第7話 白い花を踏む音
森は夜の色に沈んでいた。
木々の隙間から月が滲み、地面に白い花の群れが浮かび上がる。
まるで無数の瞳が、こちらを見ているようだった。
私はその花を一輪、足で踏んだ。
柔らかな茎が潰れ、冷たい汁が足元に広がる。
その感触に、奇妙な快楽が走った。
(……こんなはずじゃなかったのに)
“美しくなりたい”――それだけだった。
なのに、気づけば“奪う”ことが日常になりつつある。
血肉転化を維持するための代償。
生命力を得るために、誰かの命を飲み込まねばならない。
『あなたより美しい命を奪えば、あなたはより輝く。』
あの声が囁くたび、胸の奥がざわめく。
恐怖でも罪悪感でもない。
――飢えだ。
月光に照らされ、湖が鏡のように光る。
そのほとりに、一人の女が立っていた。
金の髪が夜風に揺れ、肌は月より白い。
美しい。
この森には似つかわしくないほどに。
「……こんなところで何をしているの?」
声が自然に漏れた。
女は驚いて振り向く。
その目が私を映した瞬間、世界が静止したように感じた。
――その瞳に、私は“怪物”として映っている。
だが次の瞬間、彼女の表情にほんのわずかな同情が浮かんだ。
それが、私の中の何かを壊した。
(憐れまれるくらいなら、いっそ――)
私は一歩、二歩と近づく。
白い花を踏みしだく音が、月夜に響く。
「怖がらないの?」
「あなた……泣いてるの?」
その言葉に、心臓が強く脈打った。
気づけば、頬を伝うものがあった。
涙。
それは、人間だった頃の名残なのかもしれない。
(違う……泣いてるのは、きっとこの体だ。)
次の瞬間、私は女に飛びかかっていた。
理性の欠片もない衝動。
爪が肌を裂き、血が月光を弾く。
その温かさが、全身に広がる。
『奪え。
美を求める者に、罪の余地などない。』
声が響き、世界が赤く染まる。
女の体から流れ込む生命力が、私の中に満ちていく。
眩暈がするほどの快感。
肌が滑らかに、髪が艶やかに変化していくのがわかる。
それでも、心は冷たかった。
「……ごめんなさい。」
その一言だけが、夜の空気に溶けた。
夜が明ける頃、私は湖のほとりに立っていた。
水面には、人間の女の顔が映っている。
涙の跡が消え、虚しさと少しの高揚感だけが残っていた。
「これが……望んだ姿?」
声は震えていた。
美は手に入れた。
だがその手の温もりは、もうどこにもない。
風が吹き、白い花が一斉に揺れる。
その中に、赤く染まった一輪があった。
あの女の血が、花に吸い込まれたのだ。
「……きれい。」
その言葉が、なぜか呪いのように響いた。
私は花を見つめ、微笑んだ。
けれどその笑みは、もう人のものではなかった。