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第6話 仮面の微笑

村の朝はまぶしかった。

森とは違う匂い――人間の匂いだ。

焚き火の煙、焼きたてのパン、石畳を行き交う人々。

その全てが、懐かしさと痛みを同時に呼び覚ます。


今の私は、“人間の女”の姿をしていた。

淡い肌、滑らかな頬、肩に流れる黒髪。

水桶を覗けば、そこには見知らぬ女が映っている。

願ってやまなかった“美しい自分”に近づいている。

けれど、その美しさは借り物だ。


『血肉転化(擬人化)――変化持続時間、残り五十八分。』


頭の奥で、冷たい声が告げた。

一時間を過ぎれば、私はまた緑の肌と黄色い眼を持つゴブリンに戻る。

それでも構わなかった。

一瞬であっても、見られたい。

醜いまま忘れ去られるより、

美しいまま消える方が、ずっとましだった。


村の通りを歩くと、視線が刺さる。

その一瞥に、生の実感が宿る。


(見られている。今だけは、私を見てくれている……)


胸の奥が震えた。

だが同時に、体の芯が冷たく軋む。

血肉転化の代償――生命力の消耗。

内側から少しずつ、干からびていくような感覚だ。


『生命力の回復には、他の命を奪う必要がある。

 自分より美しい存在ほど、効率が高い。』


その言葉を聞くたび、

どこか遠くで笑う神の声が聞こえる気がした。


パン屋の前に、少女が立っていた。

金色の髪が朝の光を掬い、白い頬がやわらかく光を返す。

笑うたび、世界が少しだけ明るくなる。


――綺麗だ。

どうあがいても、今の私では敵わない。


胸の奥に、ざらついた渇きが走る。

喉が熱く、息が荒くなる。

これは欲望ではない。

本能の底から湧き上がる、“奪いたい”という叫びだった。


(……この子の命を奪えば、私はもっと長く、美しくいられる?)


ほんの一瞬、そんな考えが脳裏をかすめた。

そして、すぐに自分を呪う。


(何を考えてるんだ、私は……)


その時、少女がこちらを見上げた。

まっすぐで、曇りのない瞳。


「お姉さん、大丈夫? 顔色、悪いですよ。」


優しさは、刃のようだった。

心が一瞬、凍りつく。

この世界で、そんな目で見られたことがあっただろうか。


「……ありがとう。少し、疲れてるだけ。」


少女は安心したように笑い、焼き立てのパンを差し出した。

それは柔らかく、あたたかかった。

まるで“人の温度”そのもののように。


「旅の人でしょ? これ、少しだけど。」


「……ありがとう。」


その一言を絞り出し、私は背を向けた。

あの優しさに触れてしまえば、

たぶん私は――この子を殺してしまう。


村の外れ。

草の香りの中で、変化がひび割れ始める。

皮膚がざらつき、指先が鈍くなる。


『血肉転化、残り三分。』


「……もう、戻る時間か。」


鏡のような水面に映る顔が、ゆっくりと翡翠色を帯びていく。

それでも、不思議と怖くなかった。

美であることの代償が、あまりにも重かったからだ。


『それでも、美を望むの?』


静かな声が頭に響く。

私は息を吸い、爪を見た。

人を掴む指。

命を奪う手。


「……望む。

 誰かに見られる瞬間がある限り、私は“美”を捨てられない。」


『なら、奪いなさい。

 あなたより美しい者を。

 それが、あなたの美を繋ぐ糧になる。』


私は笑った。

苦く、乾いた笑みだった。


太陽が昇り、変化が崩れ落ちる。

肌が緑に戻り、髪が縮れ、骨格が変わっていく。

視線が消え、世界の光が色を失う。


「……これが、現実か。」


しゃがみ込み、握りしめたパンの温もりが消えていく。

指の隙間からこぼれた欠片が、土に落ちた瞬間、

それはまるで血のように染み込んだ。


「次は……もっと美しく、もっと長く。」


『理解しているでしょう? そのために何をすべきか。』


(……分かってる。)


空を見上げる。

太陽が雲間から覗き、光が痛いほど眩しい。

流れ落ちる涙は、どす黒く濁っていた。


――そして、村の少女。


「……あの人、もう行っちゃったんだ。」


彼女は店先で空を見上げた。

ふと、足元の草の間に何かが落ちているのに気づく。

小さな、薄い鱗片。

緑がかった灰色の欠片が、朝日にきらめいた。


「これ……さっきのお姉さんの……?」


指先でそれを拾うと、かすかにぬくもりが残っていた。

人のような、けもののような、奇妙な匂い。


少女は不思議そうに微笑み、その欠片を胸元にしまった。

その瞬間――森の奥の影が動いた。


黄色い眼がふたつ、静かに彼女を見つめている。

それは、憧れにも似た視線。

けれど同時に、狩人の眼だった。

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