第5話「血肉転化(けつにくてんか)」
朝霧が森を覆っていた。
血の月の夜が明け、世界はまるで息を潜めるように静まり返っている。
私は湖のほとりにしゃがみこみ、手のひらを見つめた。
――そこには、もう“人間に似た”手があった。
細く、節が滑らか。
昨日までの緑の皮膚は、淡い翡翠色に変わり、
指の動きに合わせて光が揺れる。
確かに美しくなった。
だがその美しさの裏で、胸の奥が鈍く痛んでいた。
心臓の鼓動が弱くなっている。
血が、重たい。
『――それが“代償”よ。』
頭の奥に、フィーネの声が響いた。
優しいのに、どこか冷たい声。
『“血肉転化”。
吸収した生命を、美へと変換する魔法。
けれど、その分、あなた自身の生命が削られる。
美しくなるほど、死が近づくの。』
「……つまり、命を削って見た目を磨くってことか。」
『そう。
この世界では、“美”とは常に“死”の隣にある。』
私は笑った。
それは、皮肉でも諦めでもなく――どこか懐かしい感情だった。
(人間の頃だって、似たようなもんだった。
寝る間を削って働いて、無理して笑って……
少しでもマシな顔で、授業に立とうとしてたっけ。)
ただ、“磨く対象”が変わっただけだ。
今は鏡の前じゃなく、血の中で。
私は湖面を覗き込む。
そこに映る自分の顔は、もう完全なゴブリンではなかった。
瞳は琥珀色、鼻筋が通り、頬の輪郭がわずかに細くなっている。
人間とゴブリンの中間――危うくも人間に近い姿。
「……綺麗になってる。けど……なんか、寒い。」
吐いた息が白い。
生命力が削られているせいだろう。
体が軽く、でも内側が空洞みたいに感じる。
『美しさとは、欠けた魂の輝き。
だからこそ、人はそれに惹かれる。』
「……なんか説法みたいだな。」
『あなたが教師だった頃と、そう変わらないでしょう?』
言われて、苦笑した。
確かに、昔は同じようなことを言っていた。
“努力は尊い”とか、“自分を磨け”とか。
今思えば、それは他人に“削れ”と言っていたのと同じだったのかもしれない。
「……俺は、何も変わってないな。」
『変わっているわ。
今のあなたは、言葉じゃなく、命で“教えている”。』
「教える、か……誰に?」
『それは、あなたが決めること。
けれど――人の村が近いわ。』
「村?」
『ええ。森を抜けた先の丘。
そこに、あなたがかつて憧れた“人間の美”がある。』
人間。
懐かしく、そして苦い響き。
その言葉を聞くだけで、心臓が早鐘を打つ。
「……見に行く。俺が、どれだけ遠くなったか確かめたい。」
森を抜ける途中、足がふらついた。
立ち止まるたびに視界が白む。
体の芯から熱が抜けていくようだ。
――美しくなった代償が、確実に命を蝕んでいた。
(……笑えるな。
美しくなるほど、死に近づくとか。
まるで、女神の呪いみたいだ。)
けれど、止まれなかった。
前に進むたび、枝の影が私の体を撫でる。
そのたびに“人間だった自分”が少しずつ剥がれていく気がした。
やがて、森が途切れた。
眼下に、小さな村が広がっている。
煙突から立ちのぼる白い煙。
人々の声。パンの匂い。
それだけで胸が締めつけられた。
「……帰ってきたみたいだな。」
呟いた瞬間――声をかけられた。
「おい、誰だ!」
門の近くの衛兵が、槍を構えて私を見た。
彼の目が、一瞬だけ“怪物”を見るそれに変わる。
体の奥で警告が鳴った。
『発動条件:外的敵意検知――“血肉転化(擬人化)”強制発動。』
「……やめ――!」
止める間もなく、光が弾けた。
皮膚が燃えるように熱くなり、髪が伸び、瞳の色が淡く変わる。
骨が軋む音。
命が削られる音。
それでも、体は“美”を選んだ。
(ああ……やっぱり……俺はまだ、欲してるんだ)
痛みが過ぎ去ると、衛兵の目が驚きに変わった。
もう、彼には怪物は見えていない。
ただ一人の、やつれた旅人の女が立っているだけ。
「す、すまない……旅の人か?」
私は微笑んだ。
唇の端が、震えていた。
冷たくなった体を悟られないように。
「……ええ。森を抜けてきたの。」
「森を? 命知らずだな……。ここは《トゥーレ村》だ、休んでいけ。」
そう言われ、私はゆっくり頷いた。
心臓が一瞬、跳ねたように痛む。
ほんの少しの時間の“美”。
けれど、その代償に、確実に寿命が削られたのが分かる。
(……笑える。
美しくなるほど、死が近づく。
でも、それでも、見られたかった。)
私は門をくぐった。
子どもの笑い声、鐘の音、パンの香り。
そのすべてが、胸を締めつけた。
水桶に映る自分の顔は、もうゴブリンではなかった。
人間の女のように微笑んでいた。
でもその瞳の奥――どこか、深い闇が渦を巻いていた。
『進化値:65%』
『副作用:生命力-12%/回』
『状態:擬人化 成功』
『感情:渇望/自己欺瞞』
『美しくなるたび、あなたは少しずつ“死”へ近づく。
それでも――望むのね?』
「……ああ。
俺は、美しく死ねるなら、それでいい。」
風が吹く。
フィーネの声が遠のく。
そのときの私はまだ知らなかった。
“美”が命を削るだけでなく、心までも削っていくということを。