月7日 森の賢者の発声練習
その日の夜、バイトでくたくたになって帰宅した美良乃は、クローイーがとっておいてくれたシェパーズパイという、柔らかめのミートローフのようなもの上にマッシュポテトを載せてオーブンで焼いた料理を夕飯に食べ、さっとシャワーを浴びるとベッドに潜り込んだ。
深夜、浅い眠りについていた美良乃は、妙な音で目を覚ました。
美良乃が住んでいる祖父母の家は畑の真ん中で、祖父のチャドは農業の傍ら肉牛も飼育しているため、牛の鳴き声が聞こえることは多々あるのだが、その音は牛とも、周囲を徘徊しているコヨーテとも違う不思議な音だった。
「ままままままままま~♪」
じっと耳を澄ませて聴いてみると、その音は人間の男性の声のように低く、まるで音楽の授業で習った発声練習のように、徐々に音程を上げていく。
「嫌だ。どこかの酔っ払いが敷地に入ってきた……?」
自宅から隣の家まで、歩いて五分はかかる。そのため、隣の家の敷地で誰かが騒いでいても、ここまではっきりと騒音が聞こえることはまずないと言っていい。
美良乃の脳裏に、先日観たドキュメンタリーが蘇る。人里離れた農場に強盗が押しかけて、一家全員が惨殺されたものの、目撃情報などが皆無で未解決のままである、という内容だった。人里離れた農場という条件には、美良乃が住んでいるこの家も当てはまる。
(どうしよう。おじいちゃんを起こした方がいいのかな? それとも、地下にあるライフルでも取りに行った方が……)
深呼吸をして気持ちを落ち着けようとしたが、恐怖で鼓動が速まっていくばかり。
そろりと窓際によって外の様子を窺うが、月の光に照らされて紺に銀を混ぜたような普段の牧場の夜景が見えるだけだった。
「ままままままままま~♪」
今度は先ほどよりはっきり聞こえた。
「やっぱり……。発声練習してる。でも、誰が……?」
美良乃は反対側の窓へ忍び寄り、そっと外を覗き見た。北向きのこの窓からは、チャドの先祖が敷地の北側に植えた防風林が見える。
庭と林の境目に、大きな鹿のような影が見え、美良乃は息を呑んだ。
「ん~まままッゲッホゲホゲホ!! いかん、痰が……。もう年かなぁ」
低い声で独り言を言っているので、どうやら鹿ではないようだ。しかもぶつくさ言っている内容がオッサン臭い。
声の主は林から少し庭の方へ移動したようで、月光の下へ歩み出てきた。
それは不思議な生き物だった。上半身は頭に鹿の角を生やした人間の男で、臍から下は鹿だった。月明かりで色までははっきり見えないが、どうやら普通の人間の肌の色ではないようだ。もしかすると、あれが以前フェルナンドが言っていた、緑色の肌の鹿版ケンタウロスだろうか。
(誰!? 何でこんな夜更けにうちの敷地で発声練習しているの? おばあちゃんたちが起きちゃうじゃない……)
鹿男は気を落ち着けようとしているのか、前脚でさっさかと庭の芝生を引っ掻いている。あのままでは、クローイーが毎日せっせと手入れをしている自慢の庭が台無しだ。
美良乃は急いで着替えると、ミネラルウォーターのペットボトルと、懐中電灯を持って静かに外へ出ていった。
美良乃の足音が聞こえないのか、鹿男は軽く首をストレッチした後、再び発声練習を始めた。
「んんっ、まっ、ま~ま~♪」
「ちょっと、すみません!」
慌てて声をかけると、鹿男は「うおおお!!」と叫んで文字通り飛び上がった。大分驚かせてしまったようだが、叫びたいくらい吃驚したのはこっちの方だ。
「な、誰だね!?」
「この家の人間です。すみませんけど、夜遅いんで大きな声出すの止めてもらえませんか?」
誰だはこっちのセリフだと思いつつ、訝し気にこちらを見やる男を軽く睨んだ。
顔を見上げると首が痛くなるくらい、かなり背の高い男だ。顔は三十代後半くらいに見える。癖の強い髪は肩甲骨くらいまでの長さがある。眉がしっかりとしていて、引き結ばれた薄い唇のせいか、意志の強そうなそうな印象を受けた。顔に生えた口髭と顎髭は、よく見ると毛ではなく蔦が密集したものだった。
「それはそれは! 申し訳ないことをした。しかし、私の声は魔力が籠っているから、普通の人間には聞こえないはずなんだがね」
「そうなんですか? 友達に魔女はいますけど、わたしは普通の人間なんですが」
「ああ、魔女と親しいのか。では、その魔力の影響を受けているのかもしれなッゲホゲホゲホ!! いかん、痰が」
美良乃は持ってきたペットボトルを鹿男に差し出した。
「これ、良かったらどうぞ」
「ああ、かたじけない」
男は素直に水を受け取ると、ごくごくと飲んだ。
「はあ、年を取ると、痰がからんでいけないね。助かったよ、人間の乙女」
「美良乃です」
「美良乃くんか。素敵な名前だね。私はマリオ。妖精族の一種で、森の賢者と呼ばれる一族の者だ」
「そうなんですね。……あの、それで、マリオさんは、何でうちの庭先で発声練習をされていたんでしょうか?」
マリオは肩を竦めた。
「この前の満月の時に、フェアリーリングを通って妖精界の実家に帰省していたのだが、帰り道の座標が狂ってしまっていたようでね。君の家の林の中に出てきてしまったのだよ」
何でも、フェアリーリングは現世と妖精界を繋ぐポータルの役割を果たすのだそうだ。フェルナンドからフェアリーリングの存在を聞いた時に何の目的で作るのかと思っていたが、思わぬところで謎が解けた。
「それで、うちの庭に出てきちゃったのは理解できるんですが、何故そのままここで発声練習しようと?」
「だって、そこに林があったから」
どこかの登山家みたいなことを言い出したが、まったく意味が理解できない。何故林があったら歌いたくなるのだろう。
「私たち森の賢者は、その名の通り、森や林を愛する種族なのだよ。胸に溢れ出るこの愛を歌声に乗せることで、母なる自然に感謝を捧げているのだ」
「……はあ」
だったら自分の家の敷地でやればいいではないか。何ともはた迷惑な。
美良乃の呆れを感じ取ったのか、マリオは眉尻を下げて頭をポリポリ掻いた。
「いや、すまん。もう少しでモンスターショーがあってな。時間があればつい練習したくなって」
「モンスターショー?」
「ああ。各種族の中で誰が一番魅力的かを競うコンテストなのだよ。人間もミスコンとか、ドッグショーとか開催するだろう? あれと同じだと思ってくれてかまわない」
「なるほど。それで、森の賢者さんたちは歌声を競うってことですか?」
「その通り。森の賢者だけではなく、妖精族というくくりだけれど」
だから歌の練習をしていたのか。美良乃は納得して頷いた。とはいえ、真夜中によその家の敷地内でするのはいただけない。
「各種族が揃うって、何だか面白そうですね」
「おや、興味があるのかい? では、この招待券をあげよう」
言うなり、マリオは髭の中に手を突っ込んでごそごそ何かを探りだした。「あった、あった」と呟きながら、長方形のチケットを二枚差し出してくる。髭の中に収納スペースがあるなんて、誰が想像できただろうか。
「友達と来るといい」
「ありがとうございます」
アリアがモンスターショーに参加するとは聞いていないので、誘ってみよう。
「ところで美良乃くん。私の歌を聞いて、感想をもらえないだろうか?」
「それはもちろん、構いませんけど。本当に祖父母には聞こえませんか?」
「君の祖父母が人間なのであれば、聞こえないはずだ」
「う~ん……。わたしも人間なのに聞こえたんだし、念のため家からもう少し離れてもらっていいですか、庭の西の端にベンチがあるんで、そこまで行きましょう」
美良乃はマリオを誘導した。この家の庭は東京では考えられないくらい広いので、端に移動すれば大きな声を出しても二人を起こさないはずだ。
美良乃がベンチに座ると、マリオは髭の中から三日月形のタンバリンを取り出して美良乃に渡してきた。もしや、これでリズムを取れというのだろうか。
美良乃はタンバリンとマリオを交互に見やったが、彼はビシッと親指を立てて頷いただけだった。彼は美良乃から少し離れた位置に立って咳払いをする。
(ええ~。どうしろっていうの、これ? 歌が始まったらリズムに合わせて鳴らせばいいの?)
美良乃が悩んでいる間に、マリオは突然歌い出した。
それは「歌」というよりは「音」だった。森の中で聞こえるさざめきのような音。風に木々が揺れ、木の葉が擦れ合う音がしたかと思えば突然変調し、温かな日差しの中で鳥がさえずっているように聞こえる。
何とも美しい。美しいのだが――。
(……これに、どうやってタンバリンをあわせろと??)
カラオケなどで合いの手を入れたりするのとは訳が違う。悩んだ挙句、美良乃はそっとタンバリンをベンチの上に置いて、マリオの歌に集中した。
ひとしきり歌い終わると、マリオは胸に手を当てて一礼する。美良乃は立ち上がって拍手を送った。
「どうだったかね?」
「とっても素敵でした。何だか、暖かい日に庭でベンチに座ってぼーっとしている時のことを思い出しました」
我ながらとても褒めているように聞こえなかったが、本当にそう思ったのだから、仕方がない。しかし意外にも、マリオは嬉しそうに前脚で芝生をさっさか掻いた。芝が抉れるので止めて欲しい。
「そうか!? そんなに褒められると照れてしまうな」
マリオは美良乃が返したタンバリンをいそいそと髭の中にしまいながら、ニヤニヤと相好を崩した。あの感想で正解だったらしい。機嫌を損ねなくてよかった。
「おっと。もう遅い時間だな。では、私はこれでお暇しよう。今夜は歌を聞いてくれてありがとう、美良乃くん」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました。コンテストに出場されるんですよね? がんばってください」
「ああ、また、モンスターショーで会おう!」
マリオは颯爽と林の中へ飛び込んで行った。
「……何だか、不思議な出会いだったな。これって、夢魔のバーバラさんが見せてる夢とかじゃないよね?」
美良乃は何となく落ち着かず、キョロキョロと周囲を見渡しながら部屋へ戻った。
再びベッドに潜り込むと先ほどの光景が脳裏に蘇る。我ながら、あんな不審な鹿男相手によく平然と会話ができたものだ。
「わたし、意外とモンスターたちと上手く交流できてるんじゃない?」
日本にいた頃、美良乃は家族以外の人間、特に同じ年頃の若い女性に対してとにかく苦手意識を持っていた。それなのに、ニッカ―に来てからも知らない人には身構えてしまうが、身体が凍り付いたように動かなくなることはない。
――それは一体、何故なのか。
美良乃はニッカ―に引っ越してきてからの自分と他人の行動を省みた。
「……もしかしたら、違うカテゴリーの人だから、なのかも」
日本にいた頃、美良乃は自分と同じ「日本人の若い女性」というカテゴリーに属している人が苦手だった。何故なら美良乃は自分が同じカテゴリーの人たちのなかでは浮いた存在で、学校の級友やバイト先の若い女性から陰口をたたかれ、仲間外れにされてきたからだ。
もし美良乃が外国人だったり違う年代だったなら、ちょっと変わっているのも文化の違いのせいやジェネレーションギャップのせいだと寛容に受け取られたのではないだろうか。
しかしここでは美良乃は「外国人」枠に入っている。美良乃が若い日本人女性としては突飛な言動をしたとしても、殆どの人は「こいつは文化の違う国で育ったんだし、違っているのは当然だ」と受け止めてくれるはずだと、美良も無意識のうちに思い込んでいる。だからこそ、ここでは日本にいた時ほど硬くならずに人と接することができているのだ。
相手がモンスターの場合はよりそれが顕著になる。最初から相手は自分とは全く別の生き物だとわかっているからこそ、彼らと気楽に接することができるし、その違いを楽しむことができているのだろう。
例えが悪いかもしれないが、犬猫は人間とは全く別の生き物だと理解しているからこそ、お尻の匂いを嗅いだり、毛づくろいをしたりと人間では考えられない行動も気にならない。それと同じことだ。
妙に納得して、美良乃は何度も頷いた。
(そっかあ。そういうことか。――あれ、ひょっとして、わたしってモンスターと結構相性がいい?)
瞼裏に黒髪の吸血鬼がぽわりと浮かんできたが、美良乃は勢いよく頭を振ることで彼の姿を消し去った。
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