第4話 狩猟の夜
月が赤い。
森の影がいつもより深く、息をしているみたいに蠢いていた。
“血の月”――フィーネが言っていた、危険な夜。
獣たちは狂い、狩る者と狩られる者の境界が曖昧になる。
その中で、私はひとり、岩陰に身を潜めていた。
空腹。
昨日から何も食べていない。
それなのに、胃の奥で渇いた火が燃えている。
普通の空腹とは違う――これは、もっと“原始的な飢え”だった。
(……なんだ、これ。喉が、熱い……)
息をするたびに、血の匂いが刺す。
どこかで誰かが殺されている。
嗅ぎ取った瞬間、体が勝手に動き出した。
音もなく、四肢で走る。
木々をすり抜け、草を裂き、泥を蹴り上げる。
もう“人間の体”じゃない。
体が軽く、風の流れを肌で読める。
それが心地いい――自分でも怖いほどに。
やがて、私は見つけた。
森の開けた場所で、小柄な亜人の少年が狼に襲われていた。
肩を噛まれ、地面に押し倒されている。
血が噴き出し、月光に照らされて黒く光っていた。
(やめろ……! 動け!)
そう思っても、私の体は止まらなかった。
――いや、止められなかった。
本能が叫ぶ。
「喰え」と。
私は跳んだ。
狼の背中に飛びかかり、喉笛に牙を突き立てる。
肉が裂け、血が溢れた。
温かい液体が口の中に流れ込み――
意識が一瞬、真っ白になる。
「――あ、ああぁっ……!」
快感だった。
飲み込むたびに、体の中の“渇き”が満たされていく。
筋肉が膨らみ、皮膚がわずかに滑らかになっていく。
脳が“これが正しい”と告げている。
(ちがう、俺は――こんなはずじゃ……!)
けれど、止まらなかった。
牙を抜いたとき、狼はすでに動かなくなっていた。
私は荒い息を吐きながら、その場に膝をつく。
血の味が甘く、そして苦い。
人間の頃の“倫理”が、何かに踏みにじられていく感覚。
それでも――美しくなりたいという願いだけは、まだ胸の奥で燃えていた。
「……“美”って、なんなんだろうな」
その言葉が、唇の端から零れた。
すると、視界の端で光が瞬いた。
狼の血を吸った私の手の甲に、うっすらと光の紋様が浮かんでいる。
『進化値+25% 条件達成:狩猟』
(……これが、“進化”か)
自分の体が、少しずつ変わっていくのを感じた。
腕がしなやかになり、指が細くなっていく。
肌の緑が、ほんの少し薄れて――
淡い翡翠色に近づいていた。
その瞬間、か細い声が聞こえた。
「……た、助けて……」
さっきの少年だ。
まだ息があった。
私は狼の死体をどけ、彼の側に膝をついた。
「大丈夫。もう安全だ。」
けれど、少年の目が私を見た瞬間――その瞳が絶望に染まった。
「……や、やめてくれ……! 来るな、化け物っ!」
(……そうだよな)
血に塗れたゴブリン。
人間の言葉を喋る異形。
恐れられて当然だ。
私は手を引っ込め、静かに立ち上がった。
「……逃げろ。早く。」
少年はよろめきながら森の奥へと走っていった。
残ったのは、冷たい風と、死体と、私。
そのとき、頭の中にフィーネの声が響いた。
『それが、“美”を求める者の宿命よ。
奪わなければ進めない。
けれど奪えば、同時に“愛される資格”を失う。』
「……お前は、最初から分かってたのか。」
『ええ。
“美”とは、他者の目によって定義されるもの。
見られなければ、それは存在しない。
けれど、あなたは“見られること”を拒絶された。』
「……皮肉な話だな。」
『それでも、進むの?』
私は血の月を見上げた。
その赤が、心の奥まで染み込んでくる。
「進むよ。たとえ、誰にも見られなくても。」
『……そう。なら、次の夜に。』
声が消える。
月の光が淡く揺れた。
私は自分の手を見る。
その手はもう、かつての人間の手とは違っていた。
細く、美しく、そして――冷たい。
(もしこれが、“美”の始まりなら……)
私はゆっくりと唇を舐めた。
血の味が、まだ消えない。
それでも、確かに“満たされた”感覚があった。
――そして、森の奥でまた、獣の遠吠えが響いた。
私は再び走り出した。
次の獲物を、次の“進化”を求めて。
『進化値:40%』
『新スキル獲得――【血肉転化】:吸収した生命を美へと変換する能力』